「第二メルボルン」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2015年7月}} |
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{{競走馬 |
{{競走馬 |
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| 名 = 第二メルボルン<br />{{fontsize|14|(前名:イスズ)}} |
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| 画 = [[File:MelbourneⅡ 001.jpg|300px]] |
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| 画 = no |
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| 説 = 『牧畜雑誌』第262号口絵 |
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| 性 = [[牝馬|牝]] |
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| 性 = [[牝馬|牝]]<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 色 = 不明 |
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| 色 = [[鹿毛]]<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 種 = [[サラブレッド系種]] |
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| 種 = [[サラブレッド系種]](濠洋)<ref name="名馬名勝負_11" /><ref name="血統登録書04_141" /> |
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| 生 = [[1902年]] |
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| 生 = [[1902年]]<ref name="血統登録書04_141" /> |
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| 死 = [[1918年]]<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 父 = 不明 |
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| 父 = 不明<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 母 = 不明<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 国 = {{flagcountry|AUS}}<ref name="名馬名勝負_11" /> |
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| 国 = [[オーストラリア]] |
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| 主 = {{Ublist|コットン氏<ref name="名馬名勝負_8" />|→アレキサンダー氏<ref name="名馬名勝負_8" />|→スナイプ氏<ref name="名馬名勝負_9" />|→木村政次郎<ref name="名馬名勝負_10" />}} |
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| 主 = |
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| 績 = 46戦30勝<ref name="馬事2016_56" /><ref name="文明開化うま物語_168" /> |
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| 調 = 不明 |
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| 鞍 = {{Ublist|[[帝室御賞典]](根岸、1907年春)<ref name="馬事1997_39" />|横浜ダービー(1907年秋、1908年春)<ref name="馬事1997_39" />}} |
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| 績 = 35戦29勝 |
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| 金 = 不明 |
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'''第二メルボルン'''(だいにメルボルン、1902年{{Refnest|[[第二メルボルン#田島2009|田島(2009)]]は1901年<ref name="歩み_1187">{{Cite book|和書 |title=日本競馬の歩み 資料編 |year=2009 |publisher=サラブレッド血統センター |page=1187 |chapter=主要競走優勝馬一覧 |author=田島芳郎 }}</ref> 、[[第二メルボルン#関口2014|関口(2014)]]は1903年とする<ref>{{Cite web |url=https://company.jra.jp/equinst/publications/pdf/es51no3.pdf |title=馬の科学 Vol.51 No.3 |access-date=2024-10-17 |publisher=競走馬総合研究所 |year=2014 |author=関口隆 |work=装蹄歴史案内}}</ref>。|group=注}}<ref name="血統登録書04_141">{{Cite book|和書 |title=馬匹血統登録書 |year=1929 |publisher=帝国競馬協会 |page=141 |volume=第4巻 |chapter=第四メルボルン二世(競馬名オーミギシ)}}</ref> - 1918年<ref name="名馬名勝負_11">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=11 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>)は[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。デビュー当初の競走馬名は'''イスズ'''(イスヾ{{Refnest|五十鈴と漢字表記されることもある<ref>「横濱根岸の秋季大競馬(四日目)」『読売新聞』1906年11月11日付朝刊、3頁。</ref>。|group=注}})で、[[馬主]]が変わった際に第二メルボルンに改名された。血統は不詳<ref name="名馬名勝負_11" />、馬名はメルボルン二世とも{{Refnest|その他、第二メルボーン<ref name="宮内庁_138" />、メルボーン二世<ref name="競馬世界1_36" />の表記もある。|group=注}}<ref name="血統登録書04_141" />。 |
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'''第二メルボルン'''(だいにメルボルン)は[[日本]]の[[競走馬]]・[[繁殖牝馬]]。デビュー当初の[[競走馬#競走馬名|競走馬名]]は'''イスズ'''で、[[馬主]]が変わった際に第二メルボルンに改名された。 |
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主な勝鞍に1907年春の[[帝室御賞典]](根岸)、同年秋及び1908年春の横浜ダービー<ref name="馬事1997_39">{{Cite book|和書 |title=馬の博物館研究紀要 |year=1997 |publisher=馬事文化財団・馬の博物館 |page=39 |issue=第10号 |chapter=馬券発売黙許時代(明治38年12月~明治41年10月)の競馬資料の紹介 |author=日高嘉継}}</ref>。[[ミラ (競走馬)|ミラ]]と共に、明治時代に活躍した代表的な豪州産馬であった<ref name="名馬名勝負_8">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=8 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>。 |
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[[1902年]]に[[オーストラリア]]で誕生したとされる。[[1906年]]に日本へ[[輸入]]された。その際、血統書がなかったために血統不詳により[[サラブレッド系種]]とされた。同年競走馬として[[横浜競馬場]]、[[池上競馬場]]で行われた競走に出走、1906年11月のデビューから翌[[1907年]]11月にかけて[[帝室御賞典]]および[[横浜ダービー (競馬)|横浜ダービー]]優勝を含む無敗の22連勝を達成し、競馬ファンの人気を集めた。[[1908年]]にも横浜ダービーに優勝し、[[1909年]]11月の競走を最後に競走馬を[[引退]]した。 |
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引退後は[[北海道]]で繁殖牝馬として繋養され、1918年秋の[[優勝内国産馬連合競走]](目黒)優勝馬であるプリンセスブレイアモーアらを出した。 |
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== 生涯 == |
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[[1902年]]<ref name="血統登録書04_141" />、[[オーストラリア]]で産まれ<ref name="名馬名勝負_11" />、[[1906年]]秋に[[日本レース・倶楽部|日本レース・クラブ]]が同地で買い付けた牝馬40頭のうちの1頭として、日本に輸入された<ref>{{Cite book|和書 |title=競馬及競馬法史 |year=1936 |publisher=帝国競馬協会 |page=51 |author=堀田至広}}</ref>。 |
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同年秋、横浜の[[横浜競馬場|根岸競馬場]]でコットン氏(佐久間福太郎の仮定名称{{Refnest|馬主が名乗った仮称のこと。初期の競馬では仮定名称の使用が一般的であったため、本名の確認が困難な場合も多い<ref name="文明開化うま物語_162">{{Cite book|和書 |title=文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人 |year=1989 |publisher=有隣堂 |author=早坂昇治 |page=162 }}</ref>。|group=注}})の所有馬としてイスズの名でデビュー<ref name="名馬名勝負_8" />。根岸を全勝とした後、東京の[[池上競馬場]]に転戦した<ref name="名馬名勝負_8" />。池上では初日(11月24日)に実施された豪州新馬戦に出走するが、他の競走馬33頭が出馬の権利を放棄したため、イスズの単走となった<ref name="名馬名勝負_8" /><ref name="東京競馬倶楽部史3_2">{{Cite book|和書 |title=東京競馬会及東京競馬倶楽部史 |year=1939 |publisher=東京競馬倶楽部 |page=2 |volume=第3巻 |chapter=競馬番組編成竝成績一覽表/東京競馬會}}</ref>。イスズは鞍上に神馬騎手を乗せ、1マイルを2分16秒6で回走した<ref name="東京競馬倶楽部史3_2" /><ref name="牧畜雑誌254_43">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |chapter=東京競馬會第一囘競馬槪况 |volume=第254号 |doi=10.11501/11209852 |page=43 }}</ref>。4日目(12月2日)に行われた豪州優勝新馬戦でもキヌガサらを破り<ref name="牧畜雑誌254_48">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |chapter=東京競馬會第一囘競馬槪况 |volume=第254号 |doi=10.11501/11209852 |page=48 }}</ref>、池上での競走を無敗で終えた<ref name="競馬世界2_37">{{Cite book|和書 |title=競馬世界 |year=1907 |publisher=競馬世界社 |page=37 |chapter=某名氏の名馬談 |issue=第2号 |doi=10.11501/1537787 |author=シー、エフ、ティー(又はG,E,T,)}}</ref>。 |
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=== 第二メルボルンに改名 === |
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1907年、馬主がアレキサンダー氏に変わり、イスズも第二メルボルンと改名された<ref name="名馬名勝負_8" />。佐久間から馬主が変わった経緯には逸話があり、ある時の宴席で平沼八太郎からイスズを売ってほしいと持ちかけられた佐久間は、冗談で「一万円なら売ってもいい」と平沼に伝えた。当時の豪州産馬の値段を考えればかなりの高額であったが、平沼は言い値で即決し、驚いた佐久間は今更自分の発言を取り消せず、イスズを売り渡したという<ref name="名馬名勝負_8-9">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=8-9 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>。そして、第二メルボルンというのも、平沼が以前所有したメルボルンにあやかった名とされている<ref name="名馬名勝負_9">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=9 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>。 |
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なお、[[第二メルボルン#朝比奈1909|朝比奈(1909)]]では、相手を平沼延治郎(延次郎)として同様のエピソードが語られており、その後、佐久間は後悔してイスズを取り戻すために詫びを入れたが、平沼は頑として首を縦に振らず、結局、佐久間が二千円だけ分乗して共同所有にしたという<ref name="失敗談上_252">{{Cite book|和書 |title=財界名士失敗談 |year=1909 |publisher=毎夕新聞社 |page=252 |editor=朝比奈知泉(碌堂) |chapter=佐久間福太郎氏 |volume=上巻}}</ref>。 |
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=== 帝室御賞典、横浜ダービーに勝利=== |
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[[File:MelbourneⅡ and jockey Gimba.jpg|サムネイル|300px|『競馬世界』第1号掲載写真 |
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{{Fontsize|smaller|同誌に「名馬メルボーン二世と帝室賞典」と題して掲載された写真のうち1枚。右下は神馬惣策騎手<ref name="競馬世界01_口絵">『競馬世界』第1号、競馬世界社、1907年、口絵。{{doi|10.11501/1537786}}。</ref>。}}]] |
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改名後、第二メルボルンは根岸の春季競馬に出走する。初日(5月3日)の競走ではゴールドスターの2着に敗れ、初の敗戦を喫した{{Refnest|1907年12月発行の『競馬世界』第2号で、シー、エフ、ティー(又はG,E,T,)氏は「〔前略〕此春の根岸で、初日と四日目に敗け、秋季の川崎二日目に敗けたのと、負星と云つたら、是丈しか無いんぢやないか」と語っている<ref name="競馬世界2_37" />。|group=注}}<ref name="競馬世界2_37" /><ref name="牧畜雑誌259_章3">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |chapter=昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬 |author=XYZ |volume=第259号 |doi=10.11501/11209857 |page=章3}}</ref>が、翌日に行われた帝室御賞典(9頭立て)では、カウンテスらを退けて御賞典拝受の栄誉を受けた<ref name="牧畜雑誌259_章7">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |chapter=昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬 |author=XYZ |volume=第259号 |doi=10.11501/11209857 |page=章7}}</ref>。 |
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10月26日に根岸で行われた横浜ダービーでは、出馬投票の段階で他馬がことごとく棄権したため、前年の池上と同様、第二メルボルンただ一頭が出走した<ref name="競馬世界1_36">{{Cite book|和書 |title=競馬世界 |year=1907 |publisher=競馬世界社 |page=36 |issue=第1号 |chapter=秋季根岸競馬會 |doi=10.11501/1537786}}</ref>。『競馬世界』第1号では、第二メルボルンの単走を、次のように伝えている<ref name="競馬世界1_36" />。 |
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{{Bquote|騎手神馬悠然として腰を卸し、先あ文句は抜にして、此馬の駆振を見て下せえ、と言はん斗り、得意の色満面に溢れて、馬場を一順する、観客は只もう拍手する飛んでもない御景物だ。|4=『競馬世界』第1号、36頁}} |
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一方で、単走は競馬を見に来た入場者を大いに失望させたとの報道もあった。東京日日新聞は翌日付の紙面で、「第三競馬{{Refnest|複数の雑誌記事で、横浜ダービーの開催は二日目の第二競馬となっている<ref name="競馬世界1_36" /><ref name="牧畜雑誌264_章4" />。|group=注}}は名馬メルボルン一頭のみ出場して競馬を見ること能はざりしは入場者をして大いに失望せしめたり」と報じている<ref name="文明開化うま物語_168" />。 |
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=== 1907年末以後 === |
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11月24日、京浜の[[川崎競馬場]]で行われたハンデキャップ戦に出走<ref name="牧畜雑誌266_付録4">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |page=付録4 |issue=第266号 |doi=10.11501/11209864 |chapter = 京濱競馬俱樂部秋季競馬景况 }}</ref>。スタートの後、第二メルボルンは左右の馬に包囲され、二度躓いて倒れそうになるなど苦戦を強いられた<ref name="商工世界太平洋7-5_74">{{Cite book|和書 |title=商工世界太平洋 |year=1908 |publisher=博文館 |page=74 |issue=第7巻第5号 |chapter= 競馬の騎手語つて曰く}}</ref>。決勝点間近になって、神馬は先頭のペネロピーを追うため一鞭入れたが、遂に同馬を交わせず二着に敗れた<ref name="商工世界太平洋7-5_74" />。競走前の人気は第二メルボルンに集中しており、ペネロピーの勝利は「大々番狂せ」といわれた<ref name="牧畜雑誌266_付録4" />。神馬にとって、この敗戦は「非常な失敗」であり、『商工世界太平洋』第7巻第5号で悔しさを口にしている<ref name="商工世界太平洋7-5_74" />。 |
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{{Bquote|ペ子ロピーに勝を占められた時の口惜しさは中々{{Refnest|原文は縦書きで〻(二の字点)を使用。|group=注}}お話しにはなりません宿に帰つてからも茫然として何事も手に附かない臥床に這入つても眠る事が出来ません|||署名なし〔神馬惣策〕|『商工世界太平洋』第7巻第5号、74頁 }} |
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ペネロピーに敗れた後、一時その動静が途絶えるも、1908年2月発行の『競馬世界』第4号で「気力旺盛」との消息が伝えられた<ref name="競馬世界4_36">{{Cite book|和書 |title=競馬世界 |year=1908 |publisher=競馬世界社 |page=40 |issue=第4号 |chapter=良馬の消息 |doi=10.11501/1537789}}</ref>。そして、同年5月、そのペネロピーとのマッチレース{{Refnest|二頭立て競走の意<ref name="馬匹世界7_62" />。|group=注}}となった横浜ダービーでは、決勝直前で同馬を抜き去って優勝を飾っている<ref name="馬匹世界7_62">{{Cite book|和書 |title=馬匹世界 |year=1908 |publisher=帝国馬匹研究会 |page=62 |issue=第7号 |chapter=日本レース倶樂部春期競馬 |doi=10.11501/1552770}}</ref>。この頃から、第二メルボルンは、レデーヴオーユーやペガサスに敗れるなど負けが込むようになった<ref name="名馬名勝負_9">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=9 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>。 |
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1910年の横浜、東京には登録すらなかったが、1911年秋、東京のブック(登録馬名簿)上で久々に第二メルボルンの名が登場する<ref name="名馬名勝負_10">{{Cite book|和書 |title=日本の名馬・名勝負物語 |year=1980 |publisher=中央競馬ピーアール・センター |page=10 |chapter=明治の名馬 |author=早坂まさお}}</ref>。その際には馬主が木村政次郎に変わっていた<ref name="名馬名勝負_10" />。同年11月に発行された『日本之産馬』第1巻第8号では、老齢ながら、英気が旺盛であると紹介されている<ref name="日本之産馬1-8_76">{{Cite book|和書 |title=日本之産馬 |year=1911 |publisher=産馬同好會 |page=76 |issue=第1巻第8号 |doi=10.11501/11209069 |chapter=東京競馬の前景氣 }}</ref>。[[第二メルボルン#田島2009|田島(2009)]]掲載の成績表によれば、同年は11月4日の各抽籤豪州産馬にのみ出走しており、結果はグレンライトの着外であった<ref name="歩み_61-62">{{Cite book|和書 |title=日本競馬の歩み 資料編 |year=2009 |publisher=サラブレッド血統センター |pages=61-62 |chapter=各年代の名馬 |author=田島芳郎 }}</ref>。 |
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=== 引退後 === |
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引退後、北海道荻伏の大塚助吉牧場で繁殖牝馬として繋養され、1918年に死去した<ref name="名馬名勝負_11" />。繋養の間、1918年秋の優勝内国産馬連合競走(目黒)の優勝馬であるプリンセスブレイアモーア<ref name="馬事2016_56" />や、[[イボア]]との仔であるオーミギシ(第四メルボルン二世){{Refnest|[[第二メルボルン#早坂1975|早坂(1975)]]では“オーニギシ”となっている<ref name="名馬名勝負_11" />。|group=注}}<ref name="名馬名勝負_11" /><ref name="血統登録書04_141" />などの産駒を送り出した。 |
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== 馬主 == |
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[[File:Sakuma_Fukutaro.jpg|サムネイル|210px|コットン氏こと佐久間福太郎 |
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{{Fontsize|smaller|[[福澤桃介]]と共に[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]初代専務を務めた<ref>{{Cite book|和書 |title=日清紡績六十年史 |year=1969 |publisher=経済往来社 |page=61}}</ref>。1911年没<ref>{{Cite book|和書 |title=日清紡績六十年史 |year=1969 |publisher=経済往来社 |page=117}}</ref>。}}]] |
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第二メルボルンの馬主は、イスズ時代のコットン氏<ref name="名馬名勝負_8" />から始まり、アレキサンダー氏<ref name="名馬名勝負_8" />、スナイプ氏<ref name="名馬名勝負_9" />、そして木村政次郎<ref name="名馬名勝負_10" />と数度の変遷がある。コットン氏は佐久間福太郎の仮定名称<ref name="名馬名勝負_8" />で、スナイプ氏は平沼八太郎の仮定名称とされているが、前述のとおり佐久間と平沼の間には宴席での逸話が残されていることから、早坂は、「アレキサンダー氏とスナイプ氏は同一人物だった(または一時的に名義を借りた)」のかと疑問を述べている<ref name="文明開化うま物語_167">{{Cite book|和書 |title=文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人 |year=1989 |publisher=有隣堂 |author=早坂昇治 |page=167 }}</ref>。 |
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アレキサンダー氏は帝室御賞典優勝時の馬主である<ref name="日本競馬史4_403">{{Cite book|和書 |title=日本競馬史 |year=1969 |publisher=日本中央競馬会 |page=403 |chapter=帝室御賞典競走勝馬表 |volume=第4巻}}</ref>が、その正体について、[[第二メルボルン#早坂1989|早坂(1989)]]は不明<ref name="文明開化うま物語_167" />とし、[[第二メルボルン#馬事文化財団2016|馬事文化財団(2016)]]は平沼八太郎と延治郎の共有名としている<ref name="馬事2016_114">{{Cite book|和書 |title=ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念 |year=2016 |publisher=馬事文化財団 |page=114 |chapter=資料解説}}</ref>。なお、両者のうち、延治郎は競走前に急死している{{Refnest|投機に失敗した後、耶馬渓に身を投げた。1907年4月5日死去<ref>{{Cite book|和書 |title=財界物故傑物伝 |volume=下巻 |year=1936 |publisher=実業之世界社 |page=291 |chapter=平沼専蔵 }}</ref><ref name="明治過去帳_1026">{{Cite book|和書 |title=明治過去帳:物故人名辞典 |year=1971 |publisher=東京美術 |page=1026 |editor=大植四郎 |chapter=平沼延治郎 |doi=10.11501/12188819}}</ref>。|group=注}}<ref name="馬事2016_114" />。宮内庁式部職所蔵の資料では、御賞典は八太郎に下賜されたとする<ref name="宮内庁_138">{{Cite web |url=https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho/Viewer/4000102650000/e9b45f3d9dbe4343931c977ec108a237 |title=日本競馬会録 自明治三十五年至明治四十一年 |access-date=2024-10-19 |publisher=宮内庁 宮内公文書館 |website=書陵部所蔵資料目録・画像公開システム |page=138/296}}</ref>。 |
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その他、第二メルボルンの所有者に関しては、1907年10月発行の『写真画報』第2巻第12編で、ビー、アイ氏が「耶馬渓で死んだ平沼延治郎氏の持馬だつたが、今は日比谷平右衛門氏が持つて居る」と述べている<ref name="写真画報2-12_68">{{Cite book|和書 |title=写真画報 |year=1907 |publisher=博文館 |page=68 |chapter=競馬面白記 |author=ビー、アイ氏 |volume=第2巻第12編 }}</ref>。{{Clear}} |
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== 成績 == |
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生涯成績は46戦30勝<ref name="馬事2016_56">{{Cite book|和書 |title=ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念 |year=2016 |publisher=馬事文化財団 |page=56 |chapter=第二章 根岸競馬で活躍した人馬の紹介}}</ref><ref name="文明開化うま物語_168">{{Cite book|和書 |title=文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人 |year=1989 |publisher=有隣堂 |author=早坂昇治 |page=168 }}</ref>。1着のうち10回はレコードでの勝利であった<ref name="文明開化うま物語_168" />。早坂(1975)では35戦29勝<ref name="名馬名勝負_11" />、かつ、デビューから1907年までの成績に漏れがなければ、[[中央競馬]]の[[シュンエイ|シユンエイ]](20連勝)を凌ぐ22連勝を記録していたとするが<ref name="名馬名勝負_10" />、同著(1989)では前者の成績とし、2着9回、3着3回、着外4回で、1907年中には14連勝したとする<ref name="文明開化うま物語_168" />。なお、22連勝については、1907年5月の根岸初日でゴールドスターの2着<ref name="牧畜雑誌259_章3" />、同じく4日目の優勝戦でチハヤの3着に敗れている<ref name="牧畜雑誌259_章11">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |chapter=昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬 |author=XYZ |volume=第259号 |doi=10.11501/11209857 |page=章11}}</ref>ため、正しい記録ではない。馬事文化財団によると、16敗の中には八百長と思わしきものもあるという<ref name="馬事2016_56" />。 |
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=== 主な勝鞍 === |
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{| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap" |
|||
! 競走名 |
|||
! 競走日 |
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! [[競馬場]] |
|||
! [[距離 (競馬)|距離]] |
|||
! 頭数 |
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! [[騎手]] |
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! [[負担重量|斤量]] |
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!タイム |
|||
!着差 |
|||
! 2着馬 |
|||
! 出典 |
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|- |
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| 帝室御賞典 |
|||
| 1907.{{0}}5.{{0}}4 |
|||
| 根岸 |
|||
| 1マイル |
|||
| 9 |
|||
| 神馬惣策 |
|||
| 137斤 |
|||
|1:48.{{分数|57|100}} |
|||
|2{{分数|1|2}}馬身 |
|||
| カウンテス |
|||
|<ref name="牧畜雑誌259_章7" /><ref name="歩み_61-62" /> |
|||
|- |
|||
|横浜ダービー |
|||
|1907.10.26 |
|||
|根岸 |
|||
|1マイル{{分数|1|2}} |
|||
|1 |
|||
|神馬惣策 |
|||
|146斤 |
|||
|2:57.{{分数|75|100}} |
|||
| - |
|||
|(単走) |
|||
|<ref name="競馬世界1_36" /><ref name="牧畜雑誌264_章4">{{Cite book|和書 |title=牧畜雑誌 |year=1907 |publisher=牧畜雑誌社 |page=章4 |chapter=横濱根岸の秋季競馬 |issue=第264号 |doi=10.11501/11209862}}</ref> |
|||
|- |
|||
|横浜ダービー |
|||
|1908.{{0}}5.{{0}}9 |
|||
|根岸 |
|||
|1マイル{{分数|1|2}} |
|||
|2 |
|||
|神馬惣策 |
|||
|152斤 |
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|2:47.{{分数|77|100}} |
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== 評価 == |
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1908年からの馬券禁止時代{{Refnest|1908年10月に馬券の販売が禁止されてから、競馬法が制定される1923年までの時代を指す<ref>{{Cite book|和書 |title=輝く日本 |year=1936 |publisher=大阪毎日新聞社 |page=532 |chapter=競馬 |doi=10.11501/1461749 }}</ref>。|group=注}}は第二メルボルンの評価にも影響を与えた。早坂は同馬について「〔前略〕馬券禁止時代と共に人々から忘れ去られた明治の名馬といえよう」と記している<ref name="名馬名勝負_11" />。また、初代馬主の佐久間は馬券廃止後の第二メルボルンの価値について、次のように述べている<ref name="失敗談上_252" />。 |
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== 注釈・出典 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Anchors|朝比奈1909}}朝比奈知泉(碌堂)編『財界名士失敗談』上巻、毎夕新聞社、1909年、{{Doi|10.11501/777919}} |
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* 『馬匹血統登録書』第4巻、帝国競馬協会、1929年、{{Doi|10.11501/1050741}} |
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* 堀田至広『競馬及競馬法史』帝国競馬協会、1936年、{{Doi|10.11501/1228629}} |
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*『財界物故傑物伝』下巻、実業之世界社、1936年、{{Doi|10.11501/1228946}} |
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*『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』第3巻、東京競馬倶楽部、1939年、{{Doi|10.11501/1217056}} |
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*『日本競馬史』第4巻、日本中央競馬会、1969年、{{Doi|10.11501/2526140}} |
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* 日清紡績株式会社編『日清紡績六十年史』経済往来社、1969年、{{Doi|10.11501/11952919}} |
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* {{Anchors|早坂1975}}早坂まさお「明治の名馬」(中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』〈1980年、{{Doi|10.11501/12441232}}〉所収。初出は『優駿』1975年11月号) |
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* {{Anchors|早坂1989}}早坂昇治{{Refnest|早坂まさおと同一人物(馬事文化財団・馬の博物館(1997)39頁)。|group=著者}}『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、{{全国書誌番号|89019245}} |
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{{Reflist|group="著者"}} |
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* 日高嘉継、横田洋一『浮世絵明治の競馬』小学館、1998年、{{全国書誌番号|99036850}} |
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* {{Anchors|田島2009}}田島芳郎『日本競馬の歩み 資料編』サラブレッド血統センター、2009年、{{全国書誌番号|21615568}} |
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* {{Anchors|馬事文化財団2016}}『ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念』馬事文化財団、2016年、{{全国書誌番号|22765892}} |
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=== 雑誌 === |
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* 『競馬世界』競馬世界社、第1号(1907年)、第2号(同)、第4号(1908年) |
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* 『写真画報』博文館、第2巻第12編(1907年) |
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* 『牧畜雑誌』牧畜雑誌社、第254号(1907年、以下同)、第259号、第260号、第262号、第264号、第266号 |
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* 『商工世界太平洋』博文館、第7巻第5号(1908年) |
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* 『馬匹世界{{Refnest|競馬世界から改題。号数も引き継がれている(『馬匹世界』第6号、2頁)。|group=雑誌}}』帝国馬匹研究会、第7号(1908年) |
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{{Reflist|group="雑誌"}} |
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* 『日本之産馬』産馬同好會、第1巻第8号(1911年) |
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* 『馬の博物館研究紀要』馬事文化財団・馬の博物館、第10号(1997年)、{{Doi|10.11501/4425112}} |
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* {{Anchors|関口2014}}『馬の科学』競走馬総合研究所、Vol.51 No.3(2014年) |
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2024年11月23日 (土) 11:00時点における版
第二メルボルン (前名:イスズ) | |
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『牧畜雑誌』第262号口絵 | |
品種 | サラブレッド系種(濠洋)[1][2] |
性別 | 牝[1] |
毛色 | 鹿毛[1] |
生誕 | 1902年[2] |
死没 | 1918年[1] |
父 | 不明[1] |
母 | 不明[1] |
生国 | オーストラリア[1] |
馬主 | |
競走成績 | |
生涯成績 | 46戦30勝[6][7] |
勝ち鞍 |
第二メルボルン(だいにメルボルン、1902年[注 1][2] - 1918年[1])は日本の競走馬、繁殖牝馬。デビュー当初の競走馬名はイスズ(イスヾ[注 2])で、馬主が変わった際に第二メルボルンに改名された。血統は不詳[1]、馬名はメルボルン二世とも[注 3][2]。
主な勝鞍に1907年春の帝室御賞典(根岸)、同年秋及び1908年春の横浜ダービー[8]。ミラと共に、明治時代に活躍した代表的な豪州産馬であった[3]。
引退後は北海道で繁殖牝馬として繋養され、1918年秋の優勝内国産馬連合競走(目黒)優勝馬であるプリンセスブレイアモーアらを出した。
生涯
1902年[2]、オーストラリアで産まれ[1]、1906年秋に日本レース・クラブが同地で買い付けた牝馬40頭のうちの1頭として、日本に輸入された[14]。
同年秋、横浜の根岸競馬場でコットン氏(佐久間福太郎の仮定名称[注 4])の所有馬としてイスズの名でデビュー[3]。根岸を全勝とした後、東京の池上競馬場に転戦した[3]。池上では初日(11月24日)に実施された豪州新馬戦に出走するが、他の競走馬33頭が出馬の権利を放棄したため、イスズの単走となった[3][16]。イスズは鞍上に神馬騎手を乗せ、1マイルを2分16秒6で回走した[16][17]。4日目(12月2日)に行われた豪州優勝新馬戦でもキヌガサらを破り[18]、池上での競走を無敗で終えた[19]。
第二メルボルンに改名
1907年、馬主がアレキサンダー氏に変わり、イスズも第二メルボルンと改名された[3]。佐久間から馬主が変わった経緯には逸話があり、ある時の宴席で平沼八太郎からイスズを売ってほしいと持ちかけられた佐久間は、冗談で「一万円なら売ってもいい」と平沼に伝えた。当時の豪州産馬の値段を考えればかなりの高額であったが、平沼は言い値で即決し、驚いた佐久間は今更自分の発言を取り消せず、イスズを売り渡したという[20]。そして、第二メルボルンというのも、平沼が以前所有したメルボルンにあやかった名とされている[4]。
なお、朝比奈(1909)では、相手を平沼延治郎(延次郎)として同様のエピソードが語られており、その後、佐久間は後悔してイスズを取り戻すために詫びを入れたが、平沼は頑として首を縦に振らず、結局、佐久間が二千円だけ分乗して共同所有にしたという[21]。
帝室御賞典、横浜ダービーに勝利
改名後、第二メルボルンは根岸の春季競馬に出走する。初日(5月3日)の競走ではゴールドスターの2着に敗れ、初の敗戦を喫した[注 5][19][23]が、翌日に行われた帝室御賞典(9頭立て)では、カウンテスらを退けて御賞典拝受の栄誉を受けた[24]。
10月26日に根岸で行われた横浜ダービーでは、出馬投票の段階で他馬がことごとく棄権したため、前年の池上と同様、第二メルボルンただ一頭が出走した[13]。『競馬世界』第1号では、第二メルボルンの単走を、次のように伝えている[13]。
騎手神馬悠然として腰を卸し、先あ文句は抜にして、此馬の駆振を見て下せえ、と言はん斗り、得意の色満面に溢れて、馬場を一順する、観客は只もう拍手する飛んでもない御景物だ。
—『競馬世界』第1号、36頁
一方で、単走は競馬を見に来た入場者を大いに失望させたとの報道もあった。東京日日新聞は翌日付の紙面で、「第三競馬[注 6]は名馬メルボルン一頭のみ出場して競馬を見ること能はざりしは入場者をして大いに失望せしめたり」と報じている[7]。
1907年末以後
11月24日、京浜の川崎競馬場で行われたハンデキャップ戦に出走[26]。スタートの後、第二メルボルンは左右の馬に包囲され、二度躓いて倒れそうになるなど苦戦を強いられた[27]。決勝点間近になって、神馬は先頭のペネロピーを追うため一鞭入れたが、遂に同馬を交わせず二着に敗れた[27]。競走前の人気は第二メルボルンに集中しており、ペネロピーの勝利は「大々番狂せ」といわれた[26]。神馬にとって、この敗戦は「非常な失敗」であり、『商工世界太平洋』第7巻第5号で悔しさを口にしている[27]。
ペ子ロピーに勝を占められた時の口惜しさは中々[注 7]お話しにはなりません宿に帰つてからも茫然として何事も手に附かない臥床に這入つても眠る事が出来ません
—署名なし〔神馬惣策〕,『商工世界太平洋』第7巻第5号、74頁
ペネロピーに敗れた後、一時その動静が途絶えるも、1908年2月発行の『競馬世界』第4号で「気力旺盛」との消息が伝えられた[28]。そして、同年5月、そのペネロピーとのマッチレース[注 8]となった横浜ダービーでは、決勝直前で同馬を抜き去って優勝を飾っている[29]。この頃から、第二メルボルンは、レデーヴオーユーやペガサスに敗れるなど負けが込むようになった[4]。
1910年の横浜、東京には登録すらなかったが、1911年秋、東京のブック(登録馬名簿)上で久々に第二メルボルンの名が登場する[5]。その際には馬主が木村政次郎に変わっていた[5]。同年11月に発行された『日本之産馬』第1巻第8号では、老齢ながら、英気が旺盛であると紹介されている[30]。田島(2009)掲載の成績表によれば、同年は11月4日の各抽籤豪州産馬にのみ出走しており、結果はグレンライトの着外であった[31]。
引退後
引退後、北海道荻伏の大塚助吉牧場で繁殖牝馬として繋養され、1918年に死去した[1]。繋養の間、1918年秋の優勝内国産馬連合競走(目黒)の優勝馬であるプリンセスブレイアモーア[6]や、イボアとの仔であるオーミギシ(第四メルボルン二世)[注 9][1][2]などの産駒を送り出した。
馬主
第二メルボルンの馬主は、イスズ時代のコットン氏[3]から始まり、アレキサンダー氏[3]、スナイプ氏[4]、そして木村政次郎[5]と数度の変遷がある。コットン氏は佐久間福太郎の仮定名称[3]で、スナイプ氏は平沼八太郎の仮定名称とされているが、前述のとおり佐久間と平沼の間には宴席での逸話が残されていることから、早坂は、「アレキサンダー氏とスナイプ氏は同一人物だった(または一時的に名義を借りた)」のかと疑問を述べている[34]。
アレキサンダー氏は帝室御賞典優勝時の馬主である[35]が、その正体について、早坂(1989)は不明[34]とし、馬事文化財団(2016)は平沼八太郎と延治郎の共有名としている[36]。なお、両者のうち、延治郎は競走前に急死している[注 10][36]。宮内庁式部職所蔵の資料では、御賞典は八太郎に下賜されたとする[12]。
その他、第二メルボルンの所有者に関しては、1907年10月発行の『写真画報』第2巻第12編で、ビー、アイ氏が「耶馬渓で死んだ平沼延治郎氏の持馬だつたが、今は日比谷平右衛門氏が持つて居る」と述べている[39]。
成績
生涯成績は46戦30勝[6][7]。1着のうち10回はレコードでの勝利であった[7]。早坂(1975)では35戦29勝[1]、かつ、デビューから1907年までの成績に漏れがなければ、中央競馬のシユンエイ(20連勝)を凌ぐ22連勝を記録していたとするが[5]、同著(1989)では前者の成績とし、2着9回、3着3回、着外4回で、1907年中には14連勝したとする[7]。なお、22連勝については、1907年5月の根岸初日でゴールドスターの2着[23]、同じく4日目の優勝戦でチハヤの3着に敗れている[40]ため、正しい記録ではない。馬事文化財団によると、16敗の中には八百長と思わしきものもあるという[6]。
主な勝鞍
競走名 | 競走日 | 競馬場 | 距離 | 頭数 | 騎手 | 斤量 | タイム | 着差 | 2着馬 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
帝室御賞典 | 1907. | 5. 4根岸 | 1マイル | 9 | 神馬惣策 | 137斤 | 1:48.57⁄100 | 21⁄2馬身 | カウンテス | [24][31] |
横浜ダービー | 1907.10.26 | 根岸 | 1マイル1⁄2 | 1 | 神馬惣策 | 146斤 | 2:57.75⁄100 | - | (単走) | [13][25] |
横浜ダービー | 1908. | 5. 9根岸 | 1マイル1⁄2 | 2 | 神馬惣策 | 152斤 | 2:47.77⁄100 | 3馬身 | ペネロピー | [29][31] |
評価
1899年に輸入された[6]ミラと共に、明治時代に活躍した代表的な豪州産馬で[3]、当時の競馬で圧倒的な強さを誇った[41]。
1907年に発行された「馬鑑」という競走馬の見立番付では、東の正横綱に据えられ[注 11][41]、前述のビー、アイ氏も「目下の處日本競馬会に於て、濠洲産と内国産とを東西に分け、その両横綱はと云はゞ、濠洲産ではメルボルン二世、内国産ではハナゾノ[注 12]である事は、何人も否む事の出来ぬ處である」と評し、時価一万三千円は下らないとしている[39]。また、『牧畜雑誌』第262号では、ハナゾノと共に池上における優勝名馬として紹介されており、「原頭風に嘶けば疾風立ろに起りて鹿毛の一塊飛ぶが如き観を呈するもの当さに之れこの馬の謂ならんか」と評されている[43]。
1908年からの馬券禁止時代[注 13]は第二メルボルンの評価にも影響を与えた。早坂は同馬について「〔前略〕馬券禁止時代と共に人々から忘れ去られた明治の名馬といえよう」と記している[1]。また、初代馬主の佐久間は馬券廃止後の第二メルボルンの価値について、次のように述べている[21]。
〔前略〕所が其後各所の競馬にメルボルンが屡々 一着を占め、其結果五万円で是非譲れと云うものが沢山現はれた、然るに馬券廃止後の今日では売りたくても最早や三千円位にしか売れない、斯くて一代の駿骨を槽櫪 の間に老いしめて居る。 — 佐久間福太郎、『財界名士失敗談』上巻、252頁
注釈・出典
注釈
- ^ 田島(2009)は1901年[9] 、関口(2014)は1903年とする[10]。
- ^ 五十鈴と漢字表記されることもある[11]。
- ^ その他、第二メルボーン[12]、メルボーン二世[13]の表記もある。
- ^ 馬主が名乗った仮称のこと。初期の競馬では仮定名称の使用が一般的であったため、本名の確認が困難な場合も多い[15]。
- ^ 1907年12月発行の『競馬世界』第2号で、シー、エフ、ティー(又はG,E,T,)氏は「〔前略〕此春の根岸で、初日と四日目に敗け、秋季の川崎二日目に敗けたのと、負星と云つたら、是丈しか無いんぢやないか」と語っている[19]。
- ^ 複数の雑誌記事で、横浜ダービーの開催は二日目の第二競馬となっている[13][25]。
- ^ 原文は縦書きで〻(二の字点)を使用。
- ^ 二頭立て競走の意[29]。
- ^ 早坂(1975)では“オーニギシ”となっている[1]。
- ^ 投機に失敗した後、耶馬渓に身を投げた。1907年4月5日死去[37][38]。
- ^ 西の正横綱はヒタチ(帝室御賞典(根岸、1906年春)、横浜ダービー(1906年秋、1907年春)勝ち馬)であった[8][41]。
- ^ 帝室御賞典(池上、1907年春)勝ち馬[42]。
- ^ 1908年10月に馬券の販売が禁止されてから、競馬法が制定される1923年までの時代を指す[44]。
出典
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- ^ a b c d e f 「第四メルボルン二世(競馬名オーミギシ)」『馬匹血統登録書』 第4巻、帝国競馬協会、1929年、141頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、8頁。
- ^ a b c d 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、9頁。
- ^ a b c d e 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、10頁。
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- ^ 「横濱根岸の秋季大競馬(四日目)」『読売新聞』1906年11月11日付朝刊、3頁。
- ^ a b “日本競馬会録 自明治三十五年至明治四十一年”. 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁 宮内公文書館. p. 138/296. 2024年10月19日閲覧。
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- ^ 堀田至広『競馬及競馬法史』帝国競馬協会、1936年、51頁。
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- ^ a b c 日高嘉継「馬券発売黙許時代 全国へ波及した明治の競馬ブーム」『浮世絵明治の競馬』小学館、1998年、84頁。
- ^ TT生「東京春季競馬會記事」『牧畜雑誌』第260号、牧畜雑誌社、1907年、章9頁。doi:10.11501/11209858。
- ^ 「池上に於ける優勝名馬(口繪解說)」『牧畜雑誌』 第262号、牧畜雑誌社、1907年、65頁。doi:10.11501/11209860。
- ^ 「競馬」『輝く日本』大阪毎日新聞社、1936年、532頁。doi:10.11501/1461749。
参考文献
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- 『馬匹血統登録書』第4巻、帝国競馬協会、1929年、doi:10.11501/1050741
- 堀田至広『競馬及競馬法史』帝国競馬協会、1936年、doi:10.11501/1228629
- 『財界物故傑物伝』下巻、実業之世界社、1936年、doi:10.11501/1228946
- 『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』第3巻、東京競馬倶楽部、1939年、doi:10.11501/1217056
- 『日本競馬史』第4巻、日本中央競馬会、1969年、doi:10.11501/2526140
- 日清紡績株式会社編『日清紡績六十年史』経済往来社、1969年、doi:10.11501/11952919
- 早坂まさお「明治の名馬」(中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』〈1980年、doi:10.11501/12441232〉所収。初出は『優駿』1975年11月号)
- 早坂昇治[著者 1]『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、全国書誌番号:89019245
- ^ 早坂まさおと同一人物(馬事文化財団・馬の博物館(1997)39頁)。
- 日高嘉継、横田洋一『浮世絵明治の競馬』小学館、1998年、全国書誌番号:99036850
- 田島芳郎『日本競馬の歩み 資料編』サラブレッド血統センター、2009年、全国書誌番号:21615568
- 『ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念』馬事文化財団、2016年、全国書誌番号:22765892
雑誌
- 『競馬世界』競馬世界社、第1号(1907年)、第2号(同)、第4号(1908年)
- 『写真画報』博文館、第2巻第12編(1907年)
- 『牧畜雑誌』牧畜雑誌社、第254号(1907年、以下同)、第259号、第260号、第262号、第264号、第266号
- 『商工世界太平洋』博文館、第7巻第5号(1908年)
- 『馬匹世界[雑誌 1]』帝国馬匹研究会、第7号(1908年)
- ^ 競馬世界から改題。号数も引き継がれている(『馬匹世界』第6号、2頁)。
- 『日本之産馬』産馬同好會、第1巻第8号(1911年)
- 『馬の博物館研究紀要』馬事文化財団・馬の博物館、第10号(1997年)、doi:10.11501/4425112
- 『馬の科学』競走馬総合研究所、Vol.51 No.3(2014年)