「キルデリク2世 (フランク王)」の版間の差分
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[[クローヴィス2世 (フランク王)|クローヴィス2世]]の次男。アウストラシア王[[シギベルト3世]]の娘ビリキルディスと結婚し、[[662年]]に[[キルデベルト養子王]]が崩御した後、アウストラシア王とされた<ref name=J32>ル・ジャン、p. 32</ref>。 |
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673年に兄の[[クロタール3世 (フランク王)|クロタール3世]]が崩御すると、全フランクの国王とされたが<ref name=J32 />、675年にルーアン近くのブロトンヌの森で、ネウストリア貴族によって王妃とともに[[暗殺]]された<ref>柴田 他、p. 150</ref>。 |
673年に兄の[[クロタール3世 (フランク王)|クロタール3世]]が崩御すると、全フランクの国王とされたが<ref name=J32 />、675年にルーアン近くのブロトンヌの森で、ネウストリア貴族によって王妃とともに[[暗殺]]された<ref>柴田 他、p. 150</ref>。 |
2021年7月24日 (土) 22:43時点における版
キルデリク2世 Childeric II | |
---|---|
アウストラシア王 フランク王 | |
キルデリク2世のコイン | |
在位 |
アウストラシア王:662年 - 673年 全フランク王:673年 - 675年 |
出生 |
653年 |
死去 |
675年 ルーアン近郊 |
埋葬 | サン=ジェルマン=デ=プレ |
配偶者 | ビリキルディス |
子女 |
キルペリク2世 ダゴベルト |
王朝 | メロヴィング朝 |
父親 | クローヴィス2世 |
母親 | バルティルド |
キルデリク2世(Childeric II, 653年 - 675年)は、メロヴィング朝の7代目の国王(在位:673年 - 675年)。アウストラシア王(在位:662年 - 673年)。
生涯
クローヴィス2世の次男。アウストラシア王シギベルト3世の娘ビリキルディスと結婚し、662年にキルデベルト養子王が崩御した後、アウストラシア王とされた[1]。
673年に兄のクロタール3世が崩御すると、全フランクの国王とされたが[1]、675年にルーアン近くのブロトンヌの森で、ネウストリア貴族によって王妃とともに暗殺された[2]。
墓は1645年パリ近郊で発見されている。
脚注
参考文献
- レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
関連項目
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