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2021年8月1日 (日) 06:46時点における版

小野原 里佳(おのはら りか、1961年8月10日 - )は、元北日本放送(KNB)アナウンサー1984年-1987年)。血液型はA型。京都府出身[1]

略歴・人物

中学生時代に聴いていた「セイ!ヤング」の落合恵子に憧れ、高校生時代は放送部に所属。大阪芸術大学芸術学部放送学科在学中には自らミニFM局を開局したということもあった[2]

大阪芸術大学卒業後、入社[2]相本芳彦(元アナウンス部長)と「ズームイン!!朝!」のレポーターとして有名になり、それ以外の番組でも、相本とのコンビで多数の番組に出演。

ラジオ番組のDJとして、「オタヤでヨイショ オタオタ99%」、「ハローヤングタウン MSの街」などの公開録音番組で人気を得る。当時のラジオ番組雑誌「ラジオパラダイス」のパーソナリティ人気投票で上位に進出。一躍全国区のパーソナリティとして、注目され記事にもなった。「小野原里佳バックアップファンクラブ(OBFC)」がリスナーの手により結成される[1]

1987年3月末にて、北日本放送を退社。フリーアナウンサーとして活躍するために、関西での活動をする予定で芸能事務所に所属したが、同年7月学生時代の同級生と結婚。翌年、男児を出産するためフリーアナウンサーとしての活動を休止し[1]現在に至る。 

同アナウンサーの築いた番組コンテンツの流れは、その後北日本放送に入社する横島繭子アナウンサーに受け継がれている。

熱烈な阪神ファンでもある[2]

脚注

  1. ^ a b c 月刊ラジオパラダイス 1989年3月号 p.14「追跡 あのパーソナリティは現在」
  2. ^ a b c 別冊ラジオパラダイス「DJ名鑑」(1987年刊)「北日本放送」のページより