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'''彭 済群'''(ほう さいぐん/ほう せいぐん、{{zh2 | t=彭濟群| s=彭济群| hp=Péng Jìqún| w=Peng Chi-Chün| first=t}}、[[1895年]]([[清]][[光緒]]21年) - ?)は、[[中華民国]]の政治家・水利技術者。[[字]]は'''志雲'''。[[遼寧省|盛京将軍管轄区]][[瀋陽市|奉天府]][[鉄嶺県]]の人。
'''彭 済群'''(ほう さいぐん/ほう せいぐん、{{Lang-zh | t=彭濟群| s=彭济群| hp=Péng Jìqún| w=Peng Chi-Chün| first=t}}、[[1895年]]([[清]][[光緒]]21年) - ?)は、[[中華民国]]の政治家・水利技術者。[[字]]は'''志雲'''。[[遼寧省|盛京将軍管轄区]][[瀋陽市|奉天府]][[鉄嶺県]]の人。


== 事績 ==
== 事績 ==

2021年9月28日 (火) 09:27時点における最新版

彭 済群(ほう さいぐん/ほう せいぐん、繁体字: 彭濟群; 簡体字: 彭济群; 繁体字: 彭濟群; 拼音: Péng Jìqún; ウェード式: Peng Chi-Chün1895年光緒21年) - ?)は、中華民国の政治家・水利技術者。志雲盛京将軍管轄区奉天府鉄嶺県の人。

事績

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若年時代にフランスに留学し、パリ建築学校で技師の資格を取得した。帰国後は中央観象台気象科科長となり、私立北京中法大学で数学の教授も務めている。1928年(民国17年)12月末に、国民政府易幟した遼寧省政府で建設庁庁長に任命された。翌1929年民国18年)11月、国立北平研究院天算部部長となり、さらに中央研究院水利研究会会員も兼ねている。[1][2]

1931年(民国20年)5月、国民会議に遼寧省代表として出席した。1936年(民国25年)2月、国民政府華北水利委員会委員長に任命され、1941年(民国30年)9月、行政院全国水利委員会委員となっている。1945年(民国34年)9月、嫩江省政府主席に抜擢されたが、翌年4月には東北民主連軍の攻勢に遭って逃亡を余儀なくされ、以後、名目のみの省政府主席となった。1947年(民国36年)9月、国民政府主席東北行轅秘書長となり、翌月には東北行轅政務委員会委員も兼ねている。1949年(民国38年)9月、東北剿匪総司令部政務委員会常務委員に任ぜられた。以後、彭済群の行方は不詳である。[1][2]

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  1. ^ a b 徐主編(2007)、1928頁。
  2. ^ a b 劉国銘主編(2005)、2222頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
嫩江省政府主席
1945年9月 - 1948年11月?
次代
(廃止)