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== 経歴 ==
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[[File:195109 1951年朝鲜战争谈判代表团 谢方 邓华 南日 李相朝 张平山.png|250px|thumb|right|休戦会談代表団(1951年)。左から[[解方]]、[[トウ華]]、[[南日]]、李相朝、[[張平山 (軍人)|張平山]]]]
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1913年又は1915年に[[慶尚南道 (日本統治時代)|慶尚南道]][[東区]]に生まれる。幼い頃に[[中国]]東北部(旧[[満州]])に移住。[[1930年]]代より中国東北部(旧満州)などで[[抗日運動]]に参加する。[[中山大学]]を卒業。1938年8月、[[陸軍軍官学校 (中華民国)|中央陸軍軍官学校]]星子分校特別訓練班を卒業して同年10月から[[朝鮮義勇隊]]で活動する。1939年に[[抗日軍政大学]](第5期)を卒業。1940年、[[中国共産党]]に入党。[[1942年]]に朝鮮独立同盟や[[朝鮮義勇軍]]などに参加する。1942年末から北満州で地下工作を始め、1943年5月に[[巴彦県]]で朝鮮独立同盟第12支部、[[1945年]]8月20日にハルビンで朝鮮独立同盟北満特別委員会を成立させた。1945年9月にハルビン保安総隊朝鮮独立大隊を設立した。1945年11月、独立大隊は朝鮮義勇軍の幹部と合流して朝鮮義勇軍第3支隊が結成され、李相朝が支隊長に就任した。


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[[1946年]]6月に朝鮮に帰国する。[[1948年]]9月の朝鮮民主主義人民共和国の建国に参加する。[[朝鮮労働党]]の党中央組織部長や商工副相となる。[[1950年]]6月に[[朝鮮戦争]]が始まると[[朝鮮人民軍]]の副総参謀長兼偵察局長、前線司令部参謀長などを歴任する。[[1953年]]に朝鮮人民軍[[中将]]となる。1953年7月に朝鮮戦争の軍事停戦委員会の中朝側首席代表となる。[[1955年]]8月に駐ソ連[[大使]]として[[モスクワ]]に赴任する。[[1956年]]4月に朝鮮労働党の党中央委員となる。

2021年12月14日 (火) 09:26時点における版

李相朝
各種表記
ハングル 리상조
漢字 李相朝
発音 リ・サンジョ
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李 相朝(リ・サンジョ、1913年又は1915年 - 1998年)は、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の政治家軍人。中国名は金澤明中国共産党の影響を受けた延安派に属していた。

経歴

休戦会談代表団(1951年)。左から解方トウ華南日、李相朝、張平山

1913年又は1915年に慶尚南道東萊区に生まれる。幼い頃に中国東北部(旧満州)に移住。1930年代より中国東北部(旧満州)などで抗日運動に参加する。中山大学を卒業。1938年8月、中央陸軍軍官学校星子分校特別訓練班を卒業して同年10月から朝鮮義勇隊で活動する。1939年に抗日軍政大学(第5期)を卒業。1940年、中国共産党に入党。1942年に朝鮮独立同盟や朝鮮義勇軍などに参加する。1942年末から北満州で地下工作を始め、1943年5月に巴彦県で朝鮮独立同盟第12支部、1945年8月20日にハルビンで朝鮮独立同盟北満特別委員会を成立させた。1945年9月にハルビン保安総隊朝鮮独立大隊を設立した。1945年11月、独立大隊は朝鮮義勇軍の幹部と合流して朝鮮義勇軍第3支隊が結成され、李相朝が支隊長に就任した。

1946年6月に朝鮮に帰国する。1948年9月の朝鮮民主主義人民共和国の建国に参加する。朝鮮労働党の党中央組織部長や商工副相となる。1950年6月に朝鮮戦争が始まると朝鮮人民軍の副総参謀長兼偵察局長、前線司令部参謀長などを歴任する。1953年に朝鮮人民軍中将となる。1953年7月に朝鮮戦争の軍事停戦委員会の中朝側首席代表となる。1955年8月に駐ソ連大使としてモスクワに赴任する。1956年4月に朝鮮労働党の党中央委員となる。

1956年に発生した金日成の独裁体制を打倒する8月宗派事件に参加する。その直後、ソ連亡命する(北朝鮮外交官による初めての亡命事件)。亡命後、ミンスク大学英語版で研究生活を送り政治学博士の学位を取得した。1989年にソウルを訪れ、朝鮮戦争は北朝鮮の南侵計画によって始まったことを暴露した。同年8月に韓国に移住する。1992年1月に脱北者の組織の朝鮮民主統一救国戦線に参加する。その後、1998年に病死。

参考

  • 李海燕 (2009), 戦後の「満州」と朝鮮人社会 越境・周縁・アイデンティティ, 御茶の水書房, ISBN 978-4-27-500842-8 
  • 金学俊 李英訳 (1997). 北朝鮮五十年史―「金日成王朝」の夢と現実. 朝日新聞社. ISBN 4-02-257170-5 
  • “永遠の記念碑(3)―北満州の朝鮮義勇軍第3支隊” (朝鮮語). 吉林新聞. (2011年9月27日). http://kr.chinajilin.com.cn/cxz/content/2011-09/27/content_66366.htm 2015年5月9日閲覧。 
  • 李相朝”. 労働者の本. 2015年5月9日閲覧。