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2021年9月6日 (月) 11:42時点における版
物見塚 | |
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青梅インター入口にある今井物見塚の看板 | |
北緯35度47分45.8秒 東経139度19分2.5秒 / 北緯35.796056度 東経139.317361度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
市 | 青梅市 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
物見塚(ものみづか)とは東京都青梅市にかつて存在した地名である[1]。
地名の由来
北側は緩やかな、南側は急な斜面となっており見晴らしの良い地形となっている。北方の今井城が実際に使用されていた当時、外敵の侵入を監視するために物見塚が築かれていたという言い伝えがあり、地名はこれに由来するものといわれている[2]。明治時代に書かれた『西多摩郡地誌草稿』も今井氏居住の名残と伝えられる地名として「物見塚」を挙げている[3][4]。しかし今井城から物見塚までは距離があり、監視に使われていたとすれば城との連絡をどのように取っていたのかははっきりしない[5]。昭和末期までは圏央道青梅IC入口の信号に近い場所に、周囲より2mほど高い丘が残っていたとされる[2]。
沿革
現在
大半が青梅市今井の一部となっているほか、青梅市大門、青梅市藤橋にも一部が取り込まれている[6]。東京都道44号瑞穂富岡線(岩蔵街道)沿いのバス停の名前や、岩蔵街道と埼玉県道・東京都道179号所沢青梅線の交点にある交差点の名称として名前を残している[7]。市道幹4号線にも物見塚通りの愛称が付けられている。通り沿いには、1996年(平成8年)に圏央道の青梅ICが設けられ、青梅の新しい玄関口となっている。1997年(平成9年)には[注釈 1]、市境や駅など交通の要所に花壇を設け、市の訪問者を歓迎する企画の一環として、IC近くにも花壇が設けられた。この花壇は老人会により管理がなされ、2002年6月には「ようこそおうめ」の花文字が作られた[9]。しかし2013年から数回にわたってこの花壇に植えられていたパンジーが盗まれる被害にあっている[10]。
注釈
脚注
- ^ 「角川日本地名辞典」編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典13東京都』、角川書店、1978年、1208ページ。
- ^ a b 角田清美『青梅市今井の文化財』2016年、78-79ページ。
- ^ 学習院大学輔仁会史学部(編集)『今井城址 青梅市今井に於ける中世城郭の調査』学習院大学輔仁会史学部、1967年、30, 33ページ。
- ^ 奥田直栄「今井城址――青梅市における中世城郭の調査――」『多摩郷土研究』第38号、多摩郷土研究の会、1970年4月、12, 14ページ。
- ^ 角田清美「今井歴史物語(中編)」『実践と研究(東京都立武蔵村山高等学校紀要)』第24集、2001年3月、13-14ページ。
- ^ 『旧新町字 旧新地番 対照表 昭和54年4月1日施行(昭和52年2月5日現在地番)』東京都青梅市、1979年、272-273ページ。
- ^ 『第2次交差点すいすいプラン』東京都建設局、2005年2月、11ページ。
- ^ 「圏央道青梅IC〜鶴ヶ島JCT開通 〜写真でつづる青梅ICでの行事〜」『広報おうめ』第812号、1996年4月15日、1ページ。
- ^ 「「ようこそおうめ」青梅インター入り口に花文字」『広報おうめ』第962号、青梅市役所秘書広報課、2002年7月15日、5ページ。
- ^ 「パンジー180株盗難 青梅の花壇」『産経新聞』平成26年(2014年)4月16日付東京本社朝刊23面(東京)。