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クルプスキーは[[リューリク朝]]の流れをくむ公の家系出身であり、家名は[[ヤロスラヴリ]]近郊のクルバ村に由来する。クルプスキーは若い頃より[[ロシア・カザン戦争]]に参加し、勇猛さを見せてその名を知られていた。1552年の[[:en:Siege of Kazan (1552)|カザン陥落]]の際も、彼はロシア側の右翼軍を率いており、この戦いの最中に負傷している。2年後の1554年、クルプスキーは[[ウドムルト人]]の[[反乱]]を鎮圧し、この功績によって[[ボヤーレ]]の仲間入りをした。同時に、クルプスキーはツァーリ・イヴァン4世に近侍し、その助言者を務めるようにもなった。 |
クルプスキーは[[リューリク朝]]の流れをくむ公の家系出身であり、家名は[[ヤロスラヴリ]]近郊のクルバ村に由来する。クルプスキーは若い頃より[[ロシア・カザン戦争]]に参加し、勇猛さを見せてその名を知られていた。1552年の[[:en:Siege of Kazan (1552)|カザン陥落]]の際も、彼はロシア側の右翼軍を率いており、この戦いの最中に負傷している。2年後の1554年、クルプスキーは[[ウドムルト人]]の[[反乱]]を鎮圧し、この功績によって[[ボヤーレ]]の仲間入りをした。同時に、クルプスキーはツァーリ・イヴァン4世に近侍し、その助言者を務めるようにもなった。 |
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クルプスキーは、[[リヴォニア戦争]]が始まるとロシア兵を率いてユーリエフ(現在の[[タルトゥ]])の[[要塞]]を攻略する任務に就き、この要塞を陥落させている。イヴァン4世がクルプスキーに次の任務を与えないままにしていると、クルプスキーはイヴァンが[[オプリーチニキ]]を使って彼を[[粛清]]する可能性を恐れ、1564年4月30日に、敵の[[リトアニア大公国]]に寝返った。同年、クルプスキーはポーランド=リトアニア軍を率いてロシア軍との戦いを始め、[[ヴェリーキエ・ルーキ]]一帯を荒らした。ポーランド王およびリトアニア大公の[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]はクルプスキーに褒賞として[[コヴェル]]と[[ヴォルィーニ]]の2[[都市]](どちらも現在の[[ウクライナ]]にある)を与えた。クルプスキーは[[カトリック教会|カトリック教徒]]のポーランド人たちに迫害されていた自分の領地に住む[[正教徒]]を庇護しつつ、平和な後半生を送った。クルプスキーはロシア最初の政治[[亡命者]]といえる。 |
クルプスキーは、[[リヴォニア戦争]]が始まるとロシア兵を率いてユーリエフ(現在の[[タルトゥ]])の[[要塞]]を攻略する任務に就き、この要塞を陥落させている。イヴァン4世がクルプスキーに次の任務を与えないままにしていると、クルプスキーはイヴァンが[[オプリーチニキ]]を使って彼を[[粛清]]する可能性を恐れ、1564年4月30日に、敵の[[リトアニア大公国]]に寝返った。同年、クルプスキーはポーランド=リトアニア軍を率いてロシア軍との戦いを始め、[[ヴェリーキエ・ルーキ]]一帯を荒らした。ポーランド王およびリトアニア大公の[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世アウグスト]]はクルプスキーに褒賞として[[コヴェル]]と[[ヴォルィーニ]]の2[[都市]](どちらも現在の[[ウクライナ]]にある)を与えた。クルプスキーは[[カトリック教会|カトリック教徒]]のポーランド人たちに迫害されていた自分の領地に住む[[正教徒]]を庇護しつつ、平和な後半生を送った。クルプスキーはロシア最初の政治[[亡命者]]といえる。 |
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クルプスキーは1564年から1579年にかけて、イヴァン4世と交わしていた喧嘩腰の文通で最もよく知られている。クルプスキーは1573年に政治[[パンフレット]]を発表したが、これはかつて独立した身分を有していたロシアの諸公たち(クルプスキーもその一員である)は、ツァーリの[[ツァーリズム|専制主義]]への接近には反対している、と述べていた。クルプスキーはツァーリが病的なまでに残酷な罰を多くの人々に課してきたことを責めているが、歴史家たちはイヴァン4世がクルプスキーの描写するほどに残虐な行為を本当に行っていたのどうかについては、一致した見解を出せていない。クルプスキーの手紙は外国語、特に[[ラテン語]]からの借用が非常に多いことが特徴的だが、ラテン語はクルプスキーが亡命してから習得したものである。また一部の歴史家は、両者による往復書簡は偽造されたものである、と主張している。 |
クルプスキーは1564年から1579年にかけて、イヴァン4世と交わしていた喧嘩腰の文通で最もよく知られている。クルプスキーは1573年に政治[[パンフレット]]を発表したが、これはかつて独立した身分を有していたロシアの諸公たち(クルプスキーもその一員である)は、ツァーリの[[ツァーリズム|専制主義]]への接近には反対している、と述べていた。クルプスキーはツァーリが病的なまでに残酷な罰を多くの人々に課してきたことを責めているが、歴史家たちはイヴァン4世がクルプスキーの描写するほどに残虐な行為を本当に行っていたのどうかについては、一致した見解を出せていない。クルプスキーの手紙は外国語、特に[[ラテン語]]からの借用が非常に多いことが特徴的だが、ラテン語はクルプスキーが亡命してから習得したものである。また一部の歴史家は、両者による往復書簡は偽造されたものである、と主張している。 |
2021年7月17日 (土) 22:03時点における版
アンドレイ・ミハイロヴィチ・クルプスキー(ロシア語:Андрей Михайлович Курбский, 1528年 - 1583年)は、モスクワ・ロシアの貴族、公。ツァーリ・イヴァン4世雷帝の親友であったが、後に雷帝の敵対者となった。クルプスキーと雷帝の交わした書簡は、16世紀のロシア史に関する興味深い史料を提供している。
生涯
クルプスキーはリューリク朝の流れをくむ公の家系出身であり、家名はヤロスラヴリ近郊のクルバ村に由来する。クルプスキーは若い頃よりロシア・カザン戦争に参加し、勇猛さを見せてその名を知られていた。1552年のカザン陥落の際も、彼はロシア側の右翼軍を率いており、この戦いの最中に負傷している。2年後の1554年、クルプスキーはウドムルト人の反乱を鎮圧し、この功績によってボヤーレの仲間入りをした。同時に、クルプスキーはツァーリ・イヴァン4世に近侍し、その助言者を務めるようにもなった。
クルプスキーは、リヴォニア戦争が始まるとロシア兵を率いてユーリエフ(現在のタルトゥ)の要塞を攻略する任務に就き、この要塞を陥落させている。イヴァン4世がクルプスキーに次の任務を与えないままにしていると、クルプスキーはイヴァンがオプリーチニキを使って彼を粛清する可能性を恐れ、1564年4月30日に、敵のリトアニア大公国に寝返った。同年、クルプスキーはポーランド=リトアニア軍を率いてロシア軍との戦いを始め、ヴェリーキエ・ルーキ一帯を荒らした。ポーランド王およびリトアニア大公のジグムント2世アウグストはクルプスキーに褒賞としてコヴェルとヴォルィーニの2都市(どちらも現在のウクライナにある)を与えた。クルプスキーはカトリック教徒のポーランド人たちに迫害されていた自分の領地に住む正教徒を庇護しつつ、平和な後半生を送った。クルプスキーはロシア最初の政治亡命者といえる。
クルプスキーは1564年から1579年にかけて、イヴァン4世と交わしていた喧嘩腰の文通で最もよく知られている。クルプスキーは1573年に政治パンフレットを発表したが、これはかつて独立した身分を有していたロシアの諸公たち(クルプスキーもその一員である)は、ツァーリの専制主義への接近には反対している、と述べていた。クルプスキーはツァーリが病的なまでに残酷な罰を多くの人々に課してきたことを責めているが、歴史家たちはイヴァン4世がクルプスキーの描写するほどに残虐な行為を本当に行っていたのどうかについては、一致した見解を出せていない。クルプスキーの手紙は外国語、特にラテン語からの借用が非常に多いことが特徴的だが、ラテン語はクルプスキーが亡命してから習得したものである。また一部の歴史家は、両者による往復書簡は偽造されたものである、と主張している。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画『イワン雷帝』では、ロシアでツァーリに次いで大きな権勢を誇るクルプスキーが、ボヤーレたちの圧迫を受けるツァーリの姿を見て、やがて主君であるツァーリに反旗を翻すようになるまでが描かれている。
外部リンク
- Correspondence of Ivan IV and Kurbsky (in Russian)
- Kurbsky's History of the Grand Prince of Moscow (in Russian)