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2022年10月7日 (金) 15:28時点における版
魚津市立大町小学校 | |
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北緯36度48分48秒 東経137度23分51秒 / 北緯36.81322度 東経137.39744度座標: 北緯36度48分48秒 東経137度23分51秒 / 北緯36.81322度 東経137.39744度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 魚津市 |
設立年月日 | 1873年4月16日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒937-0866 |
富山県魚津市本町1-10-39 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
魚津市立大町小学校(うおづしりつ おおまちしょうがっこう)は、富山県魚津市本町1丁目10番地39号にかつて存在した小学校。
解説
魚津市の旧市街地のうちの大町地区を通学区域としていた。
沿革
- 1873年、魚津第一番中学校として創立。長教寺を仮校舎とする。
- 1874年、明理小学校と改称。校舎を新川県庁跡に移す。達成小学校、明理夜学小学校を併設。同年秋、明理小学校を2校(男児および女児)に分ける(1879年に統合)。
- 1879年4月15日、魚津城跡に新校舎を新築。
- 1883年、町立の小学校となる。
- 1892年8月、魚津町立明理尋常高等小学校と改称。
- 1895年6月、魚津町立魚津尋常高等小学校と改称。
- 1909年1月8日、神明川以東の尋常科の児童を魚津尋常小学校(現在の魚津市立村木小学校)に移転。
- 1914年、魚津実科高等女学校を併設(一時期のみ)。8月、2階建ての木造校舎完成。
- 1923年、校舎を一部改築。
- 1935年、青年学校、女子補習学校、魚津実業学校などを併置。
- 1936年、校歌制定。
- 1941年4月1日、大町国民学校と改称。
- 1944年、東京から疎開してきた矢口、六郷の国民学校の生徒を受け入れる。
- 1947年、大町小学校と改称(一時期のみ魚津中学校(後に現在の魚津市立西部中学校に統合される)も併設)
- 1950年11月4日、魚津町文化祭開催中(3日目)の早朝に校舎内の学校給食上付近で出火、火消し壺の割れ目から出た火が腰板に燃え移ったことが原因であった。結果、本校の70%を焼失し、さらに周辺の民家11軒を全半焼する被害となった[1]。
- 1952年3月、校舎再建。
- 1952年、魚津市の市制施行に伴い、魚津市立大町小学校と改称。
- 1955年、生徒の一部が魚津市立本江小学校に転校。
- 1966年、校庭の隅にあった愛宕神社を魚津神社境内に移転。
- 1979年、改築工事に着手。
- 1980年3月、校舎本館完成。
- 1984年2月、体育館完成。
- 2018年4月、村木小学校、本江小学校、上野方小学校と共に、魚津市立よつば小学校に統合され廃校[2]。
周辺
本校にゆかりのある人物
- 吉田忠雄(魚津尋常高等小学校高等科卒業。YKK創業者)
- 吉田久松(魚津尋常高等小学校高等科卒業。吉田忠雄とともにYKKを大企業に成長させる)
- 宇田新太郎(高等科卒業)
- 盛永俊太郎
- 川原田政太郎(高等科卒業)
- 横山源之助
備考
魚津大火の際、本校の講堂(現在は存在しない)は救援物資の倉庫として使用されていた。また、被災した村木小学校の一部の児童に対して分散授業を行った。