「パドマギャルポ」の版間の差分
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[[致和]]元年([[1328年]])、イェスン・テムルが亡くなると、皇太子アリギバを擁立しようとしたダウラト・シャーらに対して、[[エル・テムル]]らが[[トク・テムル]]を擁立し、内乱状態に陥った([[天暦の内乱]])。アリギバらは[[上都]]に籠城したものの、最終的にはエル・テムルの軍勢に敗れ、投降した。内乱時のパドマギャルポの動向は伝えられていないが、『元史』には[[天暦]]元年(1328年)に陥落した上都で殺されたことが記録されている<ref>岡田2010,301-302頁</ref>。 |
[[致和]]元年([[1328年]])、イェスン・テムルが亡くなると、皇太子アリギバを擁立しようとしたダウラト・シャーらに対して、[[エル・テムル]]らが[[トク・テムル]]を擁立し、内乱状態に陥った([[天暦の内乱]])。アリギバらは[[上都]]に籠城したものの、最終的にはエル・テムルの軍勢に敗れ、投降した。内乱時のパドマギャルポの動向は伝えられていないが、『元史』には[[天暦]]元年(1328年)に陥落した上都で殺されたことが記録されている<ref>岡田2010,301-302頁</ref>。 |
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パドマギャルポを最後に、元朝では正式に「晋王」に封じられる者はいなくなったが、「チンギス・カンの四大オルドを統轄する」晋王という称号への畏敬はその後も長く残った。パドマギャルポからおよそ100年後に[[タイスン・ハーン]]の弟[[アクバルジ晋王|アクバルジ]]が「[[ジノン]](=晋王)」と称され、その孫[[バヤン・モンケ・ボルフ晋王|ボルフ・ジノン]]の孫[[バルス・ボラト|サイン・アラク・ジノン]]の時代より、「ジノン」は四大オルドを統轄する[[オルドス]]部首長の称号として知られるようになった。 |
パドマギャルポを最後に、元朝では正式に「晋王」に封じられる者はいなくなったが、「チンギス・カンの四大オルドを統轄する」晋王という称号への畏敬はその後も長く残った。パドマギャルポからおよそ100年後に[[タイスン・ハーン]]の弟[[アクバルジ晋王|アクバルジ]]が「[[ジノン]](=晋王)」と称され、その孫[[バヤン・モンケ・ボルフ晋王|ボルフ・ジノン]]の孫[[バルス・ボラト|サイン・アラク・ジノン]]の時代より、「ジノン」は四大オルドを統轄する[[オルドス部]]部首長の称号として知られるようになった。 |
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== 脚注 == |
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2021年8月15日 (日) 03:04時点における版
パドマギャルポ(モンゴル語: Бадамрэгжийбуу (Padmargyal po) , 中国語: 八的麻亦児間卜, ? - 1328年)は、モンゴル帝国第10代皇帝(大ハーン)であるイェスン・テムルの次子。クビライ・カーンの曾孫に当たり、兄には第11代大ハーンのアリギバがいる。
概要
生年は不明であるが、晋王イェスン・テムルの次男として生まれた。兄に天順帝アリギバ、弟に小薛太子と允丹藏卜太子がいる。至治3年(1323年)、英宗シデバラがテクシらによって暗殺される(南坡の変)と、イェスン・テムルは擁立されて大ハーン位に即いた。
大ハーンとなったイェスン・テムルは泰定元年(1324年)20日(丙午)に長子アリギバを皇太子とし、同月23日(己酉)に次子パドマギャルポを晋王に封じた。最初に晋王に封ぜられた祖父カマラ以来、晋王にはケルレン川河畔にあるチンギス・カンの四大オルドを統轄する役目があったが[1]、パドマギャルポは年幼いためすぐには封地であるモンゴリアに赴かなかった。
泰定4年(1327年)12月7日(辛丑)には右丞相タシュ・テムルと左丞相ダウラト・シャーに対し、本来はパドマギャルポの役目である晋王府内史と四大オルドのことについて統領するよう勅令が出された。
致和元年(1328年)、イェスン・テムルが亡くなると、皇太子アリギバを擁立しようとしたダウラト・シャーらに対して、エル・テムルらがトク・テムルを擁立し、内乱状態に陥った(天暦の内乱)。アリギバらは上都に籠城したものの、最終的にはエル・テムルの軍勢に敗れ、投降した。内乱時のパドマギャルポの動向は伝えられていないが、『元史』には天暦元年(1328年)に陥落した上都で殺されたことが記録されている[2]。
パドマギャルポを最後に、元朝では正式に「晋王」に封じられる者はいなくなったが、「チンギス・カンの四大オルドを統轄する」晋王という称号への畏敬はその後も長く残った。パドマギャルポからおよそ100年後にタイスン・ハーンの弟アクバルジが「ジノン(=晋王)」と称され、その孫ボルフ・ジノンの孫サイン・アラク・ジノンの時代より、「ジノン」は四大オルドを統轄するオルドス部部首長の称号として知られるようになった。