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[[百済]]の[[己婁王]]が[[113年]]に使者を送ってきたことを受け、新羅と百済との間に盟友関係が出来上がったと見られる。[[125年]]7月には[[靺鞨]]が泥河(南大川)<ref>泥河は、5世紀以前は[[江原道 (南)|江原道]]の南大川、6世紀以降は[[咸鏡南道]]の深浦川を指すものと考えられている。</ref>を超えて侵入してきたので、百済に国書を送って援軍を求めたところ、百済は5人の将軍を送ってきたので靺鞨を退けることに成功した。 |
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南方の[[伽耶]]方面では、[[115年]]に黄山河([[洛東江]])を超えて親征を行ったが伏兵に阻まれて戦果は上げられず、翌[[116年]]に将軍と兵1万を派遣して攻めさせたが伽耶軍の籠城戦の前に退却することとなった。南方戦の足がかりとして[[121年]]2月に大甑山城([[釜山広域市]][[東萊区]])を築いた。同年4月には[[倭人]]が東部辺境(海岸地域)に侵入してきたが、[[123年]]3月には倭国と講和した。 |
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在位23年にして134年8月に死去した。跡継ぎの子がいなかったため、王位は伯父の[[逸聖尼師今]]へと継がれた。埋葬地についての記載は『[[三国史記]]』にはない。 |
在位23年にして134年8月に死去した。跡継ぎの子がいなかったため、王位は伯父の[[逸聖尼師今]]へと継がれた。埋葬地についての記載は『[[三国史記]]』にはない。 |
2021年12月14日 (火) 09:24時点における版
祇摩尼師今 | |
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第6代国王 | |
在位期間 | 112年 - 134年 |
生年 | 不詳 |
没年 | 134年8月 |
父 | 婆娑尼師今 |
母 | 史省夫人(金氏) |
祇摩尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 지마 이사금 |
漢字: | 祇摩尼師今 |
発音: | チマ・イサグム |
日本語読み: | ぎま・にしきん |
ローマ字: | Jima Isageum |
祇摩尼師今(ぎま にしきん、生年不詳 - 134年8月)は、新羅の第6代の王(在位:112年 - 134年)であり、姓は朴。先代の婆娑尼師今の嫡子。『三国史記』新羅本紀・祇摩尼師今紀の分注には祇味、『三国遺事』王暦では祇磨尼叱今とも記される。
治世
百済の己婁王が113年に使者を送ってきたことを受け、新羅と百済との間に盟友関係が出来上がったと見られる。125年7月には靺鞨が泥河(南大川)[1]を超えて侵入してきたので、百済に国書を送って援軍を求めたところ、百済は5人の将軍を送ってきたので靺鞨を退けることに成功した。
南方の伽耶方面では、115年に黄山河(洛東江)を超えて親征を行ったが伏兵に阻まれて戦果は上げられず、翌116年に将軍と兵1万を派遣して攻めさせたが伽耶軍の籠城戦の前に退却することとなった。南方戦の足がかりとして121年2月に大甑山城(釜山広域市東萊区)を築いた。同年4月には倭人が東部辺境(海岸地域)に侵入してきたが、123年3月には倭国と講和した。
在位23年にして134年8月に死去した。跡継ぎの子がいなかったため、王位は伯父の逸聖尼師今へと継がれた。埋葬地についての記載は『三国史記』にはない。
『三国遺事』王暦は祇摩尼師今の代に音質国(慶尚北道慶州市安康邑)・押梁国(慶尚北道慶山市)を滅ぼした、としている。
脚注
参考文献
- 金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年 ISBN 4-582-80372-5
- 一然撰、金思燁訳『完訳 三国遺事』明石書店、1997年 ISBN 4750309923(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980年)