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「二川八幡神社」の版間の差分

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== 由緒 ==
== 由緒 ==
社伝によれば、[[永仁]]3年([[1195年]])、[[鎌倉市|鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]から[[分霊|勧請]]したのが創立と伝えられる。[[祭神]]は[[応神天皇]]で、毎月第1[[日曜日]]に[[月次祭]]がある。毎年、[[8月10日]]に行われていた[[例祭]]の[[湯立]][[神事]]は、[[幕府 (日本)|幕府]]から[[薪]]が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で[[境内]]は混雑を極めたといわれている。
社伝によれば、[[永仁]]3年([[1195年]])、[[鎌倉市|鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]から[[分霊|勧請]]したのが創立と伝えられる。[[祭神]]は[[応神天皇]]で、毎月第1[[日曜日]]に[[月次祭]]がある。毎年、[[8月10日]]に行われていた[[例祭]]の[[湯立]][[神事]]は、[[幕府]]から[[薪]]が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で[[境内]]は混雑を極めたといわれている。


この例祭は現在では[[10月10日]]に、[[神輿]][[渡御]]の神事として行われている。[[江戸時代]]末期から行われている慣習であり、[[神体]]を載せた神輿が、70余人の従者および3台の[[山車]]を従えて町内に繰り出す。[[太平洋戦争]]の中期以降一時中断したが、戦後復活し今日に至っている。
この例祭は現在では[[10月10日]]に、[[神輿]][[渡御]]の神事として行われている。[[江戸時代]]末期から行われている慣習であり、[[神体]]を載せた神輿が、70余人の従者および3台の[[山車]]を従えて町内に繰り出す。[[太平洋戦争]]の中期以降一時中断したが、戦後復活し今日に至っている。

2023年1月3日 (火) 21:30時点における版

二川八幡神社
二川八幡神社 拝殿
拝殿
所在地 愛知県豊橋市二川町東町
位置 北緯34度43分27.1秒 東経137度27分14.4秒 / 北緯34.724194度 東経137.454000度 / 34.724194; 137.454000座標: 北緯34度43分27.1秒 東経137度27分14.4秒 / 北緯34.724194度 東経137.454000度 / 34.724194; 137.454000
主祭神 応神天皇
創建 永仁3年(1295年
例祭 10月第2日曜日
主な神事 神輿渡御
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二川八幡神社の位置(日本内)
二川八幡神社
二川八幡神社
地図
二川八幡神社の位置(豊橋市)

二川八幡神社(ふたがわはちまんじんじゃ)は、愛知県豊橋市にある神社八幡宮)。

由緒

社伝によれば、永仁3年(1195年)、鎌倉鶴岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられる。祭神応神天皇で、毎月第1日曜日月次祭がある。毎年、8月10日に行われていた例祭湯立神事は、幕府からが下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で境内は混雑を極めたといわれている。

この例祭は現在では10月10日に、神輿渡御の神事として行われている。江戸時代末期から行われている慣習であり、神体を載せた神輿が、70余人の従者および3台の山車を従えて町内に繰り出す。太平洋戦争の中期以降一時中断したが、戦後復活し今日に至っている。

江戸時代には、黒印地二石を受けその格式はかなり高いものであった。

現在では二川氏神となっている。

境内にある秋葉山[要曖昧さ回避]常夜燈は、かつて二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809年)に建立されたものである。また、二川宿の人々の寄進による燈籠2対が今に伝わっている。

境内社(末社)

境内

アクセス

参考文献

  • 二川校区総代会--編 『校区のあゆみ 二川』 豊橋市総代会、2006年、41-42頁。