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'''下司 愉宇起'''(しもじ ゆうき)は日本の歌手・指揮者・作詞家・音楽プロデューサー。[[熊本県]]出身。
'''下司 愉宇起'''(しもじ ゆうき)は日本の歌手・指揮者・作詞家・音楽プロデューサー。[[熊本県]]出身。



2021年8月4日 (水) 09:57時点における版

下司 愉宇起(しもじ ゆうき)は日本の歌手・指揮者・作詞家・音楽プロデューサー。熊本県出身。


熊本マリスト学園中学校卒業。熊本市立必由館高等学校普通科芸術コース音楽系の第一期卒業生。東京藝術大学音楽学部卒業。ハリウッド大学院大学ビューティービジネス研究科修了。

とちぎ未来大使・とちぎ音楽大使。日光観光大使。

華道師範〈理方宇〉、茶道教授〈南虚〉の名を持つ。

NPO法人子どもの脳・心・生命(いのち)を守る会特別顧問、一般財団法人アース エイド ソサエティ理事、一般社団法人日本音楽作家団体協議会理事、世田谷区花道茶道協会理事、日光国際音楽祭実行委員長、全日本児童音楽協会副会長などを務める。

平成音楽大学講師。

祖父は宗教家の御木徳日止。叔父に俳優の御木裕、筑波大学名誉教授の有吉豊太郎がいる。

来歴

東京都町田市に産まれる。その後3才で父親の転勤のため熊本県へ転居。熊本市龍田に当時拓かれたばかりの立田ニュータウン三光団地に住む。近隣には小学校建設があったが、いつの間にか計画は流れ農道を1時間以上歩いて通う小学生活だった。本人談では「都会から移り住み、物心もついていたので、とんでもないところに来てしまった」、「田舎に馴染めない寂しさ、都会への憧れが常にあった」しかし「都会では味わうことのできない自然の息吹の中で育ったことは、今の音楽経験に生かされている」とも語っている(2020年東京栃木県人会場会報より)。

中学時代

小学校卒業を機に熊本市中心部へ転居し、熊本マリスト学園中学校に進学。

両親からは医者や弁護士になることを望まれていたが、吹奏楽部に入部したことがきっかけとなり音楽に没頭。成績は下がる一方で、両親からは音楽活動を良く思われていなかった。音楽への思いは募るが音楽基礎力が乏しいため、声楽ならばチャンスがあるのではと考え合唱部に転部。顧問の紹介で後々までの師匠と出会う。しかし両親の理解は得られず、「お年玉とお小遣い」でレッスンに通っていた。その後両親からは「成績が上がったら許す」と言われ猛勉強の末、中学三年時には上位に。声楽レッスン開始の半年後、いくつかのコンクールで優勝。

2000年、熊本市立高校が校名変更並びに普通科に芸術コース設立を発表。県内唯一普通科芸術コースを設置していた九州女学院が共学化、並びに校名変更を発表。音楽高校に進学することを考えはじめるが、熊本マリスト学園は中高一貫教育のため、他校への進学は許されない。担任教諭や学校長へ重なる交渉の上『音楽で進学するためには当校の環境では難しい』と特別に推薦状を書いてもらえることになった。当時、公立高校への進学には内申点が必須であったが、熊本マリスト学園は同高校への進学が必須であったために県下一斉共通テストを受けておらず、内申点はゼロであった。熊本市立必由館高等学校普通科芸術コースに推薦試験で合格。内申点の問題で、普通試験ではまず合格できなかった。

高校時代

高校時代は、当時まだ学校が機械警備でなかったため、夏休みやお正月もほぼ練習室に籠る生活。『人生で一番練習した時代』としている。県内外のコンクールに出場するが伸び悩み、本人念願であった滝廉太郎コンクールに出場することは叶わなかったが、熊日学生音楽コンクールや犬童球渓顕彰音楽祭等では優勝。格安航空会社の熊本への参入などが功を奏し、東京で芸大・武蔵野音大・昭和音大の教授などにレッスンに通っていた。

東京藝術大学時代

現役で東京藝術大学に合格。2年間石神井寮にて生活を送る。学年のインスペクターや四芸祭の委員、また学外活動では東京熊本県人会の活動や日本ルーマニア協会の設立に携わるなど充実した日々を送る。様々な音楽科目や美術学部の授業を履修するも、だんだんと主科である声楽は、周りの同級生たちとの実力の差や情熱の温度差、また大学三年次からの主科担任と反りが合わなかったこともあり、次第に心苦しむことになる。

大学三年生より知人の紹介により、衆議院議員の吉永治市の邸宅、東京青山・神宮前五丁目に間借りする。その後、同敷地内に転居してきた芸能プロモーターの勧めにより、ミュージカル事務所を紹介される。大学卒業を機にオペラの道をやめ、ダンスや芝居のレッスンに励む。ミュージカルではアンサンブルのオーディションすら合格しなかったが、この時期ファッション雑誌のモデルや韓流スターとのステージ、アウトリーチコンサートなどのチャンスを得る。しかしながら、リーマン・ショックにより仕事が激減。もともとミュージカルが好きで始めたレッスンではなかったため、『本当に好きな人には叶わない』と感じ、事務所を退所。

中学から音楽ばかりであったため、他に何か挑戦してみたいと考えていた矢先、恵比寿の駅で学校法人メイ・ウシヤマ学園ハリウッドビューティー専門学校が附設するハリウッド大学院大学の広告が目に留まり、その足で大学院を訪れる。美容師が独立後に困る経営スキルを身に付けさせる事を目的とする研究科に魅力を感じ、飛び込んだ。

大学院生時代

大学院は当時創立3年目。学術教授は早稲田や東大といった一流教授陣、実技教授は日本の美容業界の最高峰が教鞭にあたっていた。実技科目、特にメイクの分野別においてはオペラやミュージカルに精通する教授の陶薫を受けた。また、芸大では教わることのなかったホスピタリティーの概念に衝撃を受けた。このことは今の音楽活動に大きな影響を与えた。

この時期、附属専門学校の教養科目や国士舘高校で音楽教師として講師を勤めていた。

大学院のある授業で旅行業界におけるサークルビジネスについて学ぶ。同時期バイブルとなるビジネス書との出会いや、新しい音楽仲間と出会い、これまで縁のなかった栃木県で女声コーラスを立ち上げることとなる。

大学院卒業後

大学院在学中、自身が指導する女声合唱団岡本カンマーコールのために、これまで密かに筆を重ねていた作詞作品を世に出すことになる。幸運にも何作かが楽譜として全国発売となった。うち、栃木県を題材とした合唱曲「下野旅情」がNHK関東一円で特集された。

日光観光大使

岡本カンマーコール発足一年後、日光市内のある合唱団が解散となり、新たなグループを発足するとして白羽の矢がたった。姉妹合唱団日光カンマーコールが発足。市議会議長の推薦、NHKの放映や、一年間の岡本カンマーコールの活動、これからの日光カンマーコールの発展が期待され、日光観光大使に任命される。当時日光観光大使は今ほど実働しておらず、音楽家としては作曲家の船村徹に続き二番目の観光大使であった。

2013年、岡本カンマーコールと日光カンマーコール合同のコンサートを日光金谷ホテルで開催。観光協会から委嘱されていた日光市の観光PRキャラクター日光仮面のテーマソングを発表。日光市の友好姉妹都市である台湾・台南室内合唱団を招聘。

2015年に日光市中心市街地の道の駅に船村徹記念館が落成。落成式典には数々の著名人が参列する中、唯一の市民代表として参列。落成式典後には日光カンマーコールが奏楽を担当した。

その年、当時の斎藤文夫市長が提唱した【音楽の街日光】の構想を受け、市民モデルとして日光国際音楽祭声楽コンクールが立ち上がり、今に続く。

2016年台湾の膨湖県政府の合唱団より、日本でのコンサート開催を熱望され、日光国際音楽祭が招聘。

2017年に下司が歌手として台北ライオンズクラブのゲストに呼ばれたことを機に、岡本カンマーコールと日光カンマーコールによる台湾演奏旅行の話が立ち上がり、2018年に台南市にて台南室内合唱団とジョイントコンサートを開催。

2019年、日光市ゆかりの二宮尊徳を題材とした合唱組曲を発表。二宮尊徳研究者である安西悠子をゲストに、日光カンマーコールのコンサートにて初演。二宮尊徳の関心は高く、日光市内の合唱団としては異例1,000名を越える来場者があり、会館に続く道には大渋滞が出来てしまった。

その年の11月、これまでの功績が評価され、日光市からの推薦で、栃木県とちぎ未来大使に任命された。

歌手として

2012年から2年ほど、シャンソン歌手の大庭照子が主宰するNPO法人日本国際童謡館の専属歌手として、九州や関東甲信越、東北、韓国などで公演を行った。その経験から、現在でも当時のスタイルで公民館や幼稚園、お祭りなど場所を選ばず全国で公演を続けている。2017年頃から山梨県笛吹市の「ホテルふじ」にてレギュラー出演している。ふじには著名なシャンソン歌手や奏者、俳優等が多数出演しており、唯一クラシック出身歌手である。

普段はマイクを用いた演奏スタイルだが、2018年に作曲家・青島広志の目に留まり、青島が演出するオペレッタ『メリー・ウィドー』にカミーユ・ロジョン役で出演。遅いオペラデビューした。

2019年、熊本オペラ芸術協会サマーオペラフェスティバルにて、ミュージカル『砂浜のエレジー~肥後の石工恋唄』の主演・林蔵役を務めた。

普段は童謡や歌謡曲をマイクを使い公演している。クラシック出身歌手なので時に拡声器を用いない歌唱を求められるが、本人は「マイクを使わず、大きな声を出そうとすると、なぜか喉が噎せてしまう」ので厳しい。

指揮者として

高校時代は斉藤指揮法の研究サークルに所属。大学進学と共に指揮者の黒岩英臣の門を叩くが、「基礎は教えない」と言われ斉藤指揮法の継承者である高階正光に師事した。

大学では松尾葉子の指揮クラスを受講した。

現在は主にアマチュアコーラスを指揮しているが、かつては吹奏楽やオーケストラを指揮したこともある。また、武蔵野音楽大学別科指揮コースで宮内庁の洋楽指揮者・北原幸男に指導を受けている。

作詞

高校生の頃から密かに詞を書き貯めてきた。 本人は詩人ではなく、メロディが伴うことを前提に作詞家としている。

合唱曲として数冊が出版されている他、日本童謡協会などで毎年新曲を発表。

レコード会社からは民謡歌手やクラシック歌手などに楽曲を提供している。


趣味 2007年頃より華道家元古流東洋会で華道を、2008年頃より織田流煎茶道を嗜んでいる。 華道での稽古の様子、作品は度々ブログに投稿している。

脚注

http://shimojissimo.ciao.jp