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「ボナ・スフォルツァ」の版間の差分

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[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ]]と[[ナポリ王国|ナポリ王女]][[イザベラ・ダラゴナ|イザベラ]]の間に末娘として、[[ヴィジェーヴァノ]]で生まれた。[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の皇后[[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]]の姪にあたる。名前は父方の祖母ボナ・ディ・サヴォイアにちなむ。1518年にジグムントの再婚相手に選ばれた。1524年に母イザベラの死に伴い、[[バーリ]]と[[ロッサーノ]]の[[公爵]]位、および[[ブリエンヌ家]]の請求に基づく[[イェルサレム王国]]の[[王位請求者]]の地位を相続した。
[[ミラノ公国|ミラノ公]][[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ]]と[[ナポリ王国|ナポリ王女]][[イザベラ・ダラゴナ|イザベラ]]の間に末娘として、[[ヴィジェーヴァノ]]で生まれた。[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の皇后[[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]]の姪にあたる。名前は父方の祖母ボナ・ディ・サヴォイアにちなむ。1518年にジグムントの再婚相手に選ばれた。1524年に母イザベラの死に伴い、[[バーリ]]と[[ロッサーノ]]の[[公爵]]位、および[[ブリエンヌ家]]の請求に基づく[[イェルサレム王国]]の[[王位請求者]]の地位を相続した。


彼女はポーランドに洗練された[[ルネサンス|ルネサンス文化]]を持ち込み、繁栄の時代を築いた。ボナは[[イタリア]]野菜を料理に用いて多くの料理を同国に紹介したので、現在のポーランド料理の母といわれている。夫の死後即位した長男[[ジグムント2世]]が、[[カルヴァン派]]を信仰するリトアニア人[[バルバラ・ラジヴィウヴナ]]と結婚すると、国民の大多数を占める[[カトリック教会|カトリック]]側に立って反対した。証拠はないが、戴冠後まもない新王妃バルバラに毒を盛って殺したといわれている。
彼女はポーランドに洗練された[[ルネサンス|ルネサンス文化]]を持ち込み、繁栄の時代を築いた。ボナは[[イタリア]]野菜を料理に用いて多くの料理を同国に紹介したので、現在のポーランド料理の母といわれている。夫の死後即位した長男[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]が、[[カルヴァン派]]を信仰するリトアニア人[[バルバラ・ラジヴィウヴナ]]と結婚すると、国民の大多数を占める[[カトリック教会|カトリック]]側に立って反対した。証拠はないが、戴冠後まもない新王妃バルバラに毒を盛って殺したといわれている。


1556年に[[バーリ]]へ帰国したが、翌年に個人秘書ジャン・ロレンゾ・パッパコーダによって毒殺された。多額の債務をボナに対して負っていた[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が、借金を帳消しにするためにパッパコーダに暗殺を命じたという。
1556年に[[バーリ]]へ帰国したが、翌年に個人秘書ジャン・ロレンゾ・パッパコーダによって毒殺された。多額の債務をボナに対して負っていた[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が、借金を帳消しにするためにパッパコーダに暗殺を命じたという。
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*[[イザベラ・ヤギェロンカ|イザベラ]]([[1519年]] - [[1559年]]) - [[ハンガリー王]][[サポヤイ・ヤーノシュ]]と結婚
*[[イザベラ・ヤギェロンカ|イザベラ]]([[1519年]] - [[1559年]]) - [[ハンガリー王]][[サポヤイ・ヤーノシュ]]と結婚
*[[ジグムント2世|ジグムント・アウグスト]]([[1520年]] - [[1572年]]) - [[ポーランド王]]、[[リトアニア大公]]
*[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント・アウグスト]]([[1520年]] - [[1572年]]) - [[ポーランド王]]、[[リトアニア大公]]
*[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1522-1575)|ゾフィア]]([[1522年]] - [[1575年]]) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[ハインリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ハインリヒ2世]]と結婚
*[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1522-1575)|ゾフィア]]([[1522年]] - [[1575年]]) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[ハインリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ハインリヒ2世]]と結婚
*[[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]([[1523年]] - [[1596年]]) - [[ポーランド・リトアニア共和国]]の女王、[[ステファン・バートリ]]と結婚
*[[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]([[1523年]] - [[1596年]]) - [[ポーランド・リトアニア共和国]]の女王、[[ステファン・バートリ]]と結婚

2021年7月17日 (土) 22:01時点における版

ボナ・スフォルツァ
Bona Sforza
ポーランド王妃
在位 1518年 - 1548年
戴冠式 1518年4月18日 クラクフ

出生 1494年2月2日
ミラノ公国ヴィジェーヴァノ
死去 (1557-11-19) 1557年11月19日(63歳没)
ナポリ王国の旗 ナポリ王国バーリ
埋葬 ナポリ王国の旗 ナポリ王国バーリ、サン・ニコラ聖堂
結婚 1518年4月18日 クラクフ
配偶者 ポーランドジグムント1世
子女 一覧参照
家名 スフォルツァ家
父親 ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
母親 イザベラ・ダラゴナ
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ボナ王妃の毒殺、ヤン・マテイコ

ボナ・スフォルツァイタリア語:Bona Sforza d'Aragona, 1494年2月2日 - 1557年11月19日)は、ポーランド王リトアニア大公であったジグムント1世の2番目の妃。

生涯

ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァナポリ王女イザベラの間に末娘として、ヴィジェーヴァノで生まれた。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇后ビアンカ・マリア・スフォルツァの姪にあたる。名前は父方の祖母ボナ・ディ・サヴォイアにちなむ。1518年にジグムントの再婚相手に選ばれた。1524年に母イザベラの死に伴い、バーリロッサーノ公爵位、およびブリエンヌ家の請求に基づくイェルサレム王国王位請求者の地位を相続した。

彼女はポーランドに洗練されたルネサンス文化を持ち込み、繁栄の時代を築いた。ボナはイタリア野菜を料理に用いて多くの料理を同国に紹介したので、現在のポーランド料理の母といわれている。夫の死後即位した長男ジグムント2世が、カルヴァン派を信仰するリトアニア人バルバラ・ラジヴィウヴナと結婚すると、国民の大多数を占めるカトリック側に立って反対した。証拠はないが、戴冠後まもない新王妃バルバラに毒を盛って殺したといわれている。

1556年にバーリへ帰国したが、翌年に個人秘書ジャン・ロレンゾ・パッパコーダによって毒殺された。多額の債務をボナに対して負っていたスペイン王フェリペ2世が、借金を帳消しにするためにパッパコーダに暗殺を命じたという。

子女

ボナは夫ジグムント1世との間に2男4女をもうけた。

関連項目