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「テウデリク3世 (フランク王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[クロヴィス2世]]と[[バルティルド]]の末息子<ref name=S150>柴田 他、p. 150</ref>。[[673年]][[宮宰]]の[[エブロイン]]は[[クロタール3世 (フランク王)|クロタール3世]]が没したため、彼を擁立しようとしたが、失敗し[[キルデリク2世]]が擁立された<ref name=S150 /><ref name=J32>ル・ジャン、p. 32</ref>。


キルデリク2世が[[675年]]に亡くなり[[ネウストリア王国]]の国王に就任した<ref name=J32 />。さらに[[679年]]に[[アウストラシア王国]]の国王である[[ダゴベルト2世]]が暗殺されたが、ネウストリア宮宰エブロイン率いる軍は、アウストラシア宮廷の実力者[[カロリング朝|ピピン家]]の[[ピピン2世]]とマルティヌスを破り、テウデリク3世がアウストラシアも手中におさめ、全フランクの国王となった<ref>柴田 他、p. 151</ref>。
キルデリク2世が[[675年]]に亡くなり[[ネウストリア王国]]の国王に就任した<ref name=J32 />。さらに[[679年]]に[[アウストラシア王国]]の国王である[[ダゴベルト2世]]が暗殺されたが、ネウストリア宮宰エブロイン率いる軍は、アウストラシア宮廷の実力者[[カロリング朝|ピピン家]]の[[ピピン2世]]とマルティヌスを破り、テウデリク3世がアウストラシアも手中におさめ、全フランクの国王となった<ref>柴田 他、p. 151</ref>。
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また、以下の人物がテウデリク3世の子女とも考えられている。
また、以下の人物がテウデリク3世の子女とも考えられている。
* [[クロヴィス3世]] - [[クロタール3世]]の子ともされる<ref>ル・ジャン、p. 145</ref><ref>柴田 他、付録p. 81</ref>。また一説に[[クロヴィス2世]]の子とも。メロヴィング家の血筋ではなかった可能性も指摘されている。
* [[クロヴィス3世]] - [[クロタール3世 (フランク王)|クロタール3世]]の子ともされる<ref>ル・ジャン、p. 145</ref><ref>柴田 他、付録p. 81</ref>。また一説に[[クロヴィス2世]]の子とも。メロヴィング家の血筋ではなかった可能性も指摘されている。
* ベルトラード(ベルトラダ)([[:en:Bertrada of Prüm|en]])<ref>Christian Settipani, ''Ancestors of Charlemagne'', Paris, 1989.</ref> - 彼女の孫娘であるベルトラード(ベルトラダ)は[[ピピン3世]]の妻となり、[[カール大帝]]を筆頭に、カールマン([[751年]] - [[771年]])、ピピン([[756年]] - [[762年]])、ギゼラ([[757年]] - [[811年]])、ベルト、ロタイド、アデライドの7人の子女を儲けた。彼女をテウデリク3世の娘とするならば、カール大帝及びその子孫達は女系ながらメロヴィング朝の血を引くことになり、[[751年]]の[[キルデリク3世]]廃位によるメロヴィング朝の断絶以後もメロヴィング家の血筋自体は後世に存続したことになる。但し、現在ではピピン3世とベルトラダの結婚は[[744年]]以降と考えられており、一般的にカール大帝は[[742年]]生まれとされていることからカール大帝がベルトラダ所生であることに疑問を挟む学者もおり、カール大帝がピピン3世とベルトラダ以外の女性の間に生まれた婚前子(私生児、私生子)である可能性は否定できない。一説には「ペトーの年代記」に記された[[747年]]又は[[748年]]をカール大帝の正しい生年だと唱えられてはいる。この場合、ピピン3世とベルトラダの結婚年に744年説を採用するならば上記の矛盾は解消されることになる。もっとも、「[[フランク王国年代記]]」や「[[サンベルタン年代記]]」はピピン3世とベルトラダの結婚を748年又は[[749年]]としており、やはりカール大帝には出生の疑惑が付きまとうこととなる。カール大帝に仕え、「カール大帝伝」を記した[[アインハルト]]は「カールの出生については公表されておらず、もはや知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙を貫いてることもこの疑惑を一層拡大させている。カール大帝がピピン3世の私生児であるとすれば、カール大帝の血を引く子孫・後裔・末裔にメロヴィング家(メロヴィング朝)の血筋は流れていないことになる。ベルトラダ所生の子女で確実なのはカールマン、ピピン、ギゼラ、ベルト、ロタイド、アデライドの6人である。
* ベルトラード(ベルトラダ)([[:en:Bertrada of Prüm|en]])<ref>Christian Settipani, ''Ancestors of Charlemagne'', Paris, 1989.</ref> - 彼女の孫娘であるベルトラード(ベルトラダ)は[[ピピン3世]]の妻となり、[[カール大帝]]を筆頭に、カールマン([[751年]] - [[771年]])、ピピン([[756年]] - [[762年]])、ギゼラ([[757年]] - [[811年]])、ベルト、ロタイド、アデライドの7人の子女を儲けた。彼女をテウデリク3世の娘とするならば、カール大帝及びその子孫達は女系ながらメロヴィング朝の血を引くことになり、[[751年]]の[[キルデリク3世]]廃位によるメロヴィング朝の断絶以後もメロヴィング家の血筋自体は後世に存続したことになる。但し、現在ではピピン3世とベルトラダの結婚は[[744年]]以降と考えられており、一般的にカール大帝は[[742年]]生まれとされていることからカール大帝がベルトラダ所生であることに疑問を挟む学者もおり、カール大帝がピピン3世とベルトラダ以外の女性の間に生まれた婚前子(私生児、私生子)である可能性は否定できない。一説には「ペトーの年代記」に記された[[747年]]又は[[748年]]をカール大帝の正しい生年だと唱えられてはいる。この場合、ピピン3世とベルトラダの結婚年に744年説を採用するならば上記の矛盾は解消されることになる。もっとも、「[[フランク王国年代記]]」や「[[サンベルタン年代記]]」はピピン3世とベルトラダの結婚を748年又は[[749年]]としており、やはりカール大帝には出生の疑惑が付きまとうこととなる。カール大帝に仕え、「カール大帝伝」を記した[[アインハルト]]は「カールの出生については公表されておらず、もはや知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙を貫いてることもこの疑惑を一層拡大させている。カール大帝がピピン3世の私生児であるとすれば、カール大帝の血を引く子孫・後裔・末裔にメロヴィング家(メロヴィング朝)の血筋は流れていないことになる。ベルトラダ所生の子女で確実なのはカールマン、ピピン、ギゼラ、ベルト、ロタイド、アデライドの6人である。



2021年7月24日 (土) 22:00時点における版

テウデリク3世
Theuderic III
ネウストリアブルグント
フランク王
在位 ネウストリアブルグント王:675年 - 679年
全フランク王:679年 - 691年

出生 654年
死去 691年
配偶者 クロティルダ
  アマルベルガ
子女 クロヴィス4世
キルデベルト3世
クロタール4世
王朝 メロヴィング朝
父親 クロヴィス2世
母親 バルティルド
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テウデリク3世(Theuderic III, 654年 - 691年)は、メロヴィング朝の8代目の国王(在位:679年 - 691年)。

生涯

クロヴィス2世バルティルドの末息子[1]673年宮宰エブロインクロタール3世が没したため、彼を擁立しようとしたが、失敗しキルデリク2世が擁立された[1][2]

キルデリク2世が675年に亡くなりネウストリア王国の国王に就任した[2]。さらに679年アウストラシア王国の国王であるダゴベルト2世が暗殺されたが、ネウストリア宮宰エブロイン率いる軍は、アウストラシア宮廷の実力者ピピン家ピピン2世とマルティヌスを破り、テウデリク3世がアウストラシアも手中におさめ、全フランクの国王となった[3]

家族

彼の妻はアンゼギゼルベッガ(宮宰ピピン1世の娘)の娘・クロティルダである。この二人の結婚でメロヴィング家とカロリング家が姻戚関係となった。以下の子女がいた。

また、以下の人物がテウデリク3世の子女とも考えられている。

  • クロヴィス3世 - クロタール3世の子ともされる[5][6]。また一説にクロヴィス2世の子とも。メロヴィング家の血筋ではなかった可能性も指摘されている。
  • ベルトラード(ベルトラダ)(en[7] - 彼女の孫娘であるベルトラード(ベルトラダ)はピピン3世の妻となり、カール大帝を筆頭に、カールマン(751年 - 771年)、ピピン(756年 - 762年)、ギゼラ(757年 - 811年)、ベルト、ロタイド、アデライドの7人の子女を儲けた。彼女をテウデリク3世の娘とするならば、カール大帝及びその子孫達は女系ながらメロヴィング朝の血を引くことになり、751年キルデリク3世廃位によるメロヴィング朝の断絶以後もメロヴィング家の血筋自体は後世に存続したことになる。但し、現在ではピピン3世とベルトラダの結婚は744年以降と考えられており、一般的にカール大帝は742年生まれとされていることからカール大帝がベルトラダ所生であることに疑問を挟む学者もおり、カール大帝がピピン3世とベルトラダ以外の女性の間に生まれた婚前子(私生児、私生子)である可能性は否定できない。一説には「ペトーの年代記」に記された747年又は748年をカール大帝の正しい生年だと唱えられてはいる。この場合、ピピン3世とベルトラダの結婚年に744年説を採用するならば上記の矛盾は解消されることになる。もっとも、「フランク王国年代記」や「サンベルタン年代記」はピピン3世とベルトラダの結婚を748年又は749年としており、やはりカール大帝には出生の疑惑が付きまとうこととなる。カール大帝に仕え、「カール大帝伝」を記したアインハルトは「カールの出生については公表されておらず、もはや知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙を貫いてることもこの疑惑を一層拡大させている。カール大帝がピピン3世の私生児であるとすれば、カール大帝の血を引く子孫・後裔・末裔にメロヴィング家(メロヴィング朝)の血筋は流れていないことになる。ベルトラダ所生の子女で確実なのはカールマン、ピピン、ギゼラ、ベルト、ロタイド、アデライドの6人である。

脚注

  1. ^ a b 柴田 他、p. 150
  2. ^ a b ル・ジャン、p. 32
  3. ^ 柴田 他、p. 151
  4. ^ 子のダゴベルト3世、孫テウデリク4世はカロリング家の血を引く王でもある。故にこの3人の王はカール大帝と親戚関係になる(テウデリク4世とカール大帝は又従兄弟の子供同士という関係でテウデリク4世の父ダゴベルト3世とカール大帝の父ピピン3世が又従兄弟)。
  5. ^ ル・ジャン、p. 145
  6. ^ 柴田 他、付録p. 81
  7. ^ Christian Settipani, Ancestors of Charlemagne, Paris, 1989.

参考文献

  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年
  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年

関連項目

先代
キルデリク2世
フランク
8代
679年 - 691年
次代
クロヴィス4世