コンテンツにスキップ

「デーブ・ホリンズ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
28行目: 28行目:
* [[ミネソタ・ツインズ]] (1996)
* [[ミネソタ・ツインズ]] (1996)
* [[シアトル・マリナーズ]] (1996)
* [[シアトル・マリナーズ]] (1996)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|アナハイム・エンゼルス]] (1997 - 1998)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]] (1997 - 1998)
* [[トロント・ブルージェイズ]] (1999)
* [[トロント・ブルージェイズ]] (1999)
* [[クリーブランド・インディアンス]] (2001)
* [[クリーブランド・インディアンス]] (2001)
44行目: 44行目:
[[サウスカロライナ大学]]在学時の{{by|1986年}}には第15回[[日米大学野球選手権]]のアメリカ合衆国代表に選ばれ、第3戦では[[猪俣隆]]から本塁打を放っている<ref>[https://www.jubf.net/us/index15.html 第15回 日米大学野球選手権](2018年10月3日閲覧)</ref>。{{by|1987年}}の[[1987年のMLBドラフト|MLBドラフト]]6巡目(全体146位)で[[サンディエゴ・パドレス]]から指名され、プロ入り。{{by|1989年}}12月の[[ドラフト会議 (MLB)#ルール・ファイブ・ドラフト|ルール・ファイブ・ドラフト]]で[[フィラデルフィア・フィリーズ]]へ移籍し、{{by|1990年}}にメジャーデビュー。当時のレギュラーに{{仮リンク|チャーリー・ヘイズ|en|Charlie Hayes}}がいたため、2年間は控えだったが、ヘイズが去った{{by|1992年}}に三塁手のレギュラーを奪取。チームは最下位に苦しんだが、主に四番打者を務め、156試合出場。打率.270、27本塁打、93打点、104得点の好成績で、オフには同僚の[[ダレン・ドールトン]]と共に[[日米野球]]で来日。{{by|1993年}}は初の[[1993年のMLBオールスターゲーム|オールスター]]に選出。打率.273・18本塁打・93打点・104得点でフィリーズのリーグ優勝に貢献。[[アトランタ・ブレーブス]]との[[1993年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグ優勝決定戦]]では2本塁打を放つ活躍を見せた。
[[サウスカロライナ大学]]在学時の{{by|1986年}}には第15回[[日米大学野球選手権]]のアメリカ合衆国代表に選ばれ、第3戦では[[猪俣隆]]から本塁打を放っている<ref>[https://www.jubf.net/us/index15.html 第15回 日米大学野球選手権](2018年10月3日閲覧)</ref>。{{by|1987年}}の[[1987年のMLBドラフト|MLBドラフト]]6巡目(全体146位)で[[サンディエゴ・パドレス]]から指名され、プロ入り。{{by|1989年}}12月の[[ドラフト会議 (MLB)#ルール・ファイブ・ドラフト|ルール・ファイブ・ドラフト]]で[[フィラデルフィア・フィリーズ]]へ移籍し、{{by|1990年}}にメジャーデビュー。当時のレギュラーに{{仮リンク|チャーリー・ヘイズ|en|Charlie Hayes}}がいたため、2年間は控えだったが、ヘイズが去った{{by|1992年}}に三塁手のレギュラーを奪取。チームは最下位に苦しんだが、主に四番打者を務め、156試合出場。打率.270、27本塁打、93打点、104得点の好成績で、オフには同僚の[[ダレン・ドールトン]]と共に[[日米野球]]で来日。{{by|1993年}}は初の[[1993年のMLBオールスターゲーム|オールスター]]に選出。打率.273・18本塁打・93打点・104得点でフィリーズのリーグ優勝に貢献。[[アトランタ・ブレーブス]]との[[1993年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグ優勝決定戦]]では2本塁打を放つ活躍を見せた。


しかし、{{by|1994年}}以降は故障の影響で不振、所属球団も転々とした。{{by|1997年}}に移籍した[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|アナハイム・エンゼルス]]では[[長谷川滋利]]とチームメイトとなり、自身も打棒が復活し、打率.288、16本塁打、85打点・101得点を記録。[[糖尿病]]を抱えながらもムードメーカーとしてチームを盛り上げた。
しかし、{{by|1994年}}以降は故障の影響で不振、所属球団も転々とした。{{by|1997年}}に移籍した[[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]]では[[長谷川滋利]]とチームメイトとなり、自身も打棒が復活し、打率.288、16本塁打、85打点・101得点を記録。[[糖尿病]]を抱えながらもムードメーカーとしてチームを盛り上げた。


しかし、元々拙守だったことや、衰えが見られたのか、球団が若手の[[トロイ・グロース]]を起用するため、{{by|1999年}}の開幕前にかつてフィリーズ時代に[[1993年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]で対戦した[[トロント・ブルージェイズ]]へ放出された。{{by|2000年}}はメジャーに上がることもなくシーズンを終えた。{{by|2001年}}に[[クリーブランド・インディアンス]]でメジャー復帰。{{by|2002年}}には古巣のフィリーズにも復帰したが、この年限りで引退した。
しかし、元々拙守だったことや、衰えが見られたのか、球団が若手の[[トロイ・グロース]]を起用するため、{{by|1999年}}の開幕前にかつてフィリーズ時代に[[1993年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]で対戦した[[トロント・ブルージェイズ]]へ放出された。{{by|2000年}}はメジャーに上がることもなくシーズンを終えた。{{by|2001年}}に[[クリーブランド・インディアンス]]でメジャー復帰。{{by|2002年}}には古巣のフィリーズにも復帰したが、この年限りで引退した。
88行目: 88行目:
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1997}}
|style="text-align: center;"|{{by2|1997}}
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|ANA]]
|rowspan="2" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|[[ロサンゼルス・エンゼルス|ANA]]
|149||648||572||101||165||29||2||16||246||85||16||6||1||5||62||2||8||124||12||.288||.363||.430||.793
|149||648||572||101||165||29||2||16||246||85||16||6||1||5||62||2||8||124||12||.288||.363||.430||.793
|-
|-

2021年9月11日 (土) 23:58時点における版

デーブ・ホリンズ
Dave Hollins
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州バッファロー
生年月日 (1966-05-25) 1966年5月25日(58歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 三塁手
プロ入り 1987年 MLBドラフト6巡目
初出場 1990年4月12日
最終出場 2002年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

デーブ・マイケル・ホリンズDavid Michael Hollins, 1966年5月25日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファロー出身のプロ野球選手三塁手)。右投両打。

経歴

サウスカロライナ大学在学時の1986年には第15回日米大学野球選手権のアメリカ合衆国代表に選ばれ、第3戦では猪俣隆から本塁打を放っている[1]1987年MLBドラフト6巡目(全体146位)でサンディエゴ・パドレスから指名され、プロ入り。1989年12月のルール・ファイブ・ドラフトフィラデルフィア・フィリーズへ移籍し、1990年にメジャーデビュー。当時のレギュラーにチャーリー・ヘイズがいたため、2年間は控えだったが、ヘイズが去った1992年に三塁手のレギュラーを奪取。チームは最下位に苦しんだが、主に四番打者を務め、156試合出場。打率.270、27本塁打、93打点、104得点の好成績で、オフには同僚のダレン・ドールトンと共に日米野球で来日。1993年は初のオールスターに選出。打率.273・18本塁打・93打点・104得点でフィリーズのリーグ優勝に貢献。アトランタ・ブレーブスとのリーグ優勝決定戦では2本塁打を放つ活躍を見せた。

しかし、1994年以降は故障の影響で不振、所属球団も転々とした。1997年に移籍したアナハイム・エンゼルスでは長谷川滋利とチームメイトとなり、自身も打棒が復活し、打率.288、16本塁打、85打点・101得点を記録。糖尿病を抱えながらもムードメーカーとしてチームを盛り上げた。

しかし、元々拙守だったことや、衰えが見られたのか、球団が若手のトロイ・グロースを起用するため、1999年の開幕前にかつてフィリーズ時代にワールドシリーズで対戦したトロント・ブルージェイズへ放出された。2000年はメジャーに上がることもなくシーズンを終えた。2001年クリーブランド・インディアンスでメジャー復帰。2002年には古巣のフィリーズにも復帰したが、この年限りで引退した。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1990 PHI 72 127 114 14 21 0 0 5 36 15 0 0 0 2 10 3 1 28 1 .184 .252 .316 .568
1991 56 172 151 18 45 10 2 6 77 21 1 1 0 1 17 1 3 26 2 .298 .378 .510 .888
1992 156 685 586 104 158 28 4 27 275 93 9 6 0 4 76 4 19 110 8 .270 .369 .469 .839
1993 143 640 543 104 148 30 4 18 240 93 2 3 0 7 85 5 5 109 15 .273 .372 .442 .814
1994 44 192 162 28 36 7 1 4 57 26 1 0 0 3 23 0 4 32 6 .222 .328 .352 .680
1995 65 267 205 46 47 12 2 7 84 25 1 1 0 0 4 53 4 5 4 .229 .393 .410 .803
BOS 5 17 13 2 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 4 0 7 0 .154 .353 .154 .507
'95計 70 284 218 48 49 12 2 7 86 26 1 1 0 4 57 4 5 45 4 .225 .391 .394 .785
1996 MIN 121 503 422 71 102 26 0 13 167 53 6 4 0 0 71 5 10 102 9 .242 .364 .396 .760
SEA 28 113 94 17 33 3 0 3 45 25 0 2 1 2 13 2 3 15 2 .351 .438 .479 .916
'96計 149 616 516 88 135 29 0 16 212 78 6 6 1 2 84 7 13 117 11 .262 .377 .411 .788
1997 ANA 149 648 572 101 165 29 2 16 246 85 16 6 1 5 62 2 8 124 12 .288 .363 .430 .793
1998 101 418 363 60 88 16 2 11 141 39 11 3 2 2 44 2 7 69 5 .242 .334 .388 .723
1999 TOR 27 104 99 12 22 5 0 2 33 6 0 5 0 0 5 0 0 22 2 .222 .260 .333 .593
2001 CLE 2 7 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 1 0 0 2 0 .200 .333 .200 .533
2002 PHI 14 18 17 1 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 1 3 0 .118 .167 .118 .284
MLB:12年 983 3911 3346 578 870 166 17 112 1406 482 47 27 5 30 464 28 66 687 66 .260 .358 .420 .779
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 15(1990年 - 1995年途中、1996年 - 同年途中、2002年)
  • 27(1995年途中 - 同年終了)
  • 10(1996年途中 - 1998年)
  • 20(2001年)

代表歴

脚注

  1. ^ 第15回 日米大学野球選手権(2018年10月3日閲覧)

関連項目

外部リンク