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「仙台市立広瀬小学校」の版間の差分

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2022年10月7日 (金) 17:28時点における版

仙台市立広瀬小学校
地図北緯38度16分18秒 東経140度46分34秒 / 北緯38.271722度 東経140.776083度 / 38.271722; 140.776083座標: 北緯38度16分18秒 東経140度46分34秒 / 北緯38.271722度 東経140.776083度 / 38.271722; 140.776083
過去の名称 愛子小学校
七北田学区愛子中初等学校
広瀬国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 仙台市
設立年月日 1873年6月
共学・別学 男女共学
学期 2学期制
学校コード B104221010181 ウィキデータを編集
所在地 989-3125
仙台市青葉区下愛子字二本松40番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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仙台市立広瀬小学校(せんだいしりつ ひろせしょうがっこう)は、宮城県仙台市青葉区下愛子字二本松にある公立小学校。2021年の児童数は594人、23学級、教職員40人[1]

学制にもとづき1873年愛子小学校として設立され、広瀬村の成立時に現校名に改称した。学区は愛子東のほとんどと、愛子中央の一部、下愛子の一部で、卒業後はほとんどが広瀬中学校へ進学する。

歴史

1872年(明治5年)に発布された学制にもとづく最初の小学校の一つで、1873年(明治6年)6月21日に愛子小学校として設立された。学区は第7大学区第1中学区第22小学区と区分され、上愛子村と下愛子村の児童を通わせた。場所は上愛子の蛇台原で、当初の教師数は3、生徒数は120人であった[2]

1889年(明治22年)に町村制にもとづく広瀬村が成立すると、広瀬小学校と改称した。広瀬村には他に作並村熊ケ根村をカバーする作並小学校、上愛子村に設けられた上愛子小学校、郷六村に設けられた郷六小学校があったが、これらはやがて広瀬小学校の下の分教場に格下げになった[3]。現在地への移転は1928年(昭和3年)のことである。

1930年代に広瀬小学校は菅野門之助、沢畑正一らによる生活綴方教育の実践の場となった。1934年(昭和9年)11月に東北地方の教師70余名が参観した公開授業(広瀬小学校綴方研究会)は、参加者に強い印象と生活綴方への自信を与えたという[4]

1942年(昭和17年) には上愛子分教場を昇格させて上愛子小学校を設け、村の西部の児童をそちらに容れた。1948年(昭和23年)には同様にして作並小学校が分立した。

20世紀後半に仙台市の郊外として周辺地区の人口が増加すると、広瀬小学校の生徒数も増加した。広瀬川対岸の飛び地的位置にあった郷六地区は、宮城町が仙台市に合併した翌1988年(昭和63年)4月に仙台市立折立小学校へ編入した。1992年(平成4年)4月には東部の落合、栗生地区のために栗生小学校が新設された。その後も、学区内の人口が増え続け2008年に宮城県内一番の児童数に達した。このため、2009年4月に錦ヶ丘と上愛子地区と愛子中央の一部と下愛子地区の一部を学区とする愛子小学校が設立された。

年表

学区

  • 愛子中央1丁目の一部、2、3丁目、5丁目の半分、愛子東、落合3丁目、4丁目の一部、6丁目の大部分、栗生7丁目、下愛子の大部分[5]

卒業生

脚注

  1. ^ 2021年5月1日現在。『教育要覧 仙台』、2021年、資料編11頁。
  2. ^ 『宮城町誌』本編改訂版、393頁、402-403頁。
  3. ^ 『宮城町誌』本編改訂版、393頁、403-404頁。
  4. ^ 中川正人「広瀬小学校における菅野門之助の教育実践」。
  5. ^ 市立小・中学校の学区検索 - 仙台市公式HP
  6. ^ 仙台市議会議員・かとう和彦プロフィール

参考文献

  • 仙台市「宮城町誌」改訂版編纂委員会『宮城町誌』本編改訂版、仙台市、1988年。
  • 中川正人「広瀬小学校における菅野門之助の教育実践」、『市史せんだい』第20号、2010年9月。

関連項目

外部リンク