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[[テウデリク3世]]の子とされるが<ref>ル・ジャン、p. 144</ref><ref>柴田、付録p. 81</ref>、詳細は不明である。717年、アウストラシア宮宰[[カール・マルテル]]はヴァンシー(Vincy)の戦いでネウストリア軍を破り、フランク王[[キルペリク2世]]はアキテーヌ公[[ウード (アキテーヌ公)|ウード]]のもとに逃れた<ref>ル・ジャン、p. 36</ref>。そこでカール・マルテルはクロタール4世を王位につけたが、キルペリク2世はネウストリアにおける支持を保ち続けたため<ref name=J37>ル・ジャン、p. 37</ref>、クロタール4世の王権はアウストラシアに限定された。718年に再びカール・マルテルは勝利し全フランクの宮宰となり、キルペリク2世をパリへ戻した<ref name=J37 />。 |
[[テウデリク3世 (フランク王)|テウデリク3世]]の子とされるが<ref>ル・ジャン、p. 144</ref><ref>柴田、付録p. 81</ref>、詳細は不明である。717年、アウストラシア宮宰[[カール・マルテル]]はヴァンシー(Vincy)の戦いでネウストリア軍を破り、フランク王[[キルペリク2世]]はアキテーヌ公[[ウード (アキテーヌ公)|ウード]]のもとに逃れた<ref>ル・ジャン、p. 36</ref>。そこでカール・マルテルはクロタール4世を王位につけたが、キルペリク2世はネウストリアにおける支持を保ち続けたため<ref name=J37>ル・ジャン、p. 37</ref>、クロタール4世の王権はアウストラシアに限定された。718年に再びカール・マルテルは勝利し全フランクの宮宰となり、キルペリク2世をパリへ戻した<ref name=J37 />。 |
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== 脚注 == |
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2021年7月24日 (土) 22:06時点における版
クロタール4世 Chlothar IV | |
---|---|
アウストラシア王 | |
在位 | 717年 - 718年 |
死去 |
719年頃 |
王朝 | メロヴィング朝 |
父親 | テウデリク3世? |
母親 | クロティルダ? |
クロタール4世(Chlothar IV, ? - 719年頃)は、メロヴィング朝のアウストラシア王(在位:717年 - 718年)。
生涯
テウデリク3世の子とされるが[1][2]、詳細は不明である。717年、アウストラシア宮宰カール・マルテルはヴァンシー(Vincy)の戦いでネウストリア軍を破り、フランク王キルペリク2世はアキテーヌ公ウードのもとに逃れた[3]。そこでカール・マルテルはクロタール4世を王位につけたが、キルペリク2世はネウストリアにおける支持を保ち続けたため[4]、クロタール4世の王権はアウストラシアに限定された。718年に再びカール・マルテルは勝利し全フランクの宮宰となり、キルペリク2世をパリへ戻した[4]。
脚注
参考文献
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
- レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年