コンテンツにスキップ

「メロヴィクス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: フランク王記事の改名に伴うリンク修正依頼 (クローヴィス1世 (フランク王)) - log
4行目: 4行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
5世紀中頃に[[フランク人]]の[[サリ族]]を率いた王で、451年の[[カタラウヌムの戦い]]で[[アエティウス]]の率いる[[西ローマ帝国]]軍に従い、[[フン族]]を破った。457年頃に死に、息子の[[キルデリク1世|キルデリック]](フランク王国の初代国王となる[[クロヴィス1世]]の父)が後を継いだとされる。
5世紀中頃に[[フランク人]]の[[サリ族]]を率いた王で、451年の[[カタラウヌムの戦い]]で[[アエティウス]]の率いる[[西ローマ帝国]]軍に従い、[[フン族]]を破った。457年頃に死に、息子の[[キルデリク1世|キルデリック]](フランク王国の初代国王となる[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]の父)が後を継いだとされる。


具体的に知られるのは以上だけで、後にメロヴィング家の始祖(メロヴィングの語源)とされ、海神の子孫とする伝説(『[[フレデガリウス年代記]]』)などが流布した<ref>{{Cite book|和書|author=ルネ・ミュソ=グラール|year=2000|title=クローヴィス|publisher=文庫クセジュ|pages=P.21}}</ref>。また[[サリ族|サリ=フランク族]]の王としては同時期に{{仮リンク|クロディオ|en|Chlodio}}が活躍しており、メロヴィクスはクロディオの家系から出たと[[トゥールのグレゴリウス]]は『フランク史』に書いている<ref>{{Cite book|和書|author=[[ジュール・ミシュレ]]|year=2016|title=フランス史【中世】I|publisher=論創社|pages=P.196}}</ref>が、確実な情報はない。
具体的に知られるのは以上だけで、後にメロヴィング家の始祖(メロヴィングの語源)とされ、海神の子孫とする伝説(『[[フレデガリウス年代記]]』)などが流布した<ref>{{Cite book|和書|author=ルネ・ミュソ=グラール|year=2000|title=クローヴィス|publisher=文庫クセジュ|pages=P.21}}</ref>。また[[サリ族|サリ=フランク族]]の王としては同時期に{{仮リンク|クロディオ|en|Chlodio}}が活躍しており、メロヴィクスはクロディオの家系から出たと[[トゥールのグレゴリウス]]は『フランク史』に書いている<ref>{{Cite book|和書|author=[[ジュール・ミシュレ]]|year=2016|title=フランス史【中世】I|publisher=論創社|pages=P.196}}</ref>が、確実な情報はない。

2021年7月24日 (土) 22:40時点における版

1720年につくられたブロンズ・メダルに刻まれたメロヴィクス像。フランス国立図書館所蔵

メロヴィクス(メロヴィウス、Merovech / Meroveus / Meroviusなどと綴られる)は、フランク王国メロヴィング家の始祖とされる、半ば伝説的な人物。

生涯

5世紀中頃にフランク人サリ族を率いた王で、451年のカタラウヌムの戦いアエティウスの率いる西ローマ帝国軍に従い、フン族を破った。457年頃に死に、息子のキルデリック(フランク王国の初代国王となるクローヴィス1世の父)が後を継いだとされる。

具体的に知られるのは以上だけで、後にメロヴィング家の始祖(メロヴィングの語源)とされ、海神の子孫とする伝説(『フレデガリウス年代記』)などが流布した[1]。またサリ=フランク族の王としては同時期にクロディオ英語版が活躍しており、メロヴィクスはクロディオの家系から出たとトゥールのグレゴリウスは『フランク史』に書いている[2]が、確実な情報はない。

脚注

  1. ^ ルネ・ミュソ=グラール『クローヴィス』文庫クセジュ、2000年、P.21頁。 
  2. ^ ジュール・ミシュレ『フランス史【中世】I』論創社、2016年、P.196頁。 

参考文献

関連項目