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'''李 玨'''(日本語読み:り ぎょく、朝鮮語読み:イ・カク、生年不詳 - [[1592年]][[5月14日 (旧暦)|5月14日]])は、[[李氏朝鮮]]に仕えた官吏。 |
'''李 玨'''(日本語読み:り ぎょく、朝鮮語読み:イ・カク、生年不詳 - [[1592年]][[5月14日 (旧暦)|5月14日]])は、[[李氏朝鮮]]に仕えた官吏。 |
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[[文禄・慶長の役|文禄の役]]が始まった時に慶尚左道兵馬節度使(慶尚左兵使)<ref>[[慶尚道]]を二つに分割したうちの東側(ソウルから見て左)である[[慶尚左道]]の陸軍司令官。兵使は兵馬節度使の略。</ref>であった。蔚山北方の兵営城に駐屯していたが、[[釜山鎮の戦い]]には間に合わず、[[東萊城の戦い]]では城の守備を府使[[宋象賢]]に任せて脱出。慶州城の戦いの前に、任地と軍を棄てて逃亡した罪に問われた。漢城府陥落後、臨津の[[金命元]]都元帥の陣中に現れたので逮捕され、『宣祖修正實録』によると5月14日(和暦13日)に、李朝は宣伝官を派遣して、斬首させた<ref>{{Harvnb|朝鮮史編修会|1937|ref=ch1|loc=p.461}}</ref>。 |
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李 玨(日本語読み:り ぎょく、朝鮮語読み:イ・カク、生年不詳 - 1592年5月14日)は、李氏朝鮮に仕えた官吏。
文禄の役が始まった時に慶尚左道兵馬節度使(慶尚左兵使)[1]であった。蔚山北方の兵営城に駐屯していたが、釜山鎮の戦いには間に合わず、東萊城の戦いでは城の守備を府使宋象賢に任せて脱出。慶州城の戦いの前に、任地と軍を棄てて逃亡した罪に問われた。漢城府陥落後、臨津の金命元都元帥の陣中に現れたので逮捕され、『宣祖修正實録』によると5月14日(和暦13日)に、李朝は宣伝官を派遣して、斬首させた[2]。
脚注[編集]
- ^ 慶尚道を二つに分割したうちの東側(ソウルから見て左)である慶尚左道の陸軍司令官。兵使は兵馬節度使の略。
- ^ 朝鮮史編修会 1937, p.461
参考文献[編集]
- 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年 。
- 朝鮮史編修会(漢文調)『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮史. 第四編第九巻』朝鮮総督府、1937年 。