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現役を退いた後もASモナコに残り、フィジカルトレーナーやリザーブチームの監督を務めた。さらに1999年1月、Aチームの監督に就任し、4位でシーズンを終えると、続く1999-2000シーズンにはチームを優勝に導いた。しかしながら翌シーズンは低迷し、モナコとの契約は延長されることなくユース時代から24年在籍したチームを去ることとなった。
現役を退いた後もASモナコに残り、フィジカルトレーナーやリザーブチームの監督を務めた。さらに1999年1月、Aチームの監督に就任し、4位でシーズンを終えると、続く1999-2000シーズンにはチームを優勝に導いた。しかしながら翌シーズンは低迷し、モナコとの契約は延長されることなくユース時代から24年在籍したチームを去ることとなった。


モナコ退団後はすぐさま[[LOSCリール・メトロポール]]の監督に就任。ここでの初シーズンを5位で終えると、2004-05シーズンは2位という成績を上げ、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の出場権を獲得する。すると翌シーズン、クラブ初となる同リーグの決勝トーナメント進出を果たした。トーナメント1回戦の[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]戦では健闘したものの敗退し、ベスト16に終わった。
モナコ退団後はすぐさま[[リールOSC|リール]]の監督に就任。ここでの初シーズンを5位で終えると、2004-05シーズンは2位という成績を上げ、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の出場権を獲得する。すると翌シーズン、クラブ初となる同リーグの決勝トーナメント進出を果たした。トーナメント1回戦の[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]戦では健闘したものの敗退し、ベスト16に終わった。


[[2008年]]からは[[オリンピック・リヨン]]の監督に就任している。しかし、チームを掌握できずにリーグ戦8連覇を逃し、ピュエル自身の評価も大暴落してしまった。2009-10シーズンは真価が問われる1年となったが、[[カリム・ベンゼマ]]や[[ジュニーニョ・ペルナンブカーノ]]といったチームを支え続けた主力選手の抜けた穴は大きく、序盤からチームは低迷したままリーグ戦の前半を終えた。しかし、後半戦になると徐々に持ち直し、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10]]でも[[レアル・マドリード]]、[[FCジロンダン・ボルドー]]といった強豪を倒し、初のベスト4進出を果たした。最終的にリーグ戦2位でシーズンを終えたため、なんとか首の皮が繋がり2010-11シーズンも引き続き指揮を執ることになった。[[ジミー・ブリアン]]、[[ヨアン・グルキュフ]]といった攻撃的な選手を加えたことで攻撃力はアップされたが、守備陣に関してはほとんど補強されなかったことで戦力的なバランスの悪さは最後まで解消せず、リーグ戦は3位にとどまった。在任3年間で7連覇がストップしたばかりか結局一つもタイトルは獲れず、[[2011年]][[6月20日]]に解任された。
[[2008年]]からは[[オリンピック・リヨン]]の監督に就任している。しかし、チームを掌握できずにリーグ戦8連覇を逃し、ピュエル自身の評価も大暴落してしまった。2009-10シーズンは真価が問われる1年となったが、[[カリム・ベンゼマ]]や[[ジュニーニョ・ペルナンブカーノ]]といったチームを支え続けた主力選手の抜けた穴は大きく、序盤からチームは低迷したままリーグ戦の前半を終えた。しかし、後半戦になると徐々に持ち直し、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10]]でも[[レアル・マドリード]]、[[FCジロンダン・ボルドー]]といった強豪を倒し、初のベスト4進出を果たした。最終的にリーグ戦2位でシーズンを終えたため、なんとか首の皮が繋がり2010-11シーズンも引き続き指揮を執ることになった。[[ジミー・ブリアン]]、[[ヨアン・グルキュフ]]といった攻撃的な選手を加えたことで攻撃力はアップされたが、守備陣に関してはほとんど補強されなかったことで戦力的なバランスの悪さは最後まで解消せず、リーグ戦は3位にとどまった。在任3年間で7連覇がストップしたばかりか結局一つもタイトルは獲れず、[[2011年]][[6月20日]]に解任された。
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== 指導者歴 ==
== 指導者歴 ==
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2021年11月4日 (木) 22:17時点における版

クロード・ピュエル
2006年のピュエル
名前
本名 Claude PUEL
カタカナ クロード・ピュエル
基本情報
国籍 フランスの旗 フランス
生年月日 (1961-09-02) 1961年9月2日(62歳)
出身地 カストル
身長 178cm
選手情報
ポジション MF
ユース
1970-1977 フランスの旗 Castres
1977-1979 モナコの旗 ASモナコ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1979-1996 モナコの旗 ASモナコ 488 (4)
代表歴
フランスの旗 フランス 78 (14)
監督歴
1999-2001 モナコの旗 ASモナコ
2002-2008 フランスの旗 リール
2008-2011 フランスの旗 オリンピック・リヨン
2012-2016 フランスの旗 ニース
2016-2017 イングランドの旗 サウサンプトン
2017-2019 イングランドの旗レスター・シティ
2019- フランスの旗サンテティエンヌ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クロード・ピュエルClaude Puel, 1961年9月2日 - )は、フランスカストル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。息子のグレゴワール・ピュエル英語版OGCニースに所属するサッカー選手。

経歴

現役時代

地元カストルのチームに9年間所属した後、1977年からASモナコのユースに移籍。1979年に同チームでプロデビューを果たすと、そのままチームを代えることなくプレーし、1996年に引退した。在籍は17年を数え、1982年および1988年にはリーグ優勝も経験している。

指導者転身後

現役を退いた後もASモナコに残り、フィジカルトレーナーやリザーブチームの監督を務めた。さらに1999年1月、Aチームの監督に就任し、4位でシーズンを終えると、続く1999-2000シーズンにはチームを優勝に導いた。しかしながら翌シーズンは低迷し、モナコとの契約は延長されることなくユース時代から24年在籍したチームを去ることとなった。

モナコ退団後はすぐさまリールの監督に就任。ここでの初シーズンを5位で終えると、2004-05シーズンは2位という成績を上げ、UEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得する。すると翌シーズン、クラブ初となる同リーグの決勝トーナメント進出を果たした。トーナメント1回戦のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では健闘したものの敗退し、ベスト16に終わった。

2008年からはオリンピック・リヨンの監督に就任している。しかし、チームを掌握できずにリーグ戦8連覇を逃し、ピュエル自身の評価も大暴落してしまった。2009-10シーズンは真価が問われる1年となったが、カリム・ベンゼマジュニーニョ・ペルナンブカーノといったチームを支え続けた主力選手の抜けた穴は大きく、序盤からチームは低迷したままリーグ戦の前半を終えた。しかし、後半戦になると徐々に持ち直し、UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10でもレアル・マドリードFCジロンダン・ボルドーといった強豪を倒し、初のベスト4進出を果たした。最終的にリーグ戦2位でシーズンを終えたため、なんとか首の皮が繋がり2010-11シーズンも引き続き指揮を執ることになった。ジミー・ブリアンヨアン・グルキュフといった攻撃的な選手を加えたことで攻撃力はアップされたが、守備陣に関してはほとんど補強されなかったことで戦力的なバランスの悪さは最後まで解消せず、リーグ戦は3位にとどまった。在任3年間で7連覇がストップしたばかりか結局一つもタイトルは獲れず、2011年6月20日に解任された。

2012-13シーズンからOGCニースの監督に就任。

2016年6月30日、サウサンプトンFCの監督に就任した。 クラブとして38年ぶりにフットボールリーグカップ決勝に進出するなどしたが、リーグ戦は8位に終わった。シーズン終了後の6月14日、解任された。

2017年10月25日、クレイグ・シェイクスピアの後任としてレスター・シティFCの監督に就任した。が、2019年2月24日付で解任された[1]

2019年10月、ASサンテティエンヌの監督に2022年までの契約で就任した[2][3]

選手歴

指導者歴

脚注

外部リンク