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* 1969年9月 派遣職員([[アジア開発銀行]])
* 1969年9月 派遣職員([[アジア開発銀行]])
* 1972年7月 大蔵省[[証券局]][[総務|総務課長]]補佐
* 1972年7月 大蔵省[[証券局]][[総務|総務課長]]補佐
* 1973年11月 [[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]][[秘書官]]事務取扱
* 1973年11月 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]][[秘書官]]事務取扱
* 1974年7月 大蔵省[[財務省大臣官房#総合政策課|大臣官房調査企画課長]]補佐
* 1974年7月 大蔵省[[財務省大臣官房#総合政策課|大臣官房調査企画課長]]補佐
* 1975年7月 大蔵省[[主計局]][[主計官#主計官補佐|主計官補佐]](通産第一、二係[[主査#国|主査]])
* 1975年7月 大蔵省[[主計局]][[主計官#主計官補佐|主計官補佐]](通産第一、二係[[主査#国|主査]])

2023年1月7日 (土) 06:25時点における版

中平 幸典(なかひら こうすけ、1939年 - 2009年9月23日)は、日本大蔵官僚財務官

人物

1957年東京都立日比谷高等学校を経て、東京大学法学部第2類(公法コース)卒業[1]1963年(昭和38年)、大蔵省入省(為替局総務課[2]。同期に、小村武日本政策投資銀行総裁大蔵事務次官)、日高壮平FISC理事長、国税庁長官)、西村吉正銀行局長)、金野俊美(ヒメノ会長、印刷局長)、龍宝惟男オーミケンシ社長、内閣審議官)、川嶋烈茨城銀行頭取)、米沢潤一政策研究院大教授、日銀理事、関税局長)、石坂匡身大蔵財務協会理事長、損保協会副理事長、環境次官理財局長)ら。

アジア開発銀行派遣職員を務め、海外経験は積んでいるものの、銀行局証券局が長く、主に国内派としてキャリアを積んでいった。財務官時代は、通貨交渉の相手であるローレンス・サマーズとはそりが合わなかった。自由化なったロシア市場経済へのテイクオフ策定に関わった一人である。

2005年6月には信金中央金庫理事長に就任し、2009年6月、健康上の理由から理事相談役に退く。同年9月23日東京都新宿区富久町にある自宅マンションの敷地内の植え込みに転落し、死亡した[3]

略歴

参考文献

脚注

  1. ^ 『東大人名録,第1部』1992年発行、48ページ
  2. ^ 『大蔵省名鑑 1990年版』時評社、1990年3月発行、32頁
  3. ^ “信金中金の中平・理事相談役がマンションから転落死”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年9月24日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090924-OYT1T00353.htm 2009年9月24日閲覧。 [リンク切れ]
  4. ^ 『職員録 昭和43年版 上巻』大蔵省印刷局、1967年発行、393頁
  5. ^ 『職員録 昭和54年版 上巻』大蔵省印刷局、1978年発行、492頁
先代
藤原和人
東海財務局長
1988年 - 1989年
次代
高橋厚男
先代
江沢雄一
大蔵省国際金融局長
1992年 - 1993年
次代
加藤隆俊
先代
千野忠男
財務官
1993年 - 1995年
次代
加藤隆俊
先代
吉野文六
国際経済研究所副理事長
1998年 - 2005年
次代
森昭治