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「長野県長野工業高等学校」の版間の差分

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2022年10月6日 (木) 21:13時点における版

長野県長野工業高等学校
地図北緯36度37分40.7秒 東経138度10分28.9秒 / 北緯36.627972度 東経138.174694度 / 36.627972; 138.174694座標: 北緯36度37分40.7秒 東経138度10分28.9秒 / 北緯36.627972度 東経138.174694度 / 36.627972; 138.174694
過去の名称 長野県立工業学校
長野県長野工業学校
国公私立の別 公立学校
設置者 長野県の旗 長野県
設立年月日 1918年4月
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程・定時制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 (全日制課程)機械工学科電気電子工学科情報工学科工業化学科土木工学科建築学科環境システム科(2018年度入学生で募集停止)
(定時制課程)基礎工学科建築科
学校コード D120220100046 ウィキデータを編集
高校コード 20117A
所在地 380-0948
外部リンク 長野工業高等学校(全日制)
長野工業高等学校(定時制)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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長野県長野工業高等学校の位置(長野県内)
長野県長野工業高等学校

長野県長野工業高等学校(ながのけんながのこうぎょうこうとうがっこう)は、長野県長野市差出南にある公立(県立)工業高等学校。通称、長工(ちょうこう)と呼ばれている。

概要

1918年に長野県立工業学校として開校。県内の工業高校の中では規模が大きく伝統がある。2004年度からは文部科学省が定める「IT人材育成プロジェクト」研究指定校になった。

沿革

  • 1918年(大正7年)4月 - 長野市岡田町の現在長野バスターミナルがある場所に、長野県立工業学校として開校。機械電気科、応用化学科を設置。
  • 1920年(大正9年)4月 - 長野県令38号により、長野県長野工業学校に改称。
  • 1923年(大正12年)4月 - 土木建築科を設置。
  • 1938年(昭和13年)4月 - 機械電気科を機械科と電気科に分科。
  • 1942年(昭和17年)4月 - 土木建築科を土木科と建築科に分科。
  • 1944年(昭和19年)4月 - 応用化学科を工業化学科に改称。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、長野県長野工業高等学校となる。
  • 1966年(昭和41年)4月 - 校舎を現在地の長野市安茂里に移転。
  • 1986年(昭和61年)4月 - 情報技術科を設置。
  • 1996年(平成8年)4月 - 環境システム科を設置。
  • 2000年(平成12年)4月 - 定時制の機械科と電気科を統合し、基礎工学科を設置。
  • 2003年(平成15年)8月12日 - 野球班が甲子園へ出場。(1回戦:智辯和歌山1-6)[1]

校訓・教育目標

校訓

  • 至誠努力ー第2代校長長井教雄の創案による。由来は、東京高等工業学校(現東京工業大学)の教育精神の1つとしてある「至誠一貫」にちなみ、「至誠努力」としたといわれる。1929年6月に信濃教育会総会で記念講演を行った法隆寺貫主佐伯定胤に揮毫を依頼し、扁額として講堂に掲げた。[2]

教育目標

  • 健康で自主的精神にみち、将来、社会のよき形成者としての資質を養い、工業の諸分野における基礎的な知識、技能、態度に習熟した技術者の育成を期する。

著名な出身者

校章

  • 桜の文様に工の文字

部活動

  • 野球班などの団体が存在している。
  • 家庭科同好会などの同好会団体も存在する。
  • 北信地方の他の県立高校と同じく「部」のことを「班」という。

校歌・応援歌

最寄駅

脚注

  1. ^ abn長野朝日放送 過去の試合
  2. ^ 『長工七十年史』長工七十年史編集委員会編,長工七十年史刊行会.p89-90

関連項目