「アンナ (ポーランド女王)」の版間の差分
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1575年にアンリの王位失効宣言が出された後、セイムはアンナとの結婚を条件に、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]]バートリ・イシュトヴァーン([[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]])に王位を与えることを決めた。[[1576年]]3月に[[クラクフ]]に到着したステファンは、5月1日にアンナと結婚して夫妻で戴冠式に臨んだ。この時アンナは14世紀の[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドウィガ女王]]の例を踏襲し、「女王」(''Regina Poloniæ'')ではなく、男性君主を指す「国王」(''Rex Poloniæ'')として即位し、その上でステファン・バートリがヤドヴィガの夫[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]と同じく「妻の権利によって([[:en:Jure uxoris|en]])」主権者となり、ポーランド王に推戴された。王朝の血統的な正統性はあくまでアンナにあったが、彼女は夫の共同統治者の身分に置かれており、国政に積極的に参与することはなかった。 |
1575年にアンリの王位失効宣言が出された後、セイムはアンナとの結婚を条件に、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]]バートリ・イシュトヴァーン([[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]])に王位を与えることを決めた。[[1576年]]3月に[[クラクフ]]に到着したステファンは、5月1日にアンナと結婚して夫妻で戴冠式に臨んだ。この時アンナは14世紀の[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドウィガ女王]]の例を踏襲し、「女王」(''Regina Poloniæ'')ではなく、男性君主を指す「国王」(''Rex Poloniæ'')として即位し、その上でステファン・バートリがヤドヴィガの夫[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]と同じく「妻の権利によって([[:en:Jure uxoris|en]])」主権者となり、ポーランド王に推戴された。王朝の血統的な正統性はあくまでアンナにあったが、彼女は夫の共同統治者の身分に置かれており、国政に積極的に参与することはなかった。 |
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1576年に結婚した時すでに50歳を過ぎていたアンナに子供はなく、妹[[カタジナ・ヤギェロンカ|カタジナ]]の長男であるスウェーデン王太子シギスムントを引き取り、夫ステファンが死去するとこの甥を[[ジグムント3世]]としてポーランド王に即位させた。アンナは女王の称号を帯びたまま、1596年にワルシャワで崩じた。 |
1576年に結婚した時すでに50歳を過ぎていたアンナに子供はなく、妹[[カタジナ・ヤギェロンカ|カタジナ]]の長男であるスウェーデン王太子シギスムントを引き取り、夫ステファンが死去するとこの甥を[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]としてポーランド王に即位させた。アンナは女王の称号を帯びたまま、1596年にワルシャワで崩じた。 |
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== 参考文献 == |
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* [[小山哲]]「ヘンリク・ヴァレジィ体験 ヤギェウォ王朝断絶前後のポーランド=フランス関係」『ヨーロッパ研究の新地平 ポーランドからのまなざし』([[中山昭吉]]、[[松川克彦]]編)[[昭和堂]] 2000年 ISBN 4-8122-0009-1 |
* [[小山哲]]「ヘンリク・ヴァレジィ体験 ヤギェウォ王朝断絶前後のポーランド=フランス関係」『ヨーロッパ研究の新地平 ポーランドからのまなざし』([[中山昭吉]]、[[松川克彦]]編)[[昭和堂]] 2000年 ISBN 4-8122-0009-1 |
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2021年7月17日 (土) 22:10時点における版
アンナ Anna Jagiellonka | |
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ポーランド女王 | |
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在位 | 1575年12月13日 - 1586年または1596年 |
戴冠式 | 1576年5月1日 |
出生 |
1523年10月18日 クラクフ、ポーランド |
死去 |
1596年9月9日(72歳没) ワルシャワ、ポーランド |
埋葬 |
1574年2月10日 ヴァヴェル大聖堂、クラクフ |
配偶者 | ステファン・バートリ |
王朝 | ヤギェウォ朝 |
父親 | ジグムント1世 |
母親 | ボナ・スフォルツァ |
アンナ(Anna Jagiellonka, 1523年10月18日 - 1596年9月9日)は、ポーランド・リトアニア共和国の女王(在位:1575年 - 1586年または1596年)。ヤギェウォ朝のジグムント1世の娘で、母はボナ・スフォルツァ。ジグムント2世の妹である。
生涯
1572年にジグムント2世が世継ぎなく没すると、シュラフタ(ポーランド貴族階級)は自由選挙によって新王を選出するとした。アンナも候補の一人に挙げられたが、むしろ次期国王の王妃に擬せられる立場にあった。アンナはフランス王シャルル9世の弟アンリ(のちのアンリ3世、ポーランド名ヘンリク・ヴァレジ)を夫に迎えたい意向を示し、その影響もあってセイム(議会)は1573年にアンリを新国王に選んだ。しかしアンナと28歳年下のアンリとの結婚交渉は難航し、1574年6月にアンリがフランス王位を継承するためにポーランドから逃亡したことで、この縁談は完全に失敗に終わった。
1575年にアンリの王位失効宣言が出された後、セイムはアンナとの結婚を条件に、トランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン(ステファン・バートリ)に王位を与えることを決めた。1576年3月にクラクフに到着したステファンは、5月1日にアンナと結婚して夫妻で戴冠式に臨んだ。この時アンナは14世紀のヤドウィガ女王の例を踏襲し、「女王」(Regina Poloniæ)ではなく、男性君主を指す「国王」(Rex Poloniæ)として即位し、その上でステファン・バートリがヤドヴィガの夫ヴワディスワフ2世と同じく「妻の権利によって(en)」主権者となり、ポーランド王に推戴された。王朝の血統的な正統性はあくまでアンナにあったが、彼女は夫の共同統治者の身分に置かれており、国政に積極的に参与することはなかった。
1576年に結婚した時すでに50歳を過ぎていたアンナに子供はなく、妹カタジナの長男であるスウェーデン王太子シギスムントを引き取り、夫ステファンが死去するとこの甥をジグムント3世としてポーランド王に即位させた。アンナは女王の称号を帯びたまま、1596年にワルシャワで崩じた。
参考文献
- 小山哲「ヘンリク・ヴァレジィ体験 ヤギェウォ王朝断絶前後のポーランド=フランス関係」『ヨーロッパ研究の新地平 ポーランドからのまなざし』(中山昭吉、松川克彦編)昭和堂 2000年 ISBN 4-8122-0009-1
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