「全ロシア・ムスリム大会」の版間の差分
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Meine Libe (会話 | 投稿記録) →ロシア革命期: 参考文献まで用意して定義したのに表示出来ません。メフメト・エミーン・ラスールザーデの記事に有るので、解る方がいらしたらお願いします。 |
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ロシア革命期の「第1回」大会は、[[2月革命 (1917年)|三月革命]]後の[[1917年]][[5月1日]]、モスクワでロシア領の[[中央アジア]]・[[南コーカサス|ザカフカス]]に在住するムスリム諸民族の代表約900名を集めて開催され、革命に対するムスリム諸民族の方針が協議された。この大会で、ロシア領内に散在して居住する[[タタール人]]の代表は、ロシアを単一国家として維持し、そのなかでムスリム諸民族が一体となり[[文化的自治]]を行うという提案を行ったが、[[アゼルバイジャン]]出身の[[メフメト・エミーン・ラスールザーデ]]<ref name="石原80"/>や中央アジア代表などむしろロシアを[[連邦|連邦国家]]とし、各民族が領域的自治を行うべきであると主張、後者が大会参加者の大勢を占め、[[ロシア臨時政府|臨時政府]]に対し[[民族自決|民族自決論]]に基づく連邦国家の実現を求めることとなった。この大会で主導権を握ったのは[[メンシェヴィキ]]や[[社会革命党|エス・エル]]を支持するムスリムであり、大会後の常設機関として中央民族評議会(ロシア・ムスリム評議会)がモスクワで発足した。 |
ロシア革命期の「第1回」大会は、[[2月革命 (1917年)|三月革命]]後の[[1917年]][[5月1日]]、モスクワでロシア領の[[中央アジア]]・[[南コーカサス|ザカフカス]]に在住するムスリム諸民族の代表約900名を集めて開催され、革命に対するムスリム諸民族の方針が協議された。この大会で、ロシア領内に散在して居住する[[タタール人]]の代表は、ロシアを単一国家として維持し、そのなかでムスリム諸民族が一体となり[[文化的自治]]を行うという提案を行ったが、[[アゼルバイジャン人]]出身の[[メフメト・エミーン・ラスールザーデ]]<ref name="石原80"/>や中央アジア代表などむしろロシアを[[連邦|連邦国家]]とし、各民族が領域的自治を行うべきであると主張、後者が大会参加者の大勢を占め、[[ロシア臨時政府|臨時政府]]に対し[[民族自決|民族自決論]]に基づく連邦国家の実現を求めることとなった。この大会で主導権を握ったのは[[メンシェヴィキ]]や[[社会革命党|エス・エル]]を支持するムスリムであり、大会後の常設機関として中央民族評議会(ロシア・ムスリム評議会)がモスクワで発足した。 |
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第2回大会は同年[[7月17日]]から[[8月2日]]まで[[カザン]]で開催されたが、中央民族評議会が機能不全に陥っていたこともあって、[[トルキスタン]]・[[カザフスタン]]・[[アゼルバイジャン]]の代表は参加せず、タタールと北カフカスの代表200名余の参加にとどまった。この大会と同日程・同所で開催された全ロシア・ムスリム軍事大会の決議により、[[十月革命]]後の11月、ムスリムによる「民族議会」が[[ウファ]]で発足した。 |
第2回大会は同年[[7月17日]]から[[8月2日]]まで[[カザン]]で開催されたが、中央民族評議会が機能不全に陥っていたこともあって、[[トルキスタン]]・[[カザフスタン]]・[[アゼルバイジャン]]の代表は参加せず、タタールと北カフカスの代表200名余の参加にとどまった。この大会と同日程・同所で開催された全ロシア・ムスリム軍事大会の決議により、[[十月革命]]後の11月、ムスリムによる「民族議会」が[[ウファ]]で発足した。 |
2021年11月25日 (木) 12:50時点における版
全ロシア・ムスリム大会(ぜんロシア・ムスリムたいかい)は、第1次ロシア革命期からロシア革命期にかけてのロシアで開催された、ムスリム諸民族による大会である。特にロシア革命中の1917年5月、モスクワで開催された「第1回大会」が知られている。
概要
第1次ロシア革命期
1905年の第1次ロシア革命勃発後、ガスプリンスキーらタタール人の知識人は、ロシア帝国内のムスリム系民族居住地域に呼びかけ、同年8月、第1回全ロシア・ムスリム大会を開催した。同大会は翌1906年1月に第2回大会を開催して「ロシア・ムスリム連盟」を結成、同年8月の第3回大会では同連盟の政党化が決議された。これらの大会で主導権を握ったのは民族的にはタタール人、政治的にはムスリム自由主義者であった。
ロシア革命期
ロシア革命期の「第1回」大会は、三月革命後の1917年5月1日、モスクワでロシア領の中央アジア・ザカフカスに在住するムスリム諸民族の代表約900名を集めて開催され、革命に対するムスリム諸民族の方針が協議された。この大会で、ロシア領内に散在して居住するタタール人の代表は、ロシアを単一国家として維持し、そのなかでムスリム諸民族が一体となり文化的自治を行うという提案を行ったが、アゼルバイジャン人出身のメフメト・エミーン・ラスールザーデ[1]や中央アジア代表などむしろロシアを連邦国家とし、各民族が領域的自治を行うべきであると主張、後者が大会参加者の大勢を占め、臨時政府に対し民族自決論に基づく連邦国家の実現を求めることとなった。この大会で主導権を握ったのはメンシェヴィキやエス・エルを支持するムスリムであり、大会後の常設機関として中央民族評議会(ロシア・ムスリム評議会)がモスクワで発足した。
第2回大会は同年7月17日から8月2日までカザンで開催されたが、中央民族評議会が機能不全に陥っていたこともあって、トルキスタン・カザフスタン・アゼルバイジャンの代表は参加せず、タタールと北カフカスの代表200名余の参加にとどまった。この大会と同日程・同所で開催された全ロシア・ムスリム軍事大会の決議により、十月革命後の11月、ムスリムによる「民族議会」がウファで発足した。
脚注
- ^ 引用エラー: 無効な
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」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
参考文献
- 事典項目
- 小松久男 「ロシア・ムスリム大会」 『世界民族問題事典』(新訂増補版) 平凡社、2002年
- 同 「全ロシア・ムスリム大会」 『岩波イスラーム辞典』 岩波書店、2002年
- 長縄宣博 「ロシア・ムスリム大会」 『中央ユーラシアを知る事典』 平凡社、2005年
- 単行書
- 宇山「ロシア革命と自治運動:トルキスタン自治政府とアラシュ・オルダ」
- 全国歴史教育研究協議会 『世界史B用語集』(改訂版) 山川出版社、2008年
- 石原賢一「メフメット・エミーン・レスールザーデ - ある民族主義者の生涯と著作」(PDF)『史学』第74巻第1/2号、三田史学会、2005年9月、77-102頁、ISSN 03869334、NAID 110007411033。
外部リンク
- 山内昌之「イスラム世界とロシア革命(1):スルタンガリエフの革命理論 : 資料と解説」 (PDF)
- 田中鉄也「フェアリー・テール」より「第一部:スターリン - 4.対立と指導者の死」 - ウェイバックマシン(2012年7月15日アーカイブ分)