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「アデイマントス (アテナイの将軍)」の版間の差分

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*澤田典子、『アテネ民主政 命をかけた八人の政治家』、[[講談社]]、2010年
*澤田典子、『アテネ民主政 命をかけた八人の政治家』、[[講談社]]、2010年
*[[デモステネス]]著、木曽明子訳、『デモステネス弁論集2』、京都大学学術出版会、2010年
*[[デモステネス]]著、木曽明子訳、『デモステネス弁論集2』、京都大学学術出版会、2010年
*[[パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年
*[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年


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2021年11月15日 (月) 10:58時点における版

アデイマントス古代ギリシア語: Αδείμαντος, ラテン文字転記:: Adeimantos、生没年不明)は、ペロポネソス戦争末期のアテナイ将軍である。

アデイマントスはレウコロピデスの子である。アデイマントスは紀元前407年にアテナイに離反したアンドロスへの遠征軍の指揮官(ストラテゴス)の一人になり、アンドロスを破った[1]。翌紀元前406年アルギヌサイの海戦の後、アデイマントスは再び将軍の一人に任じられた[2]。しかし、アデイマントスらの率いるアテナイ艦隊は紀元前405年アイゴスポタモイの海戦リュサンドロス率いるスパルタ艦隊の奇襲を受け、決定的な敗北を喫した。この時アデイマントスは捕虜になったが、他の捕虜が皆殺しにされた中、かつてアテナイで捕虜の右腕を切り落とす提議がなされた時にただ一人反対したため、捕虜のうち彼一人だけが助命された[3]。しかし、この措置はアテナイ人にアデイマントスに対する疑いを抱かせ、アイゴスポタモイの敗北はアデイマントスとテュデウスがリュサンドロスから賄賂を受け取ったからであるとの嫌疑を受け、同じくアイゴスポタモイの海戦に参加した将軍であったが、敗色が濃いと見るや逃亡したコノンによって売国の廉で告発された(しかし、裁判の結果は不明である)[4][5]。このコノンによる告発は敗戦の責任をアデイマントスに押し付けるためのものであったと考えられている[6]。その後アデイマントスがどうなったのかは不明である。

  1. ^ クセノポン, I. 4. 21-22
  2. ^ クセノポン, I. 7. 1
  3. ^ クセノポン, II. 1. 30-32
  4. ^ パウサニアス, X. 9. 11
  5. ^ デモステネス, 「使節職務不履行について」, 191
  6. ^ 澤田, p.185

参考文献