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「佐賀県立唐津西高等学校」の版間の差分

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2022年10月7日 (金) 04:10時点における版

佐賀県立唐津西高等学校
地図北緯33度26分13.4秒 東経129度58分0.1秒 / 北緯33.437056度 東経129.966694度 / 33.437056; 129.966694座標: 北緯33度26分13.4秒 東経129度58分0.1秒 / 北緯33.437056度 東経129.966694度 / 33.437056; 129.966694
過去の名称 唐津町立実科高等女学校
唐津町立唐津高等女学校
佐賀県立唐津高等女学校
佐賀県立唐津第二高等学校
佐賀県立唐津高等学校
国公私立の別 公立学校
設置者 佐賀県の旗 佐賀県
学区 北部学区
設立年月日 1907年明治40年)4月1日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード D141290000054 ウィキデータを編集
高校コード 41105B
所在地 847-0821
佐賀県唐津市町田字大山田1992番地
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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佐賀県立唐津西高等学校の位置(佐賀県内)
佐賀県立唐津西高等学校

佐賀県立唐津西高等学校(さがけんりつ からつにしこうとうがっこう, Saga Prefectural Karatsu West(Nishi) High School)は、佐賀県唐津市町田字大山田1992に所在する県立高等学校。通称は「西高」、「ニシ」。

設置学科

  • 1952年(昭和27年) - 唐津高等学校時代、西校舎に家政科を設置。
  • 1991年(平成3年)-家政科を募集停止、普通科英語コース募集開始
  • 2011年(平成23年)-普通科英語コース閉校式
  • 2018年(平成30年)-普通科1学年160人

概要

設立の経緯
・1901年(明治34)年、「愛国婦人会」創設者の奥村五百子広岡浅子大隈重信の紹介で知り合い初対面ですぐに意気投合し、「万事相談相手として互いの長所を認め合う仲」となった(大久保高明『奥村五百子詳伝』 愛国婦人会 一九〇八(明治四一)年)。1906年(明治39年)、五百子が唐津で病気療養中だった時に、広岡浅子がお見舞いに来唐した。せっかく唐津まで来られたならと唐津の有力者を集めて講演会が開催され、そこで浅子は女子教育の必要性を主張し、翌年の唐津女学校の設立につながった。

  

校章
2本の枝葉(双松)を背景に、「西」(West)の頭文字の「W」と「高」の文字(旧字体)を置いている。
校歌
 1957(昭和32年)制定 作詞・三根寿太、作曲・坂本不二夫
同窓会
「まつら[1]同窓会」と称する。毎年6月に唐津市内のホテルで総会・懇親会を開催している。(R2,R3はコロナ拡大防止のため中止)
 関東関西福岡に同窓会支部がある。

沿革

女子校時代

  • 1907年(明治40年)
    • 3月 - 「唐津町立唐津女学校」が設立。
    • 4月15日 - 開校。
  • 1908年(明治41年)- 高等女学校への改組により、「唐津町立唐津高等女学校」と改称し、坊主町へ移転[2]
  • 1920年大正9年)- 県立移管により、「佐賀県立唐津高等女学校」となる。
  • 1938年昭和13年)- 専修科を設置。
  • 1939年(昭和14年)- 専修科を補習科に昇格。
  • 1943年(昭和18年)- 補習科を専攻科に改称。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革に伴い、「佐賀県立唐津第二高等学校」(女子校)として発足

唐津高等学校時代

    • 1949年(昭和24年) - 佐賀県立唐津第一高等学校(男子高)・佐賀県立唐津第二高等学校(女子校)が統合し、佐賀県立唐津高等学校男女共学)となる。旧制中学の流れを汲む旧一高校舎は東校舎、女学校の流れを汲む旧二高校舎は西校舎と呼ばれる。全日制課程普通科通信制課程定時制課程を設置。
    • 1950年(昭和25年) - 校歌「天日かがやき」制定。校章、バッヂ制定。
    • 1951年(昭和26年) - 厳木分校設置。定時制普通科・商業科・家庭科。
    • 1952年(昭和27年) - 西校舎に家政科を設置。定時制課程を募集停止。通信制課程を佐賀高校に移転。1年生の定員は全日制普通科520名、家政科80名、厳木分校定時制100名。

唐津西高校時代

  • 1956年(昭和31年)4月1日
    • 唐津高等学校が分割され、佐賀県立唐津東高等学校と「佐賀県立唐津西高等学校」(現校名)が開校。
    • 旧・唐津高等学校厳木分校が移管される。
  • 1957年(昭和32年)9月-校歌「天日かがやき」は唐津東高等学校の校歌となったため、新しい校歌「梅豆羅の里の…」が制定。作詞・三根寿太、作曲・坂本不二夫。
  • 1961年(昭和36年)4月1日 - 厳木分校が分離の上、佐賀県立厳木高等学校として独立。
  • 1979年(昭和54年)- 坊主町から町田の現校舎へ移転。(坊主町の旧校舎跡地は、現在早稲田佐賀中学・高等学校の八太郎館(学生寮)が立地している)
  • 1986年(昭和61年)- 夏の甲子園(第68回全国高等学校野球選手権大会)に初出場。
  • 1991年平成3年)- 家政科募集停止。普通科英語コースを新設。
  • 2007年(平成19年)-創立100周年式典。
  • 2011年(平成23年)3月31日 - 英語コースを閉科[3]

学校行事

  • 例年9月体育祭文化祭を併せて「双松祭」(そうしょうさい)が開催される。2020年(令和2年)より双松祭の区割り編成。3区(1区市内(赤)、2区(緑)上場地区、3区(黄)東南部地区)が2区編成となる。
  • ハナコフェア-1931年(昭和6年)、唐津高等女学校の生徒だった中尾ハナさんが、増水した松浦川で溺れていた鬼塚小学校の生徒2名を発見し、自ら飛び込んで2人を救助したが力尽きて17歳の生涯を閉じた。この中尾ハナさんの愛と勇気を引き継ぐために、愛、勇気、命を考えるための講演会が毎年開催されている。敷地内にはハナコ像が設置してある。

部活動

運動部
文化部

著名な出身者

脚注

  1. ^ 松浦(まつうら)の古い読み方。松浦党を参照。
  2. ^ 開校以来学校運営が順調に進み、町郡の世論もあり坊主町にあった国有地の無償払下げを受け、文部省規則に適応した高等女学校への改組が決定された。
  3. ^ 唐津西、鹿島実でコース閉科 20年の歴史に幕(2011年3月1日更新分) - 佐賀新聞ウェブサイト

関連項目

外部リンク