コンテンツにスキップ

「ケルンの戦い」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: フランク王記事の改名に伴うリンク修正依頼 (キルペリク2世 (フランク王)) - log
 
12行目: 12行目:
|commander1= [[カール・マルテル]]
|commander1= [[カール・マルテル]]
|commander2= [[プレクトルード]] <br/> [[テウドアルド]]
|commander2= [[プレクトルード]] <br/> [[テウドアルド]]
|commander3= [[キルペリク2世]] <br/> [[ラガンフリド]] <br/> [[レッドボット]]
|commander3= [[キルペリク2世 (フランク王)|キルペリク2世]] <br/> [[ラガンフリド]] <br/> [[レッドボット]]
|strength1=
|strength1=
|strength2=
|strength2=
22行目: 22行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
716年、フランク王[[キルペリク2世]]と[[ネウストリア]]宮宰[[ラガンフリド]]は[[アウストラシア]]に侵攻した。この分国はかつて宮宰[[ピピン2世]]に牛耳られ、この時も彼の孫[[テウドアルド]]と未亡人[[プレクトルード]]の支配のもとでフランク王に反抗していた。ピピン2世の庶子カール・マルテルは父の死後プレクトルードによってケルンに幽閉されていたが、脱出に成功して独自にアウストラシア宮宰を名乗ったため、アウストラシアは分裂状態になっていたのである。この内乱に目を付けた[[フリースラント王国|フリースラント王]]レッドボットは、キルペリク2世やラガンフリドと同盟して自らもアウストラシアに侵攻した。
716年、フランク王[[キルペリク2世 (フランク王)|キルペリク2世]]と[[ネウストリア]]宮宰[[ラガンフリド]]は[[アウストラシア]]に侵攻した。この分国はかつて宮宰[[ピピン2世]]に牛耳られ、この時も彼の孫[[テウドアルド]]と未亡人[[プレクトルード]]の支配のもとでフランク王に反抗していた。ピピン2世の庶子カール・マルテルは父の死後プレクトルードによってケルンに幽閉されていたが、脱出に成功して独自にアウストラシア宮宰を名乗ったため、アウストラシアは分裂状態になっていたのである。この内乱に目を付けた[[フリースラント王国|フリースラント王]]レッドボットは、キルペリク2世やラガンフリドと同盟して自らもアウストラシアに侵攻した。


カール・マルテルはケルンの街の外でレッドボットに敗北し、[[アイフェル]]山地に逃亡した。間もなくケルン市も開城し、プレクトルードはキルペリク2世をフランク王として認めさせられた<ref name="Kurth">[http://www.newadvent.org/cathen/03629a.htm Kurth, Godefroid. "Charles Martel." The Catholic Encyclopedia. Vol. 3. New York: Robert Appleton Company, 1908. 20 Jul. 2014]</ref>。
カール・マルテルはケルンの街の外でレッドボットに敗北し、[[アイフェル]]山地に逃亡した。間もなくケルン市も開城し、プレクトルードはキルペリク2世をフランク王として認めさせられた<ref name="Kurth">[http://www.newadvent.org/cathen/03629a.htm Kurth, Godefroid. "Charles Martel." The Catholic Encyclopedia. Vol. 3. New York: Robert Appleton Company, 1908. 20 Jul. 2014]</ref>。

2021年7月24日 (土) 22:12時点における最新版

ケルンの戦い
716年
場所ケルンドイツ
結果 ネウストリア・フリースラント連合軍の勝利
衝突した勢力
アウストラシア反乱軍 アウストラシア ネウストリア
フリースラント王国
指揮官
カール・マルテル プレクトルード
テウドアルド
キルペリク2世
ラガンフリド
レッドボット

ケルンの戦い (ドイツ語: Schlacht bei Köln フランス語:Bataille de Cologne)は、716年ケルン付近で行われた戦闘。レッドボット率いるフリース人が、宮宰カール・マルテル率いるフランク王国を破った。カール・マルテルにとっては生涯で最初の戦闘指揮であり、唯一の敗北となった[1]

概要[編集]

716年、フランク王キルペリク2世ネウストリア宮宰ラガンフリドアウストラシアに侵攻した。この分国はかつて宮宰ピピン2世に牛耳られ、この時も彼の孫テウドアルドと未亡人プレクトルードの支配のもとでフランク王に反抗していた。ピピン2世の庶子カール・マルテルは父の死後プレクトルードによってケルンに幽閉されていたが、脱出に成功して独自にアウストラシア宮宰を名乗ったため、アウストラシアは分裂状態になっていたのである。この内乱に目を付けたフリースラント王レッドボットは、キルペリク2世やラガンフリドと同盟して自らもアウストラシアに侵攻した。

カール・マルテルはケルンの街の外でレッドボットに敗北し、アイフェル山地に逃亡した。間もなくケルン市も開城し、プレクトルードはキルペリク2世をフランク王として認めさせられた[2]

キルペリク2世らはケルン市の身代金として、プレクトルードがケルンにためてきた財産を奪った。一方カール・マルテルはアイフェルで素早く自分の軍勢を再編し、ケルンから意気揚々と帰還するネウストリア・フリースラント連合軍をアンブレーヴの戦いで撃破した。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • Oman, Charles. (1914). The Dark Ages 476–918. Rivingtons: London.