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== 戴冠 ==
== 戴冠 ==
フランス王の[[戴冠式|戴冠]]は代々[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で行われた。ランスは[[フランク王国|フランク]]王[[クロヴィス1世|クロヴィス]]の洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている[[聖油]]による[[聖別]]を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。
フランス王の[[戴冠式|戴冠]]は代々[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で行われた。ランスは[[フランク王国|フランク]]王[[クロヴィス1世 (フランク王)|クロヴィス]]の洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている[[聖油]]による[[聖別]]を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。


その背景には、中世ドイツにおいて[[東フランク王国]]の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー大帝]]が[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]]として戴冠して以降、西フランク王(フランス王)が[[教皇|ローマ教皇]]にローマ皇帝冠を受けて[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝]]として[[カール大帝]]の後継者となるという方法が使えなくなったという事情がある。[[百年戦争]]の混乱の中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。
その背景には、中世ドイツにおいて[[東フランク王国]]の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー大帝]]が[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]]として戴冠して以降、西フランク王(フランス王)が[[教皇|ローマ教皇]]にローマ皇帝冠を受けて[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝]]として[[カール大帝]]の後継者となるという方法が使えなくなったという事情がある。[[百年戦争]]の混乱の中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。

2021年7月24日 (土) 22:34時点における版

フランス王国
Royaume de France
西フランク王国 987年 - 1792年 フランス立憲王国
フランスの国旗 フランスの国章
国旗国章
国の標語: Montjoie Saint Denis!
国歌: Vive Henri IV(フランス語)
アンリ4世万歳
フランスの位置
公用語 フランス語ラテン語[注釈 1]
(その他、口語としてオイル語オック語ブルトン語などを使用)
首都 パリヴェルサイユ
国王
987年 - 996年 ユーグ・カペー
(カペー朝初代)
1328年 - 1350年フィリップ6世
(ヴァロワ朝初代)
1589年 - 1610年アンリ4世
(ブルボン朝初代)
1774年 - 1792年ルイ16世
(ブルボン朝第5代)
首席国務卿
1624年 - 1642年アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー
1642年 - 1661年ジュール・マザラン
変遷
成立 987年
フランス革命1789年
王政廃止1792年
通貨リーブルフラン
フランスの歴史
フランス国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代フランス語版英語版
年表

フランス ポータル

フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国

起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。

これを前提とすると、1789年フランス革命まで800年間、さらに1848年オルレアン朝倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる[1]

歴史

カロリング朝

フランス王国は、かつては西フランク王国と呼ばれていた。現在では、カロリング朝時代の西フランク王国のみを指して西フランク王国と呼び、カペー朝以降の西フランク王国をフランス王国と呼び分けることが多い。カロリング朝の下における西フランク王国については、西フランク王国を参照。

カペー朝

カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが西フランク王に選ばれ、カペー朝(987年 - 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが、フィリップ2世フィリップ4世の時代に王権を拡大させ、イングランドローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで14代の王が続き、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た[1]

ヴァロワ朝

カペー朝断絶後、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位し、ヴァロワ朝(1328年 - 1589年)が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。後期にはイタリアへと領土的野心を向け、1494年からイタリア戦争を開始したが、ハプスブルク家によって挟撃され敗北した。1589年までの間に13代の王が続いた。なお、ルイ12世以降をヴァロワ=オルレアン朝フランソワ1世以降をヴァロワ=アングレーム朝とも呼ぶ。

ブルボン朝

ヴァロワ朝が断絶し、カペー家の別の支流ブルボン家アンリ4世がフランス王として即位したことでブルボン朝(1589年 - 1792年1814年 - 1830年)が成立した。ルイ14世の時代には領土拡大などの成果を上げたが、国民には重税を課しフランス革命を招いた。ブルボン家はフランス革命で王位を追われた後、ナポレオン1世の失脚により王政復古を成し遂げたが、七月革命によって再度王位を追われた。

オルレアン朝

七月革命により、新たにブルボン家の支流であるオルレアン家ルイ・フィリップが即位し、オルレアン朝(1830年 - 1848年)が成立した。ルイ・フィリップの王政は七月王政とも呼ばれる。ルイ・フィリップは内閣制度を導入して、立憲王政の成立やフランス経済の発展を目指した。しかし貧富の差の拡大などもあって国民の不満は爆発し、二月革命を引き起こした。この革命で第二共和政、次いで第二帝政が成立し、長きにわたったフランスの王政も終焉した。

サリカ法

フランス王国においては、他家(特にプランタジネット家)の干渉を恐れて、サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、フランス歴代国王はすべてユーグ・カペーの男系子孫の男王である。ヨーロッパでは一般に、女系での王位継承や女王が珍しくなく、フランス王国の特徴をなしている。

フランスの王党派は今なお、王政復古への望みを繋いでいるが、ブルボン家の支流のうちオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と、現在ではスペイン・ブルボン家を支持するレジティミスト(正統派)の2派が対立している。

戴冠

フランス王の戴冠は代々ランスで行われた。ランスはフランククロヴィスの洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている聖油による聖別を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。

その背景には、中世ドイツにおいて東フランク王国オットー大帝ローマ皇帝として戴冠して以降、西フランク王(フランス王)がローマ教皇にローマ皇帝冠を受けてローマ皇帝としてカール大帝の後継者となるという方法が使えなくなったという事情がある。百年戦争の混乱の中でシャルル7世は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。

脚注

注釈

  1. ^ 1539年まで。それ以降はフランス語のみ単一の公用語とされた。

出典

  1. ^ a b William W. Kibler (1995). Medieval France: An Encyclopedia. Taylor & Francis. p. 879. https://books.google.com/books?id=MQoKeohhNkMC&pg=PA879 

関連項目