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「明石正風」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2018年8月3日 (金) 14:17 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 明石正風
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = 不明
| 改名 = 正風、宗和/隠月斎(号)
| 別名 = 長行
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[備前国|備前守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[赤松晴政]]
| 藩 =
| 氏族 = [[明石氏]]
| 父母 =
| 兄弟 =
| 妻 = [[宇喜多能家]]娘
| 子 = [[明石祐行|祐行]]、岩姫、[[梶原景則]]室、[[栗山利安]]室、<br/>[[明石安正|安正]]
| 特記事項 =
}}

'''明石 正風'''(あかし まさかぜ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[赤松氏]]の家臣。

== 略歴 ==
[[播磨国]]の[[枝吉城]]を拠点としていた[[明石氏]]の当主。[[赤松晴政]]に仕えていた。[[享禄]]4年([[1531年]])、武庫河原の戦いで[[浦上村宗]]に勝利した。[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])、[[尼子晴久]]による播磨侵攻に於いては、[[御着城]]主・[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]と共に晴久に呼応し[[赤松晴政|赤松政村]]と交戦するが敗れ、後に[[淡路国]][[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]]へ逃亡し、その後、和睦した。

== 逸話 ==
明石氏は代々、書や[[和歌]]を伝統的に興じる家風で、特に正風は戦国武将でありながら風流人であったとされ、時の[[関白]]、[[近衛稙家]]に和歌を伝授した記録が残る。

2022年3月17日 (木) 22:53時点における版