「仁保事件」の版間の差分
新しい項目の追加 |
(相違点なし)
|
2006年11月22日 (水) 09:16時点における版
仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に現在の山口県山口市仁保で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。
事件の概略
事件発生
事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。 一家の主のYさん(事件当時49歳)、妻のMさん(事件当時は42歳)、母親のGさん(事件当時は77歳)、三男のA君(事件当時は15歳)、四男のK君(事件当時は13歳)、五男のM君(事件当時は11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。 6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。 事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってYさん宅の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところYさんら6名の遺体を発見、警察へ通報した。 事件現場は、JR(当時は、日本国有鉄道の)山口線仁保駅の東北に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つであった。
難航する捜査から犯人逮捕まで
事件発覚当初、山口県警は怨恨説と物盗り説の両方を想定して進められた。 その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として冤罪犯となる岡部保さんも含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。 しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。 県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分から23日の拘留期限で釈放された。 業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の岡部保(おかべたもつ)さんが浮上してきた。しかし、説得力のある証拠は何一つ存在せず、リストからの消去法で選ばれただけであった。 県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は岡部さんの友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗という軽微の事件での全国指名手配は当時としても極めて異例。 これにより、岡部さんは1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口へと移送された。
取調べから起訴まで
大阪から山口県警へ移送された岡部さんは10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴された。余談ではあるが、この時岡部さんは贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、岡部さんは孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。 そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。 しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから当然のことながら岡部さんは自身のアリバイを申し立てて、犯行への関与を否定、調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。 その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間岡部さんの供述は常に迷走していた(これは当然のことながら岡部さんが犯行に関与していないからであるが)。それゆえ、自供が最終的な形となったのはなんと検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。 翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に岡部さんを連れての現場検証。 1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
=録音テープの存在
この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。 これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった冤罪事件である八海事件で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。 このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは決して取り調べの全容を網羅したものではなく、飽くまでその一部を記録したものに過ぎない。しかも、テープは法廷でもか検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。 テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。 現在でも取調べをテープで録音することは珍しいことから研究目的にテープが用いられることもある。 余談ではあるが、録音装置の性能が遥かに向上した現在でもなお、警察の取調べに録音テープが用いられることは極めて少ない。冤罪防止の観点からイギリスのように取調べでの録音を義務づけるべきだと主張する法学者もいる。
起訴から無罪放免まで(裁判の経過)
仁保事件は再審を経ずに死刑判決から逆転無罪判決が下った事件である。余談でhsあるが、日本で再審を経て逆転無罪の判決が下ったのは発生が古い順から(括弧内は事件が発生した年)免田事件(1948年)、財田川事件(1950年)、島田事件(1954年)、松山事件(1955年)の計4件である。
仁保事件の問題点
仁保事件は他の冤罪事件と共通した特徴を有していたが、それらの教訓が生かされることがなかった。 仁保事件の問題点は以下のようなものである。
- 警察及び検察の結論ありきによる捜査と取調べ。
- 物的証拠を軽視した自白偏重主義に基づいた捜査。
- 弁護士不在という孤立無援の状態での長期間の取調べ。
- 長期間にも渡る拘留。
- 長期間に渡る取調べと拷問にも似た苛烈な取調べ。
ちなみに、岡部さんは後に取調べでは以下のような拷問が行なわれたと主張している。
といったものである。 上に述べたように、仁保事件では従来の(そして、仁保事件以後の)幾多の冤罪事件の教訓は生かされることはなかった。