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「ナルボンヌ包囲戦」の版間の差分

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'''ナルボンヌ包囲戦''' ([[オック語]]: Setge d'Arbuna)は、[[752年]]から[[759年]]にかけて、[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]率いる[[フランク王国]]軍が、[[ウマイヤ朝]]残存政権の[[アンダルス]]政権が支配し[[ガロ・ローマ文化|ガロ・ローマ人]]や[[西ゴート人]]が住む[[ナルボンヌ]](現[[フランス]]南部)を攻略した戦い。防衛側の名目上の支配者は包囲戦中の756年に[[コルドバ首長国]]に移行している。ナルボンヌは[[ガリア]]に侵攻したイスラーム勢力の最後の砦であり、ここにこもる[[ゴート人]]やガロ・ローマ人の貴族たちは[[フランク人]]に従うことを拒んでいた<ref>{{Cite journal|last1=Meadows|first1=Ian|date=March–April 1993|title=The Arabs in Occitania|url=http://www.saudiaramcoworld.com/issue/199302/the.arabs.in.occitania.htm|journal=Saudi Aramco World|volume=44|issue=|pages=24–29|publisher=|author1-link=}}</ref>。すでに中東では包囲戦開始前の750年に[[アッバース革命]]の勃発でウマイヤ朝が滅亡しており、[[ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン・アッ=フィーリ|ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン]]の統治するアンダルスは独立政権と化していた。


== フランク軍の接近 ==
== フランク軍の接近 ==

2021年7月24日 (土) 22:28時点における版

ナルボンヌ包囲戦
ウマイヤ朝のガリア侵攻

ナルボンヌ陥落後に撤退するアラブ・ベルベル軍
752年 - 759年
場所ナルボンヌ
北緯43度11分01秒 東経3度00分15秒 / 北緯43.1836度 東経3.0042度 / 43.1836; 3.0042
結果 ナルボンヌ降伏、フランク軍によるセプティマニア平定
衝突した勢力
アンダルス
(752-56)
コルドバ首長国
(756-59)
フランク王国
セプティマニア・ゴート人
指揮官
ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン
(752-56)
アブド・アッラフマーン1世
(756-59)
ピピン3世
アンセムンド 
ナルボンヌの位置(フランス内)
ナルボンヌ
ナルボンヌ
フランスにおける位置

ナルボンヌ包囲戦 (オック語: Setge d'Arbuna)は、752年から759年にかけて、ピピン3世率いるフランク王国軍が、ウマイヤ朝残存政権のアンダルス政権が支配しガロ・ローマ人西ゴート人が住むナルボンヌ(現フランス南部)を攻略した戦い。防衛側の名目上の支配者は包囲戦中の756年にコルドバ首長国に移行している。ナルボンヌはガリアに侵攻したイスラーム勢力の最後の砦であり、ここにこもるゴート人やガロ・ローマ人の貴族たちはフランク人に従うことを拒んでいた[1]。すでに中東では包囲戦開始前の750年にアッバース革命の勃発でウマイヤ朝が滅亡しており、ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーンの統治するアンダルスは独立政権と化していた。

フランク軍の接近

751年、フランク王国宮宰だったピピン3世は、教皇ザカリアスの支持の下でメロヴィング朝の王キルデリク3世を追い落として自ら王位につき、全く自由にフランク王国の勢力を一方面に注ぎ込むことができるようになった。その対象となったのが、サラセン人からのプロヴァンスとセプティマニアの奪還であった。彼の父カール・マルテルは以前この地域の征服を試みたが、ゴート人貴族の支持を得られず失敗していた。しかし今回は、ゴート人の伯アンセムンドに率いられてニームアグドベジールといった諸市がフランク王国方についた[2]。またモーギオもフランク軍に降伏した。しかしナルボンヌを統治していた伯ミロは、街に駐屯していた強力なアンダルス部隊に牽制され、アンダルス政権側としてピピン3世と戦うことになった。

包囲戦の開始

752年、フランク王ピピン3世はナルボンヌを包囲した。彼の予測は楽観的であり、短期間で街は陥落するとみていた。しかし包囲戦は長期化し、754年には同盟者アンセムンドがライバルのゴート人派閥によって殺される事件が起き、攻囲軍は大きな打撃を受けた。これをうけてニームでは反フランクのゴート人が反乱を起こしたが、ピピン3世はこれを迅速に制圧し、アンセムンドの後継にフランク人の長官を置いた。ピピン3世と敵対していたアクィタニア公ワイファリは、バスク人の部隊を率いてフランク軍の後方を脅かした。またフランク王国にはナルボンヌを海上封鎖できるような海軍が無く、アンダルスから来た補給船が自由にナルボンヌ市内に入ることができたため、ナルボンヌ守備隊は極めて長期間にわたり包囲戦を耐えることができた。

ナルボンヌ降伏

しかしアンダルスの情勢が不安定になるにつれ、ナルボンヌ市はアンダルスからの補給を受けられなくなっていた。756年、イベリア半島の支配者ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーンはサラゴサで発生した反乱を鎮圧し、すぐさま南方から侵攻してきたベルベル軍への対応に向かったが、ムサラの戦いで敗れまもなく殺害された。政権を奪いコルドバ首長国を建てたアブド・アッラフマーン1世は北西イベリアやセプティマニアの情勢への対処を後回しにしたため、この地域は事実上指導者・支援者を失う形となった。759年、ナルボンヌ守備隊(ムスリム・非ムスリムの混合)は、アンダルス部隊を粛清した後に城門を開き、フランク軍に降伏した。これは直前にピピン3世がゴート人の法や自治の容認を約束し、セプティマニアのゴート人貴族が彼への忠誠に傾いたことを受けてのものであった[3]

その後

ナルボンヌ陥落後、40年にわたりセプティマニアを支配してきたサラセン人アラブ人ベルベル人)はイベリア半島に撤退した。ピピン3世は、包囲戦開始の5年前にナルボンヌを逃れトロッスオード県)に退いていたミローというゴート人に街を任せた。セプティマニアを平定したことで、フランク王国の矛先は唯一残った反抗勢力であるアクィタニアのワイファリに移った。包囲戦後ルシヨンを押さえたピピン3世はトゥールーズルエルグアルビを攻撃し、ワイファリとの正面対決に向かった。

脚注

  1. ^ Meadows, Ian (March–April 1993). “The Arabs in Occitania”. Saudi Aramco World 44: 24–29. http://www.saudiaramcoworld.com/issue/199302/the.arabs.in.occitania.htm. 
  2. ^ Lewis, Archibald R. (1965). The Development of Southern French and Catalan Society, 718–1050. Austin: University of Texas Press. http://libro.uca.edu/lewis/sfcatsoc.htm 2012年6月15日閲覧。 
  3. ^ Lewis, Archibald R. 1965