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「遼東還付条約」の版間の差分

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'''奉天半島還付条約'''(ほうてんはんとうかんぷじょうやく, {{lang-zh|交還奉天省南邊地方條約}}, {{zh2|s=辽南条约}})または'''遼東還付条約'''(りょうとうかんぷじょうやく)とは、[[1895年]][[4月17日]]の[[下関条約]]の結果、一旦は日本への割譲が決定した[[遼東半島]](奉天半島)を、同年[[4月23日]]の[[三国干渉]]の結果、清国に返還することとした大日本帝国と大清帝国の間の取り決めである。
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[[1895年]][[11月8日]]、[[日本]]と[[清]]の間で[[北京]]において締結された。
[[1895年]][[11月8日]]、[[日本]]と[[清]]の間で[[北京]]において締結された。

2021年9月28日 (火) 09:33時点における版

奉天半島還付ニ関スル条約
通称・略称 遼東半島還付条約
署名 1895年11月8日
署名場所 北京
締約国 大日本帝国の旗 大日本帝国
言語 日本語、中国語
主な内容 清国に対する遼東半島の返還
関連条約 下関条約
条文リンク 奉天半島還付条約
(アジア歴史資料センター)
ウィキソース原文
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奉天半島還付条約(ほうてんはんとうかんぷじょうやく, 中国語: 交還奉天省南邊地方條約, 簡体字: 辽南条约)または遼東還付条約(りょうとうかんぷじょうやく)とは、1895年4月17日下関条約の結果、一旦は日本への割譲が決定した遼東半島(奉天半島)を、同年4月23日三国干渉の結果、清国に返還することとした大日本帝国と大清帝国の間の取り決めである。

1895年11月8日日本の間で北京において締結された。

概要

日清戦争では、広島市ついで下関市(当時は赤間関市)で講和会議が開かれ、その結果、鴨緑江遼河に挟まれた地域の営口海城鳳凰城を結んだ線より南側の遼東半島を日本が領有することとなった[1]

しかし、フランスドイツ帝国およびロシア帝国により、日本が遼東半島を恒久的に領有することは東アジアの平和を乱すものとして、遼東還付を勧告する覚書を手渡した三国干渉の結果、日本はこの申し出を受け入れ、その地を清国に返還することとなったものである[1]

日本側代表は林董、清側代表は李鴻章であった。

内容

主な内容は、以下のとおりである。

  1. 日本清国遼東半島を返還する。
  2. 清国は1895年11月16日に、返還の代償金として日本側に銀三千万を支払う。
  3. 代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に、日本軍が遼東半島から撤退する。

その後

1898年3月、ロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島に鉄道を繋げ、軍港を建設した[2]

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 海野福寿『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』集英社、1992年11月。ISBN 4-08-195018-0 
  • 加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社講談社現代新書〉、2002年3月。ISBN 4-06-149599-2 

関連項目