「マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
34行目: | 34行目: | ||
== 子女 == |
== 子女 == |
||
夫ロベルト1世との間に生まれた子女は、以下の12人である。このうち3人が夭折、6人が知的障害者、3人が健常者だった。 |
夫ロベルト1世との間に生まれた子女は、以下の12人である。このうち3人が夭折、6人が知的障害者、3人が健常者だった。 |
||
* [[マリヤ・ルイザ・ブルボン=パルムスカ|マリーア・ルイーザ]](1870年 - 1899年) - 1893年、ブルガリア王[[フェルディナン |
* [[マリヤ・ルイザ・ブルボン=パルムスカ|マリーア・ルイーザ]](1870年 - 1899年) - 1893年、ブルガリア王[[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]と結婚 |
||
* フェルディナンド(1871年) |
* フェルディナンド(1871年) |
||
* ルイーザ・マリア(1872年 - 1943年) - 知的障害者 |
* ルイーザ・マリア(1872年 - 1943年) - 知的障害者 |
2021年9月17日 (金) 22:36時点における最新版
マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ Maria Pia di Borbone-Due Sicilie | |
---|---|
出生 |
1849年8月2日 両シチリア王国、ガエータ |
死去 |
1882年9月29日(33歳没) フランス共和国、ビアリッツ |
埋葬 | イタリア王国、ヴィアレッジョ近郊、ヴィラ・ボルボーネ |
配偶者 | パルマ公ロベルト1世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ブルボン=シチリア家 |
父親 | 両シチリア王フェルディナンド2世 |
母親 | マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン |
マリーア・ピア・デッラ・グラツィア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Maria Pia della Grazia di Borbone-Due Sicilie, 1849年8月2日 - 1882年9月29日)は、両シチリア王国の王族。両シチリア王フェルディナンド2世とその2番目の妃のオーストリア大公女マリア・テレジアの間の三女。
生涯[編集]
マリーア・ピアは1861年、両シチリア王国の滅亡により家族と一緒に亡命を余儀なくされた。1869年4月5日、マリーア・ピアはローマにおいて、同じ亡命者の身の上であるパルマ公ロベルト1世と結婚した。夫妻の間には12人の子女が生まれたが、うち少なくとも6人は重い知的障害を患っていた。マリーア・ピアは1882年に出産に際して亡くなり、ヴィアレッジョ近郊のヴィラ・ボルボーネに埋葬された。夫のロベルト1世は1884年、ポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・アントニアと再婚した。
子女[編集]
夫ロベルト1世との間に生まれた子女は、以下の12人である。このうち3人が夭折、6人が知的障害者、3人が健常者だった。
- マリーア・ルイーザ(1870年 - 1899年) - 1893年、ブルガリア王フェルディナントと結婚
- フェルディナンド(1871年)
- ルイーザ・マリア(1872年 - 1943年) - 知的障害者
- エンリコ(1873年 - 1939年) - パルマ公家家長、知的障害者
- マリア・インマコラタ(1874年 - 1914年) - 知的障害者
- ジュゼッペ(1875年 - 1950年) - パルマ公家家長、知的障害者
- マリーア・テレーザ(1876年 - 1959年) - 知的障害者
- マリーア・ピア(1877年 - 1915年) - 知的障害者
- ベアトリーチェ(1879年 - 1946年) - ピエトロ・ルチェッリ=パッリ(ベリー公爵夫人と再婚相手の孫)と結婚
- エリアス(1880年 - 1959年) - パルマ公家家長
- マリーア・アナスタシア(1881年)
- アウグスト(1882年)