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'''林 棨'''(りん けい/りん けん、{{Lang-zh | t=林棨| s=林棨| hp=Lín Qǐ| w=Lin Ch'i| first=t}})は、[[中華民国]]・[[満州国]]の司法官・官僚。満州国の初代最高法院院長を務めた。[[字]]は'''少旭'''。 |
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2021年9月28日 (火) 09:30時点における版
林棨 | |
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プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年)[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清福建省福州府(現在の閩侯県) |
職業: | 司法官・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 林棨 |
簡体字: | 林棨 |
拼音: | Lín Qǐ |
ラテン字: | Lin Ch'i |
和名表記: | りん けい/りん けん |
発音転記: | リン チー |
林 棨(りん けい/りん けん、中国語: 林棨; 拼音: Lín Qǐ; ウェード式: Lin Ch'i)は、中華民国・満州国の司法官・官僚。満州国の初代最高法院院長を務めた。字は少旭。
事績
日本に留学して早稲田大学政治経済学科を卒業している。帰国後は、進士館・仕学館教習、学部参事、公立京師法政専門学校教務長、憲政編査館統計局科員などを歴任した。また、公立京師大学堂法政科監督を1909年(宣統元年)正月から1912年(民国元年)4月まで務めている[2][3]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)5月、北京政府教育部専門教育司司長に任ぜられる。翌1913年(民国2年)9月、大理院推事と京師高等審判庁庁長になる。1918年(民国7年)1月、江蘇省高等審判庁庁長兼地方捕獲審検庁庁長署理を務めた。1921年(民国10年)5月、湖北省高等審判庁庁長に異動し、1923年(民国12年)2月まで在任している[2][3]。
満州国建国に際して1932年(大同元年)3月14日に、林棨は同国最高法院院長に任命された[4]。1939年(康徳6年)12月に退官し、井野英一が後任となった[5]。1941年(康徳8年)3月、満洲電気化学工業株式会社監事に就任しており、1942年(康徳9年)時点では在職していることが確認できる[6]。以後、その行方は不明である。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第4版』満蒙資料協会、1943年。
満州国
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