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「アレクサンダル (ブルガリア公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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アレクサンダル1世も、またロシア政府も、自由主義的な憲法に不満を抱き、即位当初からアレクサンダル1世と議会とは憲法をめぐって対立し、頻繁に政権交代が繰り返された。
アレクサンダル1世も、またロシア政府も、自由主義的な憲法に不満を抱き、即位当初からアレクサンダル1世と議会とは憲法をめぐって対立し、頻繁に政権交代が繰り返された。

2021年9月17日 (金) 22:24時点における版

アレクサンダル1世
Александър I
ブルガリア
アレクサンダル1世
在位 1879年4月29日1886年9月7日

全名 Александър Йозеф
アレクサンダル・ヨゼフ
Alexander Joseph
アレクサンダー・ヨーゼフ
出生 (1857-04-05) 1857年4月5日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ロンバルド=ヴェネトヴェローナ
死去 (1893-10-23) 1893年10月23日(36歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国グラーツ
埋葬 ブルガリアの旗 ブルガリア公国ソフィアバッテンベルク霊廟
配偶者 ヨハンナ・ロイジンガー
子女 アセン
ツヴェタナ
家名 バッテンベルク家
父親 アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
母親 ユリア・ハウケ
宗教 キリスト教ルーテル教会
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アレクサンダル1世ブルガリア語: Александър I1857年4月5日 - 1893年11月17日)は、ブルガリア(在位:1879年4月29日 - 1886年9月7日)。ドイツ名はアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルク(ドイツ語: Alexander Joseph von Battenberg)。

生涯

バッテンベルク家の祖アレクサンダーヘッセン大公ルートヴィヒ2世の四男)の次男として生まれる。父方の叔母マリーロシア皇帝アレクサンドル2世の皇后であり、父もロシア陸軍の軍人だったため、サンクトペテルブルクで育った。長じて自らも父と同じくロシア軍人となり、1877年から1878年露土戦争ではロシア軍将校として参戦している。

露土戦争の結果、ブルガリアにオスマン帝国を宗主国とするブルガリア公国が成立すると、ブルガリア議会1879年に憲法を制定し、欧州列強の承認のもとにアレクサンダーをブルガリア公(クニャズ)に選んだ。アレクサンダルは1879年7月初めにブルガリアに到着し、ブルガリア公に即位した。

アレクサンダル1世も、またロシア政府も、自由主義的な憲法に不満を抱き、即位当初からアレクサンダル1世と議会とは憲法をめぐって対立し、頻繁に政権交代が繰り返された。

1886年、親露派のクーデターによって一時亡命した。クーデターは鎮圧されたが、ロシア皇帝アレクサンドル3世が帰国を認めなかったため、同年正式に退位した。1893年に36歳で死去し、ソフィアに埋葬された。

ブルガリア公は一時空位となり、スタンボロフ首相らが摂政として統治した後、ザクセン=コーブルク=ゴータ家フェルディナンド1世が新たなブルガリア公(後に国王)に選ばれた。

家族

退位後の1889年オペラ歌手のヨハンナ・ロイジンガーと結婚し、1男1女を儲けた。

関連項目