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各種史書は[[敏達天皇]]の後裔としているが若干相違がある。 |
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* 『[[日本書紀]]』<ref>『続日本紀』天平宝字元年正月6日条</ref>『[[古事記]]』『[[新撰姓氏録]]』では三世王とする。 |
* 『[[日本書紀]]』<ref>『続日本紀』天平宝字元年正月6日条</ref>『[[古事記]]』『[[新撰姓氏録]]』では三世王とする。 |
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** 敏達天皇-[[難波皇子]]-栗隈王-美努王 |
** 敏達天皇-[[難波皇子]]-栗隈王-美努王 |
2021年11月24日 (水) 16:12時点における版
美努王 | |
---|---|
時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不詳 |
卒去 | 和銅元年5月30日(708年6月22日) |
別名 | 弥努王、美奴王、美弩王、三野王 |
官位 | 従四位下治部卿 |
父母 | 父:栗隈王、母:大伴長徳娘 |
兄弟 | 美努王、武家王 |
妻 | 県犬養三千代 |
子 | 橘諸兄、橘佐為、牟漏女王 |
美努王(みぬおう/みのおう)は敏達天皇の後裔たる四位・栗隈王の子。官位は従四位下・治部卿。弥努王・美奴王・美弩王・三野王などと『六国史』に表記されており、人物比定にも問題がある[1]。
出自
各種史書は敏達天皇の後裔としているが若干相違がある。
経歴
天武天皇元年(672年)6月に壬申の乱が起こった際に、大友皇子側の近江朝廷の命令を受けて軍兵を徴発するために佐伯男が筑紫に下向してきたが、筑紫大宰・栗隈王は外敵への備えを理由に徴発を拒否した。佐伯男は命令に従わない場合は殺すようにも命じられていたが、王の2人の息子である三野王と武家王が太刀を帯びて近くに侍していたために任務を果たすことができなかったという[3]。
天武天皇11年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した[4]。持統天皇8年(694年)筑紫大宰率に任ぜられる(このときの位階は浄広肆)。
大宝元年(701年)大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司長官に任ぜられる。その後、左京大夫・摂津大夫・治部卿などを歴任し、位階は従四位下に至る。和銅元年(708年)5月30日卒去。
官歴
『六国史』による。
- 持統天皇8年(694年) 9月22日:筑紫大宰率
- 大宝元年(701年) 正五位下(大宝律令施行による)。11月8日:造大幣司長官
- 大宝2年(702年) 正月17日:左京大夫
- 時期不詳:従四位下
- 慶雲2年(705年) 8月11日:摂津大夫
- 和銅元年(708年) 3月13日:治部卿