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「サン=ジャン=ド=モーリエンヌ」の版間の差分

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サン=ジャン=ド=モーリエンヌは、6世紀以降モーリエンヌ谷の中心地であった。聖テクルがアレクサンドリアから、[[洗礼者ヨハネ]]のものとされる聖遺物(3本の指)をもたらした(現在、コミューンの紋章にも描かれている)。同様に、刃物メーカー・[[オピネル]]のロゴも、この3本の指を表している。町は[[クロヴィス1世]]の息子[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]]によって、司教座の町の列に加えられた。
サン=ジャン=ド=モーリエンヌは、6世紀以降モーリエンヌ谷の中心地であった。聖テクルがアレクサンドリアから、[[洗礼者ヨハネ]]のものとされる聖遺物(3本の指)をもたらした(現在、コミューンの紋章にも描かれている)。同様に、刃物メーカー・[[オピネル]]のロゴも、この3本の指を表している。町は[[クロヴィス1世]]の息子[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]]によって、司教座の町の列に加えられた。


753年、[[カール・マルテル]]の子グリフォンが、異母兄[[ピピン3世]]最大の敵である[[ロンゴバルド族]]の王アイストルフ([[:fr:Aistolf|fr]])と合流するためイタリアを訪れようとしたが、ピピンの手の者によってサン=ジャン=ド=モーリエンヌで殺害された。
753年、[[カール・マルテル]]の子グリフォンが、異母兄[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]最大の敵である[[ロンゴバルド族]]の王アイストルフ([[:fr:Aistolf|fr]])と合流するためイタリアを訪れようとしたが、ピピンの手の者によってサン=ジャン=ド=モーリエンヌで殺害された。


10世紀後半にモーリエンヌで生まれた[[ウンベルト1世 (サヴォイア伯)|ウンベルト1世ビアンカマーノ]]は、サヴォワ伯の称号を得、[[サヴォイア家]]の始祖となった(その末裔は[[サヴォイア公国]]・[[サルデーニャ王国]]・[[イタリア王国]]の君主となる)。1048年(1047年説もある)に没したウンベルト1世は、サン=ジャン=ド=モーリエンヌのカテドラルに葬られている。
10世紀後半にモーリエンヌで生まれた[[ウンベルト1世 (サヴォイア伯)|ウンベルト1世ビアンカマーノ]]は、サヴォワ伯の称号を得、[[サヴォイア家]]の始祖となった(その末裔は[[サヴォイア公国]]・[[サルデーニャ王国]]・[[イタリア王国]]の君主となる)。1048年(1047年説もある)に没したウンベルト1世は、サン=ジャン=ド=モーリエンヌのカテドラルに葬られている。

2021年7月24日 (土) 22:25時点における版

Saint-Jean-de-Maurienne

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏
(département) サヴォワ県
(arrondissement) サン=ジャン=ド=モーリエンヌ郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 73248
郵便番号 73300
市長任期 ピエール=マリー・シャルヴォズ
2008年-2014年
自治体間連合 (fr) Communauté de communes Cœur de Maurienne
人口動態
人口 9,186人
2006年
人口密度 798人/km2
住民の呼称 Saint-Jeannais
Saint-Jeannaises
地理
座標 北緯45度16分22秒 東経6度20分54秒 / 北緯45.272889度 東経6.348444度 / 45.272889; 6.348444座標: 北緯45度16分22秒 東経6度20分54秒 / 北緯45.272889度 東経6.348444度 / 45.272889; 6.348444
標高 平均:m
最低:489 m
最高:1200 m
面積 11,51km2 (1 151ha)
Saint-Jean-de-Maurienneの位置(フランス内)
Saint-Jean-de-Maurienne
Saint-Jean-de-Maurienne
公式サイト Saintjeandemaurienne.fr
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サン=ジャン=ド=モーリエンヌSaint-Jean-de-Maurienne)は、フランスオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県コミューン

地理

サン=ジャン=ド=モーリエンヌは、アルヴ谷に源を発するアルヴァン川が、モーリエンヌ谷をかたどるボウ川と合流する地点にある。
峠の登り口としても有名であり、南西側にクロワ・ド・フェール峠、南東側にガリビエ峠が存在する。

歴史

サン=ジャン=ド=モーリエンヌは、6世紀以降モーリエンヌ谷の中心地であった。聖テクルがアレクサンドリアから、洗礼者ヨハネのものとされる聖遺物(3本の指)をもたらした(現在、コミューンの紋章にも描かれている)。同様に、刃物メーカー・オピネルのロゴも、この3本の指を表している。町はクロヴィス1世の息子グントラムによって、司教座の町の列に加えられた。

753年、カール・マルテルの子グリフォンが、異母兄ピピン3世最大の敵であるロンゴバルド族の王アイストルフ(fr)と合流するためイタリアを訪れようとしたが、ピピンの手の者によってサン=ジャン=ド=モーリエンヌで殺害された。

10世紀後半にモーリエンヌで生まれたウンベルト1世ビアンカマーノは、サヴォワ伯の称号を得、サヴォイア家の始祖となった(その末裔はサヴォイア公国サルデーニャ王国イタリア王国の君主となる)。1048年(1047年説もある)に没したウンベルト1世は、サン=ジャン=ド=モーリエンヌのカテドラルに葬られている。

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