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1974年(昭和49年)4月1日、同館を初めとする川崎地区の映画館を経営する美須合名と、蒲田地区の映画館を経営する美須商事が合併して、株式会社カワサキ・ミス(社長[[美須君江]])を設立、同館の経営は同社の興行部が行うこととなる<ref name="年鑑75">『映画年鑑 1975』、時事映画通信社、1975年、p.13.</ref>。
1974年(昭和49年)4月1日、同館を初めとする川崎地区の映画館を経営する美須合名と、蒲田地区の映画館を経営する美須商事が合併して、株式会社カワサキ・ミス(社長[[美須君江]])を設立、同館の経営は同社の興行部が行うこととなる<ref name="年鑑75">『映画年鑑 1975』、時事映画通信社、1975年、p.13.</ref>。


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1982年(昭和57年)10月25日、同館を経営するカワサキ・ミスから興行部門が分離独立、美須興行株式会社(会長美須君江、社長[[太郎田智]]、現在の[[チネチッタ (企業)|株式会社チネチッタ]])を設立、同館の経営は美須興行が行うこととなる<ref name="年鑑83_130">『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年、p.130.</ref>。
1982年(昭和57年)10月25日、同館を経営するカワサキ・ミスから興行部門が分離独立、美須興行株式会社(会長美須君江、社長[[太郎田智]]、現在の[[チネチッタ (企業)|株式会社チネチッタ]])を設立、同館の経営は美須興行が行うこととなる<ref name="年鑑83_130">『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年、p.130.</ref>。

2021年8月17日 (火) 23:41時点における版

川崎銀星座
Kawasaki Ginseiza
1954年昭和29年)頃の銀星座。
兄弟はみな勇敢だった』(リチャード・ソープ監督)『波止場』(エリア・カザン監督)が上映されていたことが確認出来る。[1]
地図
情報
正式名称 川崎銀星座
完成 1936年
開館 1936年
閉館 1990年6月22日
最終公演東京上空いらっしゃいませ
「パチンコ物語」
客席数 100席(閉館時)
設備 DOLBY STEREO
用途 映画上映
運営 金美館本部 ⇒ 美須合名 ⇒ カワサキ・ミス美須興行
所在地 210-0023
神奈川県川崎市川崎区小川町3番地1
最寄駅 JR川崎駅京急川崎駅
特記事項 略歴
1936年 開業
1945年4月15日 川崎大空襲で全焼
1945年7月 復興
1990年 閉館
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川崎銀星座(かわさきぎんせいざ、1936年 開業 - 1990年 閉館)は、かつて存在した日本の映画館である。美須鐄金美館本部(のちのカワサキ・ミス、現在のチッタ エンタテイメント)による川崎進出第1号館であり、同地の空襲による壊滅からの復興第1号館でもあった[2][3]

歴史・概要

開業

1936年(昭和11年)、東京市荒川区(現在の東京都荒川区)を拠点に映画街を形成していた金美館本部が、川崎市への進出の第1号館として、同市小川町(現在の同市川崎区小川町)に同館を開業する[2][3]。金美館本部は、同館を初め、合計6館を建設し、1937年(昭和12年)春には、小川町に「川崎映画街」を形成、これが現在の「チネチッタ」の第1歩となる[2]川崎映画劇場(のちの川崎スカイ劇場、現存せず)、実演劇場の川崎花月劇場(1943年開館、現存せず)等が存在した[3]

戦後

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月15日川崎大空襲で全焼、映画街がすべて崩壊する[2][3]。同年7月、同館を第1号として急造のバラックとして復興する[2]。戦後、改めて復興を期して改築、同年11月に正式に竣工、同月17日 - 18日内覧会、19日 - 21日の3日間は市民に無料公開し、同月22日から松竹の作品をもって本興行を開始した[3][4]。同館に続いて、川崎映画劇場、川崎花月劇場が復興[4]、1947年(昭和22年)末までには、さらに川崎オデオン座川崎第一東宝劇場川崎大映劇場が完成、6館(映画館は5館)が形成する「川崎映画街」として翌1948年(昭和23年)の正月興行を開けた[3]

ファイル:Jeux interdits 1952 Japanese poster.jpg
銀星座でもロードショー上映されたフランス映画『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督、1952年制作)の日本版ポスター。

1949年(昭和24年)4月18日、金美館本部は従来の個人事業から会社組織化され、美須合名会社となる。同年、川崎映画街は9館に増強される。1950年(昭和25年)、同館を初めとした川崎映画街に「銀映会」が結成される[2]。同年7月、関連会社として設立した美須商事株式会社(のちに美須合名と合併してカワサキ・ミス、現在のチッタエンタテイメント)の直営として、蒲田に6館を新設している[5]。このころは『禁じられた遊び』等を興行する洋画ロードショー館であった[6]。当時の所在地は川崎市古川通78番地である[7]

1974年(昭和49年)4月1日、同館を初めとする川崎地区の映画館を経営する美須合名と、蒲田地区の映画館を経営する美須商事が合併して、株式会社カワサキ・ミス(社長美須君江)を設立、同館の経営は同社の興行部が行うこととなる[8]

1976年(昭和51年)3月、『キネマ旬報』誌3月下旬号グラビアページで「われらの映画館 神奈川篇」で紹介される[9]。このころには、日本映画の名画座となっており、小説家の田中小実昌もよく通ったと後に回想している[10]1978年(昭和53年)8月期には『溶解人間』(ウィリアム・サッチス監督)と『スパイダーマン』(E・W・スワックハマー監督)のコロンビア ピクチャーズ2本立ロードショーもあった[11]

1982年(昭和57年)10月25日、同館を経営するカワサキ・ミスから興行部門が分離独立、美須興行株式会社(会長美須君江、社長太郎田智、現在の株式会社チネチッタ)を設立、同館の経営は美須興行が行うこととなる[12]

閉館とその後

1985年(昭和60年)、川崎映画街の再開発が着手され、川崎グランド劇場(後のチネグランデ)をはじめとして、いくつかの映画館が取り壊されるが、同館は引き続き営業する[2]。1987年(昭和62年)、再開発の結果、シネマコンプレックス「チネチッタ」が誕生[2]、チネグランデ、チネ1-5らが立ち並ぶなかで、同館はその入口のパチンコ店の2階に位置し、少なくとも1990年(平成2年)ころまでは、日本映画の名画座から松竹封切館にプログラムを換えて、営業を続けていたが[13]、同年6月22日[14][注 1]東京上空いらっしゃいませ』(牧瀬里穂主演)と『パチンコ物語』[注 2]の2本立を最後に閉館し、54年間の歴史に幕を閉じた。

1991年(平成3年)、チネチッタ通り商店街振興組合が発足し、2001年(平成13年)に「銀映会」が解散する[2]。2003年(平成15年)、カワサキ・ミスがチッタ エンタテイメント、子会社の美須興行がチネチッタとそれぞれ社名変更している。のちに、同館の跡地にはカキモトアームズLA CITTADELLA店(2014年に武蔵小杉に移転)[16]を経て、ORIHICA川崎 ラ チッタデッラ店が入居していた(2019年9月8日閉店)[17]

川崎映画街

青春怪談』(監督市川昆1955年)上映時の川崎東宝[1]
『青春航路 海の若人』(監督瑞穂春海)『百面童子』(監督小沢茂弘)上映時(1955年4月)の川崎東映[1]

チネチッタ登場(1987年)以前に存在した劇場の一覧である。1947年(5館)[3]、1956年(10館)[7]、1957年(11館)[18]、1966年(12館)[2]、1983年(9館)[19]の資料による。1984年には、スカラ座、名画座、銀星座、ニュース劇場以外はすべて川崎グランド1-5となった[20]。いずれも現存しない。特筆以外は現在跡地にラ チッタデッラが建っている。美須興行の経営した劇場は、このほかにも川崎地区には追分映画劇場川崎駅ビル文化劇場(のちのチネBE)があったが、いずれも現存しない。

脚注

注釈

  1. ^ 『映画年鑑 1997』別冊『映画館名簿』には記載が見られない。[15]
  2. ^ 1990年に公開された日本映画。配給:松竹、監督:辻理 、原作:間部洋一、脚本:大原豊

出典

  1. ^ a b c 『映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東編』 キネマ旬報社、2010年
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v かわさき区の宝物シート 銀映会 (川崎映画街)” (PDF). 川崎市. 2021年4月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 二宮公雄. “娯楽エリアの成立と商店街の発展” (PDF). 川崎市. 2021年4月21日閲覧。
  4. ^ a b 「川崎映畫街復興 十七日から蓋をあける」、神奈川新聞、1945年11月15日付。
  5. ^ 『キネマ旬報 1954 年鑑』、キネマ旬報社、1954年, p.81
  6. ^ 禁じられた遊び』チラシ、川崎銀星座、1953年。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 『映画年鑑 1956』、時事映画通信社、1956年、p.20.
  8. ^ 『映画年鑑 1975』、時事映画通信社、1975年、p.13.
  9. ^ キネマ旬報』誌1976年3月下旬号、キネマ旬報社、1976年3月、p.51.
  10. ^ 『文藝』、河出書房新社、1985年。
  11. ^ tromadokudoku (2013年11月14日). “『マンボーグ』に『バイオコップ』予告編等が付く<ウルトラグラインドハウス>方式【日本劇場公開特別編】とはSTチェーンで『スパイダーマン』と『溶解人間』の2本立てを観るようなものです(江)。”. マカロニ・エンタテインメント傑作選. Twitter. 2019年11月30日閲覧。
  12. ^ 『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年、p.130.
  13. ^ 『映画年鑑 1990』、時事映画通信社、1990年、p.13.
  14. ^ 平成2年のラストショー(Ⅱ)”. 平成ラストショー hp. 2018年11月2日閲覧。
  15. ^ 『映画年鑑1997版別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1997年、p.36.
  16. ^ a b 会社案内・沿革”. カキモトアームズ. 2019年11月30日閲覧。
  17. ^ a b ORIHICA川崎ラ チッタデッラ店(2019年9月8日閉店)”. ORIHICA. AOKIホールディングス. 2019年11月30日閲覧。
  18. ^ a b c d e f g h i j k l 昭和32年の神奈川県の映画館、中原行夫の部屋、2010年10月31日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g h i j 『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年、広告ページ。
  20. ^ a b c d e 『映画年鑑 1984』、時事映画通信社、1984年、広告ページ。

関連項目

座標: 北緯35度31分41.1秒 東経139度41分52.7秒 / 北緯35.528083度 東経139.697972度 / 35.528083; 139.697972