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「ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオ」の版間の差分

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==生涯==
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厳密な生年月日は知られていないが、僧籍に入ることを明らかに若くして決心しており、[[1583年]]ごろに[[フィリッポ・ネーリ]]の「[[オラトリオ会]]」とかかわるようになった。[[1595年]]にサン・マルチェッロ教会の[[オルガニスト]]に就任。どうやら[[1600年]]([[1601年]]説、[[1603年]]説あり)に[[ラテラノ]]のサン・ジョヴァンニ寺院の教会楽長に就任したらしい。[[1609年]]に[[ヴェローナ]]大聖堂で同様の地位を得るが、これは[[ローマ]]以外で最初の職務であった。[[1610年]]にヴェローナを後にし、ローマに戻る。何度かの旅行を別にすれば、[[1624年]]までローマにとどまり、さまざまな肩書きで活動した(少なくとも[[1616年]]には[[司祭]]に叙階されている)。[[1624年]]に[[ジグムント3世]]に招かれ、[[ポーランド王国|ポーランド]]宮廷礼拝堂の聖歌隊長に就任すべく[[ワルシャワ]]に赴任。ポーランドは[[16世紀]]後半から[[17世紀]]まで[[東ヨーロッパ|東欧]]における列強として、[[クラクフ]]やワルシャワは文化の中心地として発展し、しばしば有能な[[イタリア人]]や[[ドイツ人]]が登用された。アネーリオは、ポーランドに移り住んだ外国人の中でも、ひときわ飛びぬけた存在であった。1630年にローマ目指してポーランドを後にするも、不幸にも再び郷里に足を踏み入れることはかなわなかった。道中オーストリアのグラーツに倒れ、その地に埋葬された。
厳密な生年月日は知られていないが、僧籍に入ることを明らかに若くして決心しており、[[1583年]]ごろに[[フィリッポ・ネーリ]]の「[[オラトリオ会]]」とかかわるようになった。[[1595年]]にサン・マルチェッロ教会の[[オルガニスト]]に就任。どうやら[[1600年]]([[1601年]]説、[[1603年]]説あり)に[[ラテラノ]]のサン・ジョヴァンニ寺院の教会楽長に就任したらしい。[[1609年]]に[[ヴェローナ]]大聖堂で同様の地位を得るが、これは[[ローマ]]以外で最初の職務であった。[[1610年]]にヴェローナを後にし、ローマに戻る。何度かの旅行を別にすれば、[[1624年]]までローマにとどまり、さまざまな肩書きで活動した(少なくとも[[1616年]]には[[司祭]]に叙階されている)。[[1624年]]に[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]に招かれ、[[ポーランド王国|ポーランド]]宮廷礼拝堂の聖歌隊長に就任すべく[[ワルシャワ]]に赴任。ポーランドは[[16世紀]]後半から[[17世紀]]まで[[東ヨーロッパ|東欧]]における列強として、[[クラクフ]]やワルシャワは文化の中心地として発展し、しばしば有能な[[イタリア人]]や[[ドイツ人]]が登用された。アネーリオは、ポーランドに移り住んだ外国人の中でも、ひときわ飛びぬけた存在であった。1630年にローマ目指してポーランドを後にするも、不幸にも再び郷里に足を踏み入れることはかなわなかった。道中オーストリアのグラーツに倒れ、その地に埋葬された。


==音楽様式==
==音楽様式==

2021年7月17日 (土) 22:09時点における版

ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオGiovanni Francesco Anerio, 1567年? - 1630年6月12日埋葬)は、イタリア後期ルネサンス音楽作曲家聖職者。初期バロック音楽の時代を生き、保守的なローマ楽派の一員でありながらオラトリオの発展に貢献したが、様式的にはパレストリーナ以来の伝統を守って手堅い声楽ポリフォニーを作曲した。兄フェリーチェ・アネーリオも作曲家。


生涯

厳密な生年月日は知られていないが、僧籍に入ることを明らかに若くして決心しており、1583年ごろにフィリッポ・ネーリの「オラトリオ会」とかかわるようになった。1595年にサン・マルチェッロ教会のオルガニストに就任。どうやら1600年1601年説、1603年説あり)にラテラノのサン・ジョヴァンニ寺院の教会楽長に就任したらしい。1609年ヴェローナ大聖堂で同様の地位を得るが、これはローマ以外で最初の職務であった。1610年にヴェローナを後にし、ローマに戻る。何度かの旅行を別にすれば、1624年までローマにとどまり、さまざまな肩書きで活動した(少なくとも1616年には司祭に叙階されている)。1624年ジグムント3世に招かれ、ポーランド宮廷礼拝堂の聖歌隊長に就任すべくワルシャワに赴任。ポーランドは16世紀後半から17世紀まで東欧における列強として、クラクフやワルシャワは文化の中心地として発展し、しばしば有能なイタリア人ドイツ人が登用された。アネーリオは、ポーランドに移り住んだ外国人の中でも、ひときわ飛びぬけた存在であった。1630年にローマ目指してポーランドを後にするも、不幸にも再び郷里に足を踏み入れることはかなわなかった。道中オーストリアのグラーツに倒れ、その地に埋葬された。

音楽様式

ジョヴァンニ・アネーリオは、兄フェリーチェより進歩的な作曲家であり、17世紀初頭のローマの保守的な環境にあってなお進歩主義をとり続けた。マドリガーレは、フィレンツェからモノディ様式を借用している。その反面、ミサ曲モテットといった宗教曲は、数字つきバスをとり入れ、ロドヴィコ・ヴィアダーナの影響を示しているものの、保守的なパレストリーナ様式を利用している。ミサ曲のいくつかは、16世紀末に流布したヴェネツィア楽派複合唱様式が採られている。

ジョヴァンニ・アネーリオの最も重要な業績は、1619年の《霊的な劇音楽 Teatro armonico spirituale》であり、これは実質的に最初のオラトリオであると論じられている。ローマ楽派によるものとしては、器楽の最初のオブリガート・パートが含まれている。楽器法は注意深く表記されており、器楽と声楽のパッセージの交替は、続く世代に多大な影響を与えた。ヴェネツィア楽派のマドリガーレ・スピリトゥアーレと違って《霊的な劇音楽》のテクストは世俗語イタリア語)であるが、音楽的な実態は、ほとんどが壮大なモテットである。音楽によって寓話が示されるものの、オペラと違って演技は伴わない。声楽と器楽は楽章ごとに交替する。『放蕩息子』や『サウルの回心』に曲付けされている。

作品

ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオは多作な作曲家で、モテット聖母マリアへの連祷、アンティフォナ、宗教的コンチェルト、レスポンソリウム、詩篇唱、マドリガーレなど。数多くの声楽曲(世俗曲と宗教曲)に加えて、一握りの器楽曲を残している。作品のほとんどはローマで出版された。ポーランド時代の作品であるとはっきり分かっている作品はない。

外部リンク