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2022年10月8日 (土) 03:42時点における版
豊岡市立奈佐小学校 | |
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北緯35度32分27.0秒 東経134度46分28.5秒 / 北緯35.540833度 東経134.774583度座標: 北緯35度32分27.0秒 東経134度46分28.5秒 / 北緯35.540833度 東経134.774583度 | |
過去の名称 |
奈佐尋常高等小学校 奈佐国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 豊岡市 |
校訓 | 和らぎ 励んで 輝けよ |
設立年月日 | 1873年8月15日 |
閉校年月日 | 2021年3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
分校 | 辻分校(1960年廃止) |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B128210006468 |
所在地 | 〒668-0078 |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
豊岡市立奈佐小学校(とよおかしりつなさしょうがっこう)は、兵庫県豊岡市吉井620にあった公立小学校。1873年(明治6年)に創立され、2021年(令和3年)3月をもって豊岡市立五荘小学校と統合し、閉校した。[1]
概要
豊岡市西部に位置し、10キロメートルの奈佐谷の峡谷の中間よりやや下手に位置する。
学校の近くを奈佐川が流れている。2019年(令和元年)9月30日時点での奈佐全体の世帯数は384世帯。総人口は1082人となっている。
沿革
- 1873年(明治6年)- 学制発布の翌年野垣村観音庵の庵裏に開校。
- 1874年(明治7年)- 宮井村の光雲寺に移転。
- 1875年(明治8年)10月10日 - 辻小学校が開校[2]。
- 1876年(明治9年)- 大谷村字白藤に校舎を新築。
- 1920年(大正9年)4月 - 修業年限二年の高等科を併置して奈佐尋常高等小学校と改称。
- 1933年(昭和8年)- 奈佐小学校教員の福住湖村作詞、中村美登里作曲のものを奈佐小学校校歌として制定。
- 1934年(昭和9年)9月 - 室戸台風により講堂の裏山が崩れ講堂が半壊。吉井湖畔の教員住宅が流失。
- 1941年(昭和16年) - 奈佐国民学校と改称[3]
- 現行校舎時代
- 1960年(昭和35年)4月1日 - 辻分校を廃止。
- 1994年(平成6年)2月 - 奈佐小学校に緑の少年団を結成。
- 2019年 (平成31年) 4月1日 - 奈佐小学校の1年生と2年生が複式学級になる。
- 2021年 (令和3年) 3月24日 - 奈佐小学校で閉校式が挙行され、五荘小学校との統合により閉校。148年の歴史に幕を下ろす。
通学区域
- 岩井、宮井、庄、吉井、野垣、大谷、福成寺、内町、辻、船谷、目坂[4]
進学先中学校
特色
奈佐節保存会が伝承組織としてあり、奈佐小学校でのクラブ活動などで指導をしていた。
奈佐小学校の児童数の変遷
1978年度(昭和53年度) | 151人 |
1987年度(昭和62年度) | 114人 |
1997年度(平成9年度) | 89人 |
2007年度(平成19年度) | 83人 |
2012年度(平成24年度) | 67人 |
2017年度(平成29年度) | 59人 |
2018年度(平成30年度) | 47人 |
2019年度(平成31年度) | 36人 |
2020年度(令和2年度) | 35人 |
ギャラリー
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二宮金徳像
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奈佐小学校の校庭
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奈佐小学校の校訓碑
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奈佐小学校の体育館
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奈佐小学校のプール
校区周辺
脚注
- ^ “奈佐小学校148年の歴史に幕”. 神戸新聞. (2021年5月4日) 2021年11月17日閲覧。
- ^ “奈佐小学校 沿革史”. 2022年1月21日閲覧。
- ^ 小谷茂夫『但馬国の小さな村の物語「奈佐谷の歴史」』日本文化協会、2006年。
- ^ a b 豊岡市立学校の通学区域等に関する規則 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- ^ 『豊岡市事務報告書』豊岡市。
関連項目
参考文献
- 『豊岡市事務報告書』豊岡市。
- 小谷茂夫『但馬国の小さな村の物語「奈佐谷の歴史」』日本文化協会、2006年。