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'''何 民魂'''(か みんこん、{{Lang-zh | t=何民魂| s=何民魂| hp=Hé Mínhún| w=Ho Min-hun| first=t}}、? - [[1953年]])は、[[中華民国]]の政治家・軍人。[[字]]は'''啼紅'''。[[江蘇省]][[上海市|松江府上海県]]の人。[[新広西派]](新桂系)の人士と目される。 |
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2021年9月28日 (火) 09:27時点における版
何 民魂(か みんこん、中国語: 何民魂; 拼音: Hé Mínhún; ウェード式: Ho Min-hun、? - 1953年)は、中華民国の政治家・軍人。字は啼紅。江蘇省松江府上海県の人。新広西派(新桂系)の人士と目される。
事績
1927年(民国16年)6月、何民魂は江蘇省政府委員に任命される。同年8月、劉紀文の後任として何は南京市市長代理に起用され、翌年7月まで在任した。[1]1928年(民国17年)、国民政府建設委員会委員や私立南京文化大学校長に任命される。1930年代には、反蔣介石運動に従事し、新広西派や馮玉祥、竜雲らへの折衝を行った。日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、第5戦区副司令長官を務めた李品仙の下で参謀長を務めた。[2][3]
しかし1942年(民国31年)、何民魂は蔣介石や重慶国民政府の腐敗ぶりに失望して重慶を離れる。さらに貴州や広西を経て汪兆銘政権支配下の広州まで移った。広州では広東省長の陳耀祖らの庇護を受け、後に汪兆銘(汪精衛)にも対面したが、目立った公職には就任しなかった。日本が降伏する直前には、何は日本や南京(汪兆銘政権)、重慶(蔣介石)、新広西派、李済深などとの連絡役を務めていたとされる。戦後は蘇州や北京、広州などを転々としたが、やはり特に公職には就かなかった。1953年、広州市で病没。[2]
注
参考文献
- 張蘅夫「何民魂其人其事」李斉念主編『広州文史資料存稿選編』第5輯、中国文史出版社、2008年
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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