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「マルコス・ムスロス」の版間の差分

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== アルド印刷所との関係 ==
== アルド印刷所との関係 ==
1493年から、ムスロスは著名な出版人アルドゥス・マヌティウスと関係を持ち、マヌティウスをはじめとする学識経験者がギリシャ学振興のために設立した「ネアカデミア (Aldine Academy of Hellenists)」に所属していた。[[アルド印刷所|アルド版]]の古典の多くはムスロス監修の下で出版されており、[[アリストパネス|アリストファネス]](1498年)、[[アテナイオス]](1514年)、[[アレクサンドリアのヘシュキオス]](1514年)、[[パウサニアス]](1516年)の各注釈書の初版を手がけたとされている。また、ムスルスの筆跡はアルドゥスのギリシア語活字のモデルになったと言われている。ムスルスは自作の中で、ザカリアス・カリアゲスが出版した『Etymologicum Magnum』のための[[献辞]]を書き、このクレタ人の天才を讃えている<ref>Z. Kallierges (ed. and printed), ''Etymologicum Magnum Graecum'' (Venice 1499)</ref>。
1493年から、ムスロスは著名な出版人アルドゥス・マヌティウスと関係を持ち、マヌティウスをはじめとする学識経験者がギリシャ学振興のために設立した「ネアカデミア (Aldine Academy of Hellenists)」に所属していた。[[アルド印刷所|アルド版]]の古典の多くはムスロス監修の下で出版されており、[[アリストパネス|アリストファネス]](1498年)、[[アテナイオス]](1514年)、[[アレクサンドリアのヘシュキオス]](1514年)、[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]](1516年)の各注釈書の初版を手がけたとされている。また、ムスルスの筆跡はアルドゥスのギリシア語活字のモデルになったと言われている。ムスルスは自作の中で、ザカリアス・カリアゲスが出版した『Etymologicum Magnum』のための[[献辞]]を書き、このクレタ人の天才を讃えている<ref>Z. Kallierges (ed. and printed), ''Etymologicum Magnum Graecum'' (Venice 1499)</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年11月15日 (月) 11:13時点における版

マルコス・ムスロス
Marcus Musurus
人物情報
生誕 1470年ごろ
ヴェネツィア領クレタ・カンディア (現代のクレタ島イラクリオン
死没 1517年
ローマ教皇領
学問
指導教員 John Lascaris
主な指導学生 Johannes Baptista Montanus
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マルコス・ムスロスギリシア語: Μάρκος Μουσοῦρος Markos Mousourosイタリア語: Marco Musuro1470年ごろ – 1517年)は、ヴェネツィア領クレタのカンディア(現代のクレタ島イラクリオン)で生まれたギリシャ学者哲学者である[1] [2]

生涯

裕福な商人の子であったムスロスは、若くしてヴェネツィアのジョン・ラスカリス英語版に師事し、1505年、パドヴァ大学ギリシア語の教授になった。彼の講義に出席したエラスムスが、彼のラテン語の知識について証言している。しかし、カンブレー同盟戦争中の1509年に大学は閉鎖され、ムスロスは同様の職を得るためヴェネツィアに戻った。

1512年にムスロスはヴェネツィアでギリシア語の教授になった。この間、当代の印刷業者、出版人であるアルドゥス・マヌティウスを通して、自身によるプラトンの版を出版した。『対話篇』がギリシア語で印刷されたのはこのときが初めてであった[3]

1516年、ムスロスは教皇レオ10世によってローマに召喚された。彼は教皇のGreek College of the Quirinalギリシア語版ギムナジウム)で講義を行うとともに、ギリシア語の印刷所を設立した。プラトンの初版にギリシャ語の詩を添えたことが評価され、レオ10世は彼をペロポネソス半島モネンバシアマルヴァジーア)の大司教に任命したが、彼はイタリア半島を離れる前にローマで死去した。

アルド印刷所との関係

1493年から、ムスロスは著名な出版人アルドゥス・マヌティウスと関係を持ち、マヌティウスをはじめとする学識経験者がギリシャ学振興のために設立した「ネアカデミア (Aldine Academy of Hellenists)」に所属していた。アルド版の古典の多くはムスロス監修の下で出版されており、アリストファネス(1498年)、アテナイオス(1514年)、アレクサンドリアのヘシュキオス(1514年)、パウサニアス(1516年)の各注釈書の初版を手がけたとされている。また、ムスルスの筆跡はアルドゥスのギリシア語活字のモデルになったと言われている。ムスルスは自作の中で、ザカリアス・カリアゲスが出版した『Etymologicum Magnum』のための献辞を書き、このクレタ人の天才を讃えている[4]

脚注

  1. ^ Assonitis, Alessio (2016-12-31). “Luigi Ferreri, L'Italia degli Umanisti: Marco Musuro” (英語). Variants. The Journal of the European Society for Textual Scholarship (12–13): 246–249. ISSN 1573-3084. http://journals.openedition.org/variants/385. 
  2. ^ Wolkenhauer, Anja (2013-12-04). “Musurus, Marcus” (英語). Brill's New Pauly Supplements I - Volume 6 : History of Classical Scholarship - A Biographical Dictionary. https://referenceworks.brillonline.com/entries/brill-s-new-pauly-supplements-i-6/musurus-marcus-COM_00503#d33469131e21. 
  3. ^ Desiderius Erasmus; Roger Aubrey Baskerville Mynors; Douglas Ferguson Scott Thomson (1974). The Correspondence of Erasmus: Letters 446 to 593, 1516-1517. University of Toronto Press. p. 337. ISBN 978-0-8020-5366-4. https://archive.org/details/correspondenceof0003eras 
  4. ^ Z. Kallierges (ed. and printed), Etymologicum Magnum Graecum (Venice 1499)

参考文献

関連項目