「カールマン (アウストラシア宮宰)」の版間の差分
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カール・マルテルには、正妻との子であるカールマン、[[ピピン3世]]のほかに、側室スワナヒルドから生まれた異母弟[[グリフォ]]がいた<ref name=M156>柴田 他、p. 156</ref>。父カール・マルテルは、王国を三分し、三子に分割相続させるつもりであった<ref name=M156 />。これに対し、長子のカールマンは、[[741年]]の父の死後すぐに異母弟グリフォを捕えて修道院に幽閉した上で、弟ピピンと会談し、グリフォの相続分を二人で分割した<ref name=M156 />。その結果、カールマンはアウストラシア部分を、ピピンがネウストリア部分をそれぞれ支配することになった<ref>瀬原、p. 16-17</ref>。また、[[737年]]以来空位であったフランク王座に、[[キルペリク2世 (フランク王)|キルペリク2世]]の子[[キルデリク3世]]をつけた<ref name=S16>佐藤、p. 16</ref>。 |
カール・マルテルには、正妻との子であるカールマン、[[ピピン3世]]のほかに、側室スワナヒルドから生まれた異母弟[[グリフォ]]がいた<ref name=M156>柴田 他、p. 156</ref>。父カール・マルテルは、王国を三分し、三子に分割相続させるつもりであった<ref name=M156 />。これに対し、長子のカールマンは、[[741年]]の父の死後すぐに異母弟グリフォを捕えて修道院に幽閉した上で、弟ピピンと会談し、グリフォの相続分を二人で分割した<ref name=M156 />。その結果、カールマンはアウストラシア部分を、ピピンがネウストリア部分をそれぞれ支配することになった<ref>瀬原、p. 16-17</ref>。また、[[737年]]以来空位であったフランク王座に、[[キルペリク2世 (フランク王)|キルペリク2世]]の子[[キルデリク3世 (フランク王)|キルデリク3世]]をつけた<ref name=S16>佐藤、p. 16</ref>。 |
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しかし、[[747年]]秋、カールマンは突然[[モンテ・カッシーノ]]修道院に隠棲した<ref name=S17>佐藤、p. 17</ref><ref name=I33>五十嵐、p. 33</ref>。その理由は不明である<ref name=S17 />。嫡男のドローゴがいたが、弟ピピンはその継承権を認めず、フランク王国全土を唯一の宮宰として単独で統治した<ref name=I33 />。その後、弟ピピン3世は[[751年]]にキルデリク3世を廃位し、国王の座に就いた<ref>五十嵐、p. 37</ref>。 |
しかし、[[747年]]秋、カールマンは突然[[モンテ・カッシーノ]]修道院に隠棲した<ref name=S17>佐藤、p. 17</ref><ref name=I33>五十嵐、p. 33</ref>。その理由は不明である<ref name=S17 />。嫡男のドローゴがいたが、弟ピピンはその継承権を認めず、フランク王国全土を唯一の宮宰として単独で統治した<ref name=I33 />。その後、弟ピピン3世は[[751年]]にキルデリク3世を廃位し、国王の座に就いた<ref>五十嵐、p. 37</ref>。 |
2021年7月24日 (土) 22:16時点における版
カールマン Karlmann | |
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アウストラシア宮宰 | |
王国をカールマンとピピンとの間で二分する父カール・マルテル | |
在位 | 741年 - 747年 |
出生 |
706/13年 |
死去 |
754年8月17日 |
子女 | ドローゴ |
家名 | カロリング家 |
父親 | カール・マルテル |
母親 | クロドトルード |
カールマン(Karlmann, 706/13年 - 754年8月17日)は、フランク王国の宮宰(在職:741年 - 747年)。カール・マルテルと正妻クロドトルードの長男。
生涯
カール・マルテルには、正妻との子であるカールマン、ピピン3世のほかに、側室スワナヒルドから生まれた異母弟グリフォがいた[1]。父カール・マルテルは、王国を三分し、三子に分割相続させるつもりであった[1]。これに対し、長子のカールマンは、741年の父の死後すぐに異母弟グリフォを捕えて修道院に幽閉した上で、弟ピピンと会談し、グリフォの相続分を二人で分割した[1]。その結果、カールマンはアウストラシア部分を、ピピンがネウストリア部分をそれぞれ支配することになった[2]。また、737年以来空位であったフランク王座に、キルペリク2世の子キルデリク3世をつけた[3]。
しかし、747年秋、カールマンは突然モンテ・カッシーノ修道院に隠棲した[4][5]。その理由は不明である[4]。嫡男のドローゴがいたが、弟ピピンはその継承権を認めず、フランク王国全土を唯一の宮宰として単独で統治した[5]。その後、弟ピピン3世は751年にキルデリク3世を廃位し、国王の座に就いた[6]。
脚注
参考文献
- 柴田三千雄 他 編『世界歴史大系 フランス史 1』山川出版社、1995年
- 佐藤彰一『世界史リブレット カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
- 五十嵐 修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の<ヨーロッパ>』講談社、2001年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
関連項目
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