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シュメンでは[[紀元前]]より要塞が築かれていた。[[トラキア人]]や[[古代ローマ|ローマ]]によっても様々な要塞が築かれている。[[811年]]に[[ニケフォロス1世]]によってシュメンは焼き払われ、[[1087年]]には[[アレクシオス1世コムネノス]]の軍によって包囲されている。[[シメオン1世]]治世下の[[866年]]から[[927年]]にかけての期間がブルガリア文化にとっての黄金期で、シュメンは文化や宗教の中心地であった。[[15世紀]]まで市街はシュメン要塞の周りに広がっており洗練された防衛設備や宗教施設、建物が存在した。[[1380年代]]後半[[オスマン帝国]]皇帝である[[ムラト1世]]の軍勢が、[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]への侵攻を徐々に進めている時代であった。[[1444年]]、[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の[[十字軍]]が[[ムラト2世]]のオスマン軍に敗れ市街は破壊され現在の地に移っている。
シュメンでは[[紀元前]]より要塞が築かれていた。[[トラキア人]]や[[古代ローマ|ローマ]]によっても様々な要塞が築かれている。[[811年]]に[[ニケフォロス1世]]によってシュメンは焼き払われ、[[1087年]]には[[アレクシオス1世コムネノス]]の軍によって包囲されている。[[シメオン1世]]治世下の[[866年]]から[[927年]]にかけての期間がブルガリア文化にとっての黄金期で、シュメンは文化や宗教の中心地であった。[[15世紀]]まで市街はシュメン要塞の周りに広がっており洗練された防衛設備や宗教施設、建物が存在した。[[1380年代]]後半[[オスマン帝国]]皇帝である[[ムラト1世]]の軍勢が、[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]への侵攻を徐々に進めている時代であった。[[1444年]]、[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]の[[十字軍]]が[[ムラト2世]]のオスマン軍に敗れ市街は破壊され現在の地に移っている。


[[18世紀]]、防壁は拡張された。[[1774年]]、[[1810年]]、[[1828年]]と3度のロシアからの攻撃を受けるがいずれも失敗に終わっている。その結果、オスマンは勝利を意味するガジ(Gazi)の名を得ている。[[1854年]]、オスマン帝国将軍である[[オマール・パシャ]]は[[クリミア戦争]]のためシュメンに駐屯地を置いた。[[19世紀]]、シュメンはブルガリア祖国回復の中心地であった。[[1878年]]、[[ブルガリア公国]]が成立する。
[[18世紀]]、防壁は拡張された。[[1774年]]、[[1810年]]、[[1828年]]と3度のロシアからの攻撃を受けるがいずれも失敗に終わっている。その結果、オスマンは勝利を意味するガジ(Gazi)の名を得ている。[[1854年]]、オスマン帝国将軍である[[オマール・パシャ]]は[[クリミア戦争]]のためシュメンに駐屯地を置いた。[[19世紀]]、シュメンはブルガリア祖国回復の中心地であった。[[1878年]]、[[ブルガリア公国]]が成立する。


== ゆかりの人物 ==
== ゆかりの人物 ==

2021年9月17日 (金) 22:26時点における版

座標: 北緯43度17分 東経26度56分 / 北緯43.283度 東経26.933度 / 43.283; 26.933

シュメン
Шумен
シュメンの市章
シュメンの市章
シュメンの位置(ブルガリア内)
シュメン
シュメン
ブルガリア内のシュメンの位置
 ブルガリア
州(オブラスト)シュメン州
基礎自治体シュメン
自治体全域の人口103,016 人
(2006年現在)
郵便番号9700
ナンバープレートH
標高184 m
標準時EETUTC+2
夏時間EESTUTC+3
市長Krasimir Kostov BSP

シュメンブルガリア語Шумен、ラテン文字表記:Shumen)はブルガリア北東部の都市。シュメン州州都でオスマン帝国時代はシュムヌ、1950年から1965年にかけて政治家であるヴァシル・コラロフ(Васил Петров Коларов,Vasil Petrov Kolarov)に因んでコラロヴグラト(Коларовград, Kolarovgrad)と呼ばれていた。人口は2006年現在103,016人である。

地勢

シュメンはヴァルナから西へ80km離れた、丘陵地帯に開けたバルカン半島の東側に位置する都市である。シュメンからは北側へドナウ河畔の都市であるルセシリストラドブロジャ地域へ、東側のヴァルナ、バルチクなどへそれぞれ放射状に道路が延びている。

歴史

シュメンでは紀元前より要塞が築かれていた。トラキア人ローマによっても様々な要塞が築かれている。811年ニケフォロス1世によってシュメンは焼き払われ、1087年にはアレクシオス1世コムネノスの軍によって包囲されている。シメオン1世治世下の866年から927年にかけての期間がブルガリア文化にとっての黄金期で、シュメンは文化や宗教の中心地であった。15世紀まで市街はシュメン要塞の周りに広がっており洗練された防衛設備や宗教施設、建物が存在した。1380年代後半オスマン帝国皇帝であるムラト1世の軍勢が、ブルガリアへの侵攻を徐々に進めている時代であった。1444年ヴワディスワフ3世十字軍ムラト2世のオスマン軍に敗れ市街は破壊され現在の地に移っている。

18世紀、防壁は拡張された。1774年1810年1828年と3度のロシアからの攻撃を受けるがいずれも失敗に終わっている。その結果、オスマンは勝利を意味するガジ(Gazi)の名を得ている。1854年、オスマン帝国将軍であるオマール・パシャクリミア戦争のためシュメンに駐屯地を置いた。19世紀、シュメンはブルガリア祖国回復の中心地であった。1878年ブルガリア公国が成立する。

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