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'''張 仲直'''(ちょう ちゅうちょく、{{zh2 | t=張仲直| s=张仲直| hp=Zhāng Zhòngzhí| w=Chang Chung-chih| first=t}}、1901年 - 1951年5月)は、[[中華民国]]の政治家。[[汪兆銘政権]]の要人。
'''張 仲直'''(ちょう ちゅうちょく、{{Lang-zh | t=張仲直| s=张仲直| hp=Zhāng Zhòngzhí| w=Chang Chung-chih| first=t}}、1901年 - 1951年5月)は、[[中華民国]]の政治家。[[汪兆銘政権]]の要人。


== 事績 ==
== 事績 ==

2021年9月28日 (火) 09:31時点における版

張仲直
 
プロフィール
出生: 1901年[1]
死去: 1951年5月
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 湖北省武昌府武昌県(現在の鄂城区
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張仲直
簡体字 张仲直
拼音 Zhāng Zhòngzhí
ラテン字 Chang Chung-chih
和名表記: ちょう ちゅうちょく
発音転記: ジャン ジョンジー
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張 仲直(ちょう ちゅうちょく、繁体字: 張仲直; 簡体字: 张仲直; 拼音: Zhāng Zhòngzhí; ウェード式: Chang Chung-chih、1901年 - 1951年5月)は、中華民国の政治家。汪兆銘政権の要人。

事績

1919年に日本へ留学し、神戸高等商業学校の第17回生として入学した。1923年に卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進学している。帰国後の状況は不明だが、1937年民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立した頃に、同政府行政委員会委員長王克敏の秘書となった[2]

1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘政権に合流し華北政務委員会に改組された後も、張仲直は引き続き王克敏の腹心を務め[2]、5月には華北政務委員会秘書庁事務処処長代理に就任した[3]。また同年中には、張は王に随従して訪日し、母校の神戸商業大学を訪問している[4]1941年(民国30年)4月、北京華北電業理事に任命された[4]

1943年(民国32年)2月、張仲直は華北政務委員会政務庁庁長兼秘書庁秘書長に就任した(秘書長については翌月に祝書元が代行となる)[5]。同年11月、華北政務委員会委員兼財務庁庁長代理兼総務庁次長代理に就任した[6]1945年(民国34年)2月、財務庁庁長代理と総務庁次長代理を退き、華北政務委員会委員のみを務めている[7]。張は日本語が堪能であり、日本人との交流を頻繁に進めたとされる[8]

中華人民共和国成立後の1951年5月、北京市人民政府は反革命罪などで張仲直に死刑判決を言い渡し、直ちに執行した[9]。享年51。

  1. ^ 人民日報』1951年5月23日、第6版が「五十一歳」(数え年と考えられる)と記載していることによる。
  2. ^ a b 王・船寄(1999)、51頁。
  3. ^ 郭主編(1990)、1884頁。なお王・船寄(1999)、52頁は、1940年10月に事務処長に任命された、としている。
  4. ^ a b 王・船寄(1999)、51-52頁。
  5. ^ 郭主編(1990)、1883-1884頁。なお劉ほか編(1995)、1058頁では、政務庁庁長就任につき記載があるが、秘書庁庁長兼任については記載が無い。1月に満たない暫時兼任のため省略した可能性がある。
  6. ^ 郭主編(1990)、1885頁。なお劉ほか編(1995)、1058頁では、財務庁庁長につき「代理」とは記載していない。
  7. ^ 郭主編(1990)、1885頁。劉ほか編(1995)、1059頁。
  8. ^ 王・船寄(1999)、52頁。
  9. ^ 『人民日報』1951年5月23日、第6版。

参考文献

  • 王嵐・船寄俊雄「神戸高等商業学校の中国人留学生に関する研究」『神戸大学発達科学部研究紀要』第7巻第1号、1999年9月(オンライン版は神戸大学附属図書館ホームページ)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4