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{{出典の明記|date=2009年8月14日 (金) 13:58 (UTC)|ソートキー=人1934年没}}
{{Expand English|Gustav Holst|fa=yes|date=2020年12月}}

{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
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|名前 = グスターヴ・ホルスト<br>Gustav Holst
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{{Portal クラシック音楽}}
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'''グスターヴ・ホルスト'''('''{{Lang|en|Gustav Holst}}''' {{IPA-en|ˌɡʊstɑːv/ˌɡʌstɑːv ˈhəʊlst|}}<ref>[https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/us/definition/english/gustav-holst Gustav Holst] Oxford Learner's Dictionaries</ref>/ {{Lang|en|Gustavus Theodore von Holst}}, [[1874年]][[9月21日]] - [[1934年]][[5月25日]])は、[[イギリス]]の[[作曲家]]。最も知られ作品は、[[オーケストラ|管弦楽]]のための組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』であるが全般的合唱のための曲を多く遺している。[[イングランド]]各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、また、[[吹奏楽曲]]などで知られてい
'''グスターヴ・シオドア・ホルスト'''({{Lang|en|Gustavus Theodore von Holst}}, {{IPA-en|ˌɡʊstɑːv/ˌɡʌstɑːv ˈθiəˌdɔː ˈhəʊlst|}}<ref>[https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/us/definition/english/gustav-holst Gustav Holst] Oxford Learner's Dictionaries</ref><ref>[[研究社]]『ライトハウス英和辞典』1984年、1472頁。</ref>/ , 1874年9月21日 - 1934年5月25日)は、[[イングランド]]の[[作曲家]]、編曲家、教育者。出生名は'''グスターヴァス・シオドア・フォン・ホルスト'''(Gustavus Theodore von Holst)。最も知られ作品は管弦楽組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』であも様々なジャンルに数多く曲を遺しているがいずれも『惑星』に並ぶ成功を収めてはいない多くの影響を受けて成立した彼の特徴的な作曲スタイルであるが、中でも成長期のはじめに決定的な影響を与えたのは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]と[[リヒャルト・シュトラウス]]の2人であった。続いて霊感の源となったのは20世紀初頭に起こったイングランドの民謡復興運動そして[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]らの台頭する同時代の作曲家たちであり、そらによってホルストは独自の様式を発展、洗練させていった

ホルストの一家は3代にわたってプロの音楽家を輩出しており、彼が同じ天職に就くであろうことは幼少期から明らかであった。音楽家であった父に幼いころから音楽を学び、10代のころからすでに作曲を試みていた{{r|ng}}。彼はピアニストになることを夢見ていたが、右腕の[[神経炎]]により叶わなかった。父は心配していたものの彼は作曲家として身を立てることを志し、[[王立音楽大学]]に入学して[[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード]]の下で学んだ。しかし作曲だけでは食べていくことが出来ず、プロとして[[トロンボーン]]を演奏し、後には教壇にも立った - 同僚の[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]によれば名教師であったらしい。教育活動としては、1907年から1924年まで音楽監督を務めた{{仮リンク|モーリー・カレッジ|en|Morley College}}で築き上げた強力な演奏の伝統、1905年から没する1934年まで教鞭を執った[[セント・ポール女学校]]で開拓した女性のための音楽教育が特筆される。彼が創始した{{仮リンク|ウィツァン|en|Whitsun}}音楽祭シリーズは、1916年から彼が没するまで続けられた。

ホルストの作品は20世紀の初頭にも頻繁に取り上げられていたが、[[第一次世界大戦]]直後に『惑星』が国際的な成功を収めてはじめてその名が広く知られるようになった。内気な人物であった彼はこの名声を快く思わず、穏やかに作曲と教職に打ち込めることを望んだ。晩年にはその妥協を許さない個性的な作曲スタイルが多くの音楽愛好家の目に禁欲的に過ぎると映るようになり、一時は高まった人気も衰えていった。にもかかわらず、彼は[[エドマンド・ラッブラ]]、[[マイケル・ティペット]]、[[ベンジャミン・ブリテン]]といった数多くの若い世代のイングランドの作曲家たちに多大な影響を与えた。『惑星』とその他ごく一部を除く彼の音楽は1980年代まで総じて無視に甘んじてきたが、以降は多くの作品の録音が入手可能となっている。

== 生涯 ==
=== 若年期 ===
==== 家族的背景 ====
[[File:Holst-family-tree.tif|thumb|upright=1.4|right|ホルストの家系図、簡易版]]
ホルストは[[グロスタシャー]]の[[チェルトナム]]に生まれた。父はプロの音楽家であったアドルフ・フォン・ホルスト{{refnest|group= "注"|『[[ブリタニカ百科事典]]』では父親を[[スウェーデン人]]とするが<ref>{{citation|url=https://www.britannica.com/biography/Gustav-Theodore-Holst|title=Gustav Holst|publisher=Encyclopedia Britannica}}</ref>、後述のように『[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]』第2版では曾祖父の代でイングランドに移住したとされる<ref name="ng">{{cite book|author=Colin Matthews|year=2001|chapter=Holst, Gustav(us Theodore von)|title=Grove Music Online|publisher=Oxford University Press|doi=10.1093/gmo/9781561592630.article.13252}}</ref>。}}、母はクララ・コックス(旧姓レディアード)で、2人が授かった2児のうち上の子どもであった。母はほぼイギリス系の出自で{{refn|クララの曾祖母のひとりはスペイン人であったが、アイルランド人の同僚と駆け落ちして共に暮らした。イモージェン・ホルストはこの一家のスキャンダルがあったことで、クララが音楽家と結婚することに対するレディアード家の反対意見が弱められた可能性もあるのではないかと推測している<ref>Holst (1969), p. 6</ref>。|group= "注"}}、[[サイレンセスター]]の尊敬される弁護士の娘だった<ref name=m3>Mitchell, p. 3</ref>。ホルスト家側では[[スウェーデン]]、[[ラトヴィア]]、[[ドイツ]]の血が混ざりあっており、過去3代にわたり最低ひとりプロの音楽家が輩出していた<ref name=m2>Mitchell, p. 2</ref>。

ホルストの曾祖父のひとりであったマティアス・ホルストは、ラトヴィアの[[リガ]]に生まれた[[バルト・ドイツ人|ドイツ系]]であった。彼は[[サンクトペテルブルク]]のロシア帝国の宮殿に作曲家、ハープ教師として勤めていた<ref name=grove/>。マティアスの息子のグスタフスはまだ子どもであった1802年に両親と共にイングランドに移り<ref name=short9>Short, p. 9</ref>、サロン様式の音楽の作曲家、そしてよく知られたハープの教師となった。彼は貴族であることを示す接頭辞である「von」を勝手に取って一家の名前に加えており、これによって名声が高まること、生徒にとり魅力が増すことを願った{{refn|イモージェン・ホルストは次のように記録している。「18世紀にあるはとこが外交の場においてドイツ皇帝から佳曲で称賛されるということがあり、不謹慎なマティアスは平然と『von』を拝借してピアノの生徒がもう少し増えないかと期待したのである<ref name=h196952/>。」|group= "注"}}。

ホルストの父親、アドルフ・フォン・ホルストはチェルトナムの{{仮リンク|オール・セインツ教会 (チェルトナム)|label=オール・セインツ教会|en|All Saints' Church, Cheltenham}}のオルガニスト、合唱指揮者となり<ref name="Short, p. 10">Short, p. 10</ref>、ピアノを教えた他に自らもリサイタルを開催した<ref name="Short, p. 10"/>。妻のクララはかつては彼の教え子であり、才能ある歌手でありピアニストであった。夫妻は2人の息子に恵まれた。グスターヴの弟のエミール・ゴットフリードは[[ウェスト・エンド・シアター|ウェスト・エンド]]、[[ニューヨーク]]、[[ハリウッド]]で俳優として成功を収め、[[アーネスト・コッサート]]という名前で知られた<ref>Short, p. 476; "The Theatres", ''The Times'', 16 May 1929, p. 1; [[ブルックス・アトキンソン|Atkinson, Brooks]]. [https://www.nytimes.com/1932/04/05/archives/over-the-coffee-cups-with-george-bernard-shaw-in-a-play-entitled-to.html "Over the Coffee Cups"], ''The New York Times'', 5 April 1932 {{subscription}} {{Cite web |url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20A12F73D5A13738DDDAC0894DC405B828FF1D3 |title=Archived copy |access-date=6 April 2013 |archive-date=19 February 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140219050530/http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20A12F73D5A13738DDDAC0894DC405B828FF1D3 |url-status=bot: unknown }}; and Jones, Idwal. [https://www.nytimes.com/1937/11/07/archives/buttling-a-way-to-fame.html "Buttling a Way to Fame"], ''The New York Times'', 7 November 1937 {{subscription}}</ref>。クララが1882年2月に他界し、一家はチェルトナム市内で別の家に移り住むと{{refn|アドルフは住まいをピットヴィル・テラス4(現在はクラレンス・ロードと呼ばれる)からヴィットリア・ウォーク1へと移した<ref name=dnb>{{cite web|author-link= ジョン・ウォラック|last= Warrack|first= John|title= Holst, Gustav Theodore|url= http://www.oxforddnb.com/view/article/33963?docPos=1|publisher= Oxford Dictionary of National Biography Online edition|date= January 2011|accessdate= 4 April 2013|archive-date= 20 June 2021|archive-url= https://web.archive.org/web/20210620115640/https://www.oxforddnb.com/view/10.1093/ref:odnb/9780198614128.001.0001/odnb-9780198614128-e-33963;jsessionid=888D81E17EB3EF4A9B587C296B19218D?docPos=1|url-status= live}}{{subscription}}</ref><ref>Short, p. 11</ref>。|group="注"}}、アドルフは子どもたちの育児の助けを得るべく姉妹のニーナを呼び寄せた。グスターヴは一家に対する彼女の献身を理解しており、初期の音楽作品を数点彼女へと捧げている<ref name=m3/>。1885年にアドルフはメアリー・ソーリー・ストーンと再婚、彼女も教え子のひとりであった。彼らはマサイアス(マックスとして知られた)、エヴリン(ソーリーとして知られた)という2男を儲けた<ref name=m34/>。メアリーは[[神智学]]に傾倒し、家庭内の物事にあまり関心を示さなかった。アドルフの4人の息子はいずれも、ある伝記作家が述べるところの「良性のネグレクト」に晒されることになり<ref name=m34>Mitchell, pp. 3–4.</ref>、とりわけグスターヴは「過剰な注目や理解に悩まされることはなく、視力の弱さも胸の弱さもいずれも無視されていた - 彼は『惨めで怯えていた』<ref>Dickinson (1957), p. 135</ref>。」

==== 幼年期、少年期 ====
ホルストはピアノとヴァイオリンの演奏を教わった。ピアノは楽しめたがヴァイオリンは嫌っていた<ref name=h19697>Holst (1969), p. 7</ref>。12歳になると父の勧めで[[トロンボーン]]を吹くようになった。これには金管楽器を演奏することで彼の[[気管支喘息|喘息]]が改善するのではないかという父の考えがあった<ref name=timesobit>{{cite news|title=Mr Gustav Holst|newspaper=The Times|date=26 May 1934|page=7}}</ref>。1886年から1891年にかけては{{仮リンク|ペイツ・グラマー・スクール|label=チェルトナム・グラマー・スクール|en|Pate's Grammar School}}に通った<ref>Holst (1981), p. 15</ref>。1886年頃には作曲を開始している。[[トーマス・マコーリー]]の詩『Horatius』に霊感を受けて野心的な管弦楽と合唱のための作品に着手するも、まもなく放棄している<ref name=h19697/>。彼の初期作品にはピアノ曲、オルガン・ヴォランタリー、歌曲、讃美歌、交響曲(1892年)がある。この時期に主に影響を受けていたのは[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]、そしてとりわけ[[アーサー・サリヴァン|サリヴァン]]であった<ref>Mitchell, p. 5 and Holst (1969) p. 23</ref>{{refn|レイフ・ヴォーン・ウィリアムズはホルストの性格を描写するにあたり[[ギルバート・アンド・サリヴァン]]の『[[軍艦ピナフォア]]』を引き合いに出している。「その名が示すように[他の国家に属するようにとの]あらゆる誘惑がありながらも、彼は『イングランド人であり続けた』<ref name=vwml>{{cite journal|last=Vaughan Williams|first=Ralph|title=Gustav Holst, I|journal=Music & Letters|date=July 1920|volume=1|issue=3|jstor=725903|pages=181–90|doi=10.1093/ml/1.3.181}} {{subscription}}</ref>。」|group= "注"}}。

息子にピアニストとしてのキャリアを歩ませたかったアドルフは、彼を作曲から遠ざけようと試みた。ホルストは神経過敏で哀れであった。視力が弱かったにもかかわらず、彼が眼鏡の着用を必要としていることに誰も気が付かなかった。彼の健康が彼の音楽的将来性を決めるのに決定的な役割を果たした。生まれつき病弱で、喘息と弱視に加えて神経炎に苦しみ、それによってピアノの演奏が困難となった<ref>Holst (1969), p. 9</ref>。彼は上手く動かない腕について「電気を過剰に流されたゼリーのよう」だと述べていた<ref>Holst (1969), p. 20</ref>。

1891年に学校を卒業したホルストへアドルフが資金を出し、[[マートン・カレッジ (オックスフォード大学)|マートン・カレッジ]]のオルガニストであったジョージ・フレデリック・シムスの下で[[対位法]]を学ぶべく4か月間[[オックスフォード大学|オックスフォード]]で過ごした<ref>Short, p. 16</ref>。これが終わるとすぐ、グロスターシャーの{{仮リンク|ウィック・リシントン|en|Wyck Rissington}}でオルガニスト兼合唱指揮者となった。これは彼が17歳にして就いた初めてのプロとしての職だった。この職には[[ボートン=オン=ザ=ウォーター]]合唱協会の指揮者の役割ももたらした。仕事が増えたことへの追加報酬は得られなかったものの貴重な経験となり、彼は[[指揮 (音楽)|指揮]]の技術を磨くことが出来た<ref name=h19697/>。1891年11月、ホルストはおそらく初となるピアニストとしての公開演奏を行った。彼と父がチェルトナムの演奏会で[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の『[[ハンガリー舞曲]]』を演奏したのである<ref name=m6>Mitchell, p. 6</ref>。このイベントのプログラムにはグスターヴァス(Gustavus)ではなくグスターヴ(Gustav)と名前が記されていた。彼は幼少期には既に短い名前で呼ばれていたのである<ref name=m6/>。

=== 王立音楽大学 ===
1892年、ホルストは[[ギルバート・アンド・サリヴァン]]の様式で[[オペレッタ]]『Lansdown Castle, or The Sorcerer of Tewkesbury』のための音楽を書いた<ref>Holst (1981), p. 17</ref>。楽曲は1893年にチェルトナム穀物取引所で演奏された。評判は上々で、この成功は彼に作曲を続けようという意欲をもたらした<ref>Short, pp. 17–18</ref>。そこで[[ロンドン]]に所在する[[王立音楽大学]]の奨学金への応募を行うことになったが、同年の作曲の奨学金を獲得したのは[[サミュエル・コールリッジ=テイラー]]であった<ref name=h19698>Holst (1969), p. 8</ref>。ホルストは助成を受けない学生として入学を許可され、アドルフは初年度の学費を賄うために100[[スターリング・ポンド|ポンド]]を借り入れた{{refn|イモージェン・ホルストによると、債権者として最も可能性が高いのは姉妹のニーナであるという<ref name=h19698/>。|group= "注"}}。ホルストは1893年5月にチェルトナムを後にロンドンへと向かい、一部には倹約のため、また一部には生来の性向により菜食主義者、禁酒家となった<ref name=h19698/>。2年後にようやく奨学金を認められて経済的困難は若干和らげられたものの、彼は自ら課した厳格な規律を守った<ref>Holst (1969), pp. 13 and 15</ref>。

[[image:Vaughan Williams by Rothenstein.jpg|left|thumb|170px|ホルストと生涯にわたる親交を結んだ[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]。]]
王立音楽大学でのホルストの教授陣はピアノのフレデリック・シャープ、オルガンのウィリアム・スティーヴンソン・ホイト、トロンボーンのジョージ・ケース{{refn|group="注"|ケースは1898年5月に[[ウィリアム・グラッドストン]]の葬儀において[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[4本のトロンボーンのための3つのエクアーレ]]』([[WoO]]30)が演奏されるにあたり、助力を行った人物である<ref>{{cite journal |last=Mansfield |first=Orlando A. |title=Some Anomalies in Orchestral Accompaniments to Church Music |journal=The Musical Quarterly |volume=2 |issue=2 |date=April 1916 |publisher=Oxford University Press |jstor=737953 |doi=10.1093/mq/II.2.199 |url=https://academic.oup.com/mq/search-results?page=1&q=Some%20Anomalies%20in%20Orchestral%20Accompaniments%20to%20Church%20Music%20%7Cjournal&fl_SiteID=5223&SearchSourceType=1&allJournals=1 |url-access=subscription |access-date=3 April 2021 |archive-date=20 June 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210620115638/https://academic.oup.com/mq/search-results?page=1&q=Some+Anomalies+in+Orchestral+Accompaniments+to+Church+Music+%7Cjournal&fl_SiteID=5223&SearchSourceType=1&allJournals=1 |url-status=live }}</ref>。}} 、楽器法の[[ジョルジュ・ジャコビ]]、そして大学の学長であった歴史の[[ヒューバート・パリー]]である。[[ウィリアム・ロックストロ]]と[[フレデリック・ブリッジ]]から導入の講義を受けた後、ホルストは念願かなって[[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード]]から作曲を学ぶことが認められた<ref>Mitchell, p. 9</ref><ref name="hf">{{citation|url=http://www.holstfoundation.org/Gustav.php|title=Gustav Holst|publisher=The Holst Foundation}}</ref>。

学業に勤しむ傍ら、ホルストは生活の足しにするために夏季には海辺の行楽地で、冬季にはロンドンの劇場でトロンボーンを演奏して収入を得ていた<ref name=h198119>Holst (1981), p. 19</ref>。彼の娘で伝記作家の[[イモージェン・ホルスト]]が記録するところでは、演奏者としての収入により「彼は生活に必須な出費を賄うことが出来た。食事つきの下宿代、原稿用紙、ワーグナーの夕べにおける[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン・オペラ・ハウス]]のギャラリー立見席のチケット代である<ref name=h198119/>」。交響楽演奏会での時おりの雇用も確保しており、1897年には[[クイーンズ・ホール]]において[[リヒャルト・シュトラウス]]の指揮で演奏している<ref name=grove>{{cite web|last=Matthews|first=Colin|title=Holst, Gustav|url=http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/13252|publisher=Grove Music Online|accessdate=22 March 2013|author-link=コリン・マシューズ|archive-date=31 May 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200531051939/https://www.oxfordmusiconline.com/grovemusic/view/10.1093/gmo/9781561592630.001.0001/omo-9781561592630-e-0000013252|url-status=live}}{{subscription}}</ref>。

同時代の多くの音楽家同様、ホルストも[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の呪縛に囚われた。1892年にコヴェント・ガーデンで『[[神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏]]』を聴いた際にはその音楽にひるんでいたが、友人で同窓生の[[フリッツ・ハート]]に背中を押されて持ちこたえた彼は、瞬く間に熱心なワーグナー信者となっていた<ref>Holst (1969), p. 11</ref>。彼の音楽に与える影響の主たる部分でワーグナーはサリヴァンに取って代わり<ref>Holst (1969), pp. 23, 41; and Short, p. 41</ref>、一時期はイモージェンの述べるところの「同化に失敗した『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタン]]』の断片が、彼自身の歌曲や序曲のほとんどあらゆるページに挿入された」ような状態となった<ref name=h198119/>。1905年に初演された『神秘的なトランペット吹き』にはその強い影響が見出される<ref name="bio3">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=3|title=A Biography of Gustav Holst 2.A Gifted Teacher|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。スタンフォードはワーグナー作品の一部を賞賛し若い頃には影響を受けていたが<ref>Rodmell, p. 49</ref>、ホルストによる半ワグネリアンの作品には強く反対した。「それじゃ上手くいかないよ、君。それじゃ上手くいかない<ref name=h198119/>。」スタンフォードを尊敬していたホルストは、同窓生の[[ハーバート・ハウエルズ]]に恩師のことを「我々を技術的混乱から抜け出させることのできるただひとりの人物」と評していたが<ref>{{cite journal|last=Howells|first=Herbert|title=Charles Villiers Stanford (1852–1924). An Address at His Centenary| jstor= 766209|work=Proceedings of the Royal Musical Association, 79th Sess. (1952–1953)|pages=19–31}} {{subscription}}</ref>、自分の成長により大きな影響を与えたのは教授陣ではなく、仲間の学生たちであったと悟ることになる<ref name=h198119/>。

1895年、21歳の誕生日を祝ったばかりのホルストは[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ]]と出会う。故郷を同じくグロスターシャーとすることもありホルストの生涯の友人となった彼は、他の誰よりもホルストの音楽に強い影響を与えることになる<ref>Mitchell, p. 15</ref>。スタンフォードは自身の教え子たちに自己批判的であることの重要性を説いたが、ホルストとヴォーン・ウィリアムズは互いが相手の主評論家となった。2人は互いに自らの最新作を、まだ作曲中の段階で演奏して相手に聴かせていたのである。ヴォーン・ウィリアムズは後年、次のように述べている。「アカデミーや大学における真の学びといえば、公式な教員から学ぶことよりもむしろ同窓生から学ぶことにある。(中略)太陽の下で、[[コントラファゴット]]の最低音から『[[日陰者ジュード]]』の哲学に至るまで、あらゆる題材[を我々は議論した]<ref>Moore, p. 26</ref>。」1949年には2人の関係性について書き残している。「ホルストは自らの音楽が友人のそれに影響を受けているとはっきり述べた。逆もまた真なり、である<ref name=archive>{{cite web|last=Vaughan Williams|first=Ralph|title=Holst, Gustav Theodore (1874–1934)|url=http://www.oxforddnb.com/view/olddnb/33963|publisher=Oxford Dictionary of National Biography Online edition|accessdate=22 March 2013|archive-date=24 September 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20150924162936/http://www.oxforddnb.com/view/olddnb/33963|url-status=live}} {{ODNBsub}}</ref>。」

1895年は[[ヘンリー・パーセル]]の没後200周年でもあり、[[ライシアム劇場 (ロンドン)|ライシアム劇場]]でスタンフォードが『[[ディドとエネアス]]』を指揮するなど、数々の公演が行われた<ref>{{cite book|last=de Val|first=Dorothy|title=In Search of Song: The Life and Times of Lucy Broadwood|publisher=Ashgate Publishing|series=Music in Nineteenth-Century Britain|date=2013|page=66|url=https://books.google.com/books?id=scuhAgAAQBAJ&pg=PA66|access-date=18 May 2016}}</ref>。この作品はホルストに深い感銘をもたらし<ref name=grove/>、20年以上が経過した後にある友人に対し、自らの「イングランドの言語の音楽的イディオム」探索は「パーセルの『ディド』で[[レチタティーヴォ|朗誦]]を聴いた」ことによって「無意識に」感化されているのだと告白している<ref name=GHolstWhit23>Holst, Gustav (1974), p. 23</ref>。同年にホルストは王立音楽院の学位を取得している{{r|ng}}。

他に影響を受けたのが[[ウィリアム・モリス]]である<ref name=h196916>Holst (1969), p. 16</ref>。ヴォーン・ウィリアムズの言に依るとこうである。「ホルストは今や同郷人らとの一体感を見出し、それによって後に彼は優れた教師となった。政治的信念よりもむしろ同志であるという感覚により、[[ハマースミス]]のケルムスコット・ハウスに集った社会主義同盟に、まだ学生でありながら加盟することになった<ref name=archive/>。」モリスの住居であった[[ケルムスコット・ハウス]]で、ホルストはモリスや[[ジョージ・バーナード・ショー]]が開催する講義に出席していた。ホルスト自身の社会主義思想は穏健なものであったが、気の置けない仲間の存在とモリスを人として敬愛していたことで集まりを楽しんでいた<ref>Holst (1969), p. 17</ref>。彼の理想はモリスの思想に影響されていたが、重点は異なる部分に置かれていた。モリスは次のように記している。「私が少数の者への芸術を求めないのは、少数の者への教育、または少数の者への自由を求めないのと同じである。私は全ての人が両親がたまたま持っていた金銭の多寡に依るのではなく、各人の能力に従って教育を受けることを願っている<ref>Holst (1981), p. 21</ref>。」一方、ホルストはこう述べていた。「『芸術における特権階級』 - 芸術は全体ではなく選ばれた一部の者のみのもの - しかし、その選ばれた一部を見出す方法は全員に芸術を届けること - そして芸術家たちは民衆の中にいて互いを認識できる、ある種のフリーメイソン的な信号を有している{{refn|ヴォーン・ウィリアムズは1937年9月19日にイモージェン・ホルストへ宛てた手紙の中でこのことを書いた上で、いつものように「レイフおじさん」と署名を行っている。同じ書簡の中で、彼は「芸術家というものは毎度生まれ変わり、一から新作に取り組むのだ」というホルストの見解を記している<ref>Vaughan Williams, p. 252</ref>。|group= "注"}}。」彼は1896年にハマースミス社会主義者合唱団に指揮者として招かれ、団員に[[トマス・モーリー]]の[[マドリガーレ|マドリガル]]、パーセルの合唱曲、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、ワーグナー、そして自身の作品を指導した<ref name=ih198123/>。合唱団の中に彼より2年年少で美しい[[ソプラノ]]の(エミリー・)イゾベル・ハリソン(1876年-1969年)がいた。ホルストは彼女へ恋に落ちるが、彼女の側は当初彼に興味を引かれていなかった。彼女を振り向かせて2人は婚約に至るが、ホルストのわずかな収入では結婚の見通しはすぐには立てられなかったのであった<ref name=ih198123>Holst (1981), p. 23</ref>。

=== プロの音楽家として ===
[[File:HolstStatue.jpg|thumb|upright|alt=ホルストが指揮する姿を捉えた野外の全身彫像|生地[[チェルトナム]]にあるホルスト像。左手に[[指揮棒]]を握っているが、右腕の[[神経炎]]に悩まされた彼がしばしば実践していた姿である<ref>Holst (1981), p. 60</ref>。]]
1898年に王立音楽大学はホルストに奨学金の給付年数の延長を打診したが、彼は同校で学べることは学びつくしてしまい、曰く「実地で学ぶ」時であると感じていた<ref name=ih198123/>。彼の作品には出版、演奏されるものも出てきていた。前年の『[[タイムズ]]』紙は彼の歌曲『Light Leaves Whisper』を賞賛してこう記している。「6声からなる適度に洗練された作品、豊富な表現と詩的感情で処理されている<ref>{{cite news|title=The Hospital for Women|newspaper=The Times|date=26 May 1897|page=12}}</ref>。」

時おりの成功に恵まれていながらも、ホルストは「人は作曲だけでは食べていけない」と悟る<ref name=archive/>。彼はロンドンの様々な教会でオルガニストの職を得て、劇場オーケストラでのトロンボーン演奏を続けた。1898年に[[カール・ローザ・オペラ・カンパニー]]で首席トロンボーン奏者、そして[[コレペティートル]]に任用され、[[ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団|スコティッシュ管弦楽団]]と共に演奏旅行を行った。技巧的というより有能な奏者ではあったが、彼はコヴェント・ガーデンでの演奏で一流の指揮者であった[[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]]から称賛を得ている<ref>Short, p. 34; and Holst (1969), p. 20</ref>。ホルストの収入では食べていくのがやっとであったため<ref name=ih198127>Holst (1981), p. 27</ref>、彼はスタニスラス・ワーム(Stanislas Wurm)が指揮する「ホワイト・ウィーン・バンド」というポピュラー・オーケストラで演奏を行い収入の足しにした<ref>Short, p. 28</ref>。また、この頃には声楽教師の職にも就いている<ref name="hf"/>。

ホルストはワームのために演奏することに楽しみを見出し、奏者から[[テンポ・ルバート|ルバート]]を引き出す術を彼に学んだ<ref>Holst (1969), p. 15</ref>{{refn|イモージェン・ホルストはホルストが禁酒を解くように説得された時のことを詳述している。シャンパン1杯で勢いづいた彼はあるワルツの[[ピッコロ]]パートをトロンボーンで吹いてみせ、これにワームは驚き賛辞を贈った<ref name=h196916/>。|group= "注"}}。しかし、作曲に時間を充てることを望んでいたホルストは、「ザ・ワーム」(the Worm)や他のライト・オーケストラで演奏せねばならないことを「不快で煩わしい時間の浪費」と看做していた<ref>Holst (1981), p. 28</ref>。ヴォーン・ウィリアムズはこの件に関して、友人の意見に全面的に同意していたわけではない。彼は「くだらない」音楽もあることを認めつつ、それでもなおホルストにとっては有用であると考えていた。「まず第一に、トロンボーン奏者が絶えねばならない状況は、最悪でも教会オルガニストの我慢に比べれば何でもないかの如くである。そして第二に、ホルストは何より管弦楽の作曲家であり、彼の管弦楽書法を際立たせる確かな筆致は彼自身がオーケストラの奏者であるという事実によるところが大きい。彼は技法と実質的な部分で、教科書や理論から間接的にではなく、実際の演奏経験から自らの芸術を身に着けているのである<ref name=vwml/>。」

控えめながらも収入が安定し、ホルストは1901年にイゾベルと結婚することが出来た<ref name="hf"/>。1901年6月22日にフラム登記所での挙式となった。2人は生涯連れ添った。子どもはひとりで、1907年に生まれた[[イモージェン・ホルスト|イモージェン]]である<ref>Holst (1969), p. 29</ref>。1902年4月24日に[[ダン・ゴドフリー]]と[[ボーンマス交響楽団|ボーンマス市立管弦楽団]]がホルストの交響曲『コッツウォルズ』([[作品番号|作品]]8)を初演した。この作品の第2楽章は、ホルストが作曲に着手する3年前の1896年10月にこの世を去ったウィリアム・モリスを追悼する哀歌となっている<ref name="bio2">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=2|title=A Biography of Gustav Holst 2.Falling in Love|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref><ref>Dickinson (1957), p. 37</ref>。1903年には父のアドルフ・フォン・ホルストが他界し、わずかながら財産を遺した。イモージェンが後に記したところでは、ホルスト夫妻は「常に困窮していたために、唯一すべきことはそれをドイツでの休暇で一気に使い果たしてしまう」決意だったのだそうである<ref>Holst (1969), p. 24</ref>。

=== 作曲家、教師として ===
[[File:St Paul's Girls' School, London 03.jpg|thumb|upright|alt=ホルストを記念する銘板|ロンドンの[[セント・ポール女学校]]に掲げられた[[ブルー・プラーク]]。]]
ドイツ滞在中、自らの職業人生について再考したホルストは、1903年にオーケストラで演奏することを止めにして、作曲へと集中することを決意した<ref name=dnb/>。作曲家としての収入では生活することが出来ず、2年後に{{仮リンク|ダリッチ|en|Dulwich}}のジェームズ・アレン女学校{{small|([[:en: James Allen's Girls' School|英語版]])}}の教員ポストの提示を受諾、1921年まで教壇に立った。また、パスモア・エドワーズ・セトルメントでも教え、[[ヨハン・セバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[カンタータ]]を2作品イギリス初演するなど革新を行った<ref>Holst (1981), p. 30</ref>。彼の教員としての経歴で有名なのは、1905年から没するまで務めたハマースミスの[[セント・ポール女学校]]の音楽監督、そして1907年から1924年にかけての{{仮リンク|モーリー・カレッジ|en|Morley College}}での音楽監督であろう<ref name=dnb/>。

ヴォーン・ウィリアムズは前者の学校について次のように記している。「同校での彼は女子学生が好むと思われるような幼稚な感傷性を排し、代わりにバッハや[[トマス・ルイス・デ・ビクトリア|ヴィットリア]]を据えた。未成熟な知性にとって優れた基礎となるものだ<ref name=archive/>。」セント・ポール女学校でのホルストの教え子には傑出したキャリアを歩むものも現れた。ソプラノの[[ジョアン・クロス]]<ref>Gibbs, pp. 161–62</ref>、[[オーボエ]]と[[コーラングレ]]の奏者であるヘレン・ガスケルなどである<ref>Gibbs, p. 168</ref>。

モーリー・カレッジにおけるホルストの影響について、ヴォーン・ウィリアムズはこう書いている。「悪しき慣習は破壊されなければならなかった。結果ははじめこそがっかりするようなものであったが、まもなく新たな精神が立ち現れ、モーリー・カレッジの音楽はそこから生まれ出た『ウィツァンタイド音楽祭』と共に(中略)無視できない力となった<ref name=archive/>。」ホルスト着任前のモーリー・カレッジは、音楽をあまり真剣に扱っておらず(ヴォーン・ウィリアムズの言う「悪しき慣習」)、当初はホルストの厳しい要求に多くの学生が離れていった。彼は耐え忍び、次第に音楽愛好者に特化した講座を作り上げていったのである<ref>Holst (1969), p. 30</ref>。

1920年代初頭にホルストの下で学んだ作曲家の[[エドマンド・ラッブラ]]によると、ホルストは「講義に来るときに、[[エベニーザー・プラウト|プラウト]]や[[ジョン・ステイナー|ステイナー]]に学ぶのではなく、『[[ペトルーシュカ]]』や当時出版されたばかりだったヴォーン・ウィリアムズの[[ミサ曲 ト短調 (ヴォーン・ウィリアムズ)|ミサ曲 ト短調]]のミニチュア・スコアに重点を置くことの多い教師」だったという<ref>Rubbra, p. 40</ref>。彼は作曲の生徒に決して自らの思想を押し付けようとはしなかった。学生が躓く個所を見抜き、本人が解決策を見出すよう優しく導くのだと、ラッブラは回想している。「ホルスト先生が私が書いたものにただの一音たりとも自らの音符を付け足したという記憶はない。そうではなく、彼は - 私が賛成した場合には! - これこれのフレーズがあったとして、これこれの経過を辿るのであればこちらの方がいいかもしれませんね、と提案してくれるのだ。もしこれを私が解しなかった場合には、そのポイントが強く主張されることはなかった。(中略)先生は本質的でないものを嫌悪[するが故に]取り除くことが多くあった<ref>Rubbra, p. 41</ref>。」

[[File:Friedrich Max Müller by Bassano 1883.jpg|thumb|left|170px|[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]、1883年。]]
作曲家としてのホルストはたびたび文学から霊感を得ていた。[[トーマス・ハーディ]]や{{仮リンク|ロバート・ブリッジズ|en|Robert Bridges}}の詩句に曲を付したほか、[[ウォルト・ホイットマン]]の影響は特に大きく、『Dirge for Two Veterans』や『The Mystic Trumpeter』(1904年)で彼の言葉を楽曲に仕立てた。1899年には管弦楽のための『ウォルト・ホイットマン序曲』も書いている<ref name=grove/>。カール・ローザ・カンパニーに帯同してツアーをしていた際、ホルストは[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]の著書を数冊読み、それがきっかけとなって[[サンスクリット]]語のテクスト、特に[[リグ・ヴェーダ]]の賛歌に強い関心を抱くようになった<ref name=r30/>。当時存在した英語版のテクストには説得力がないと感じた彼は{{refn|ホルストはそれらが「口語英語での翻訳で誤解を招く」か、そうでなければ「英語話者の頭にとっては何の意味も示さない英単語の羅列」であると考えていた<ref name=h24>Holst (1981), p. 24</ref>。|group= "注"}}、言語学者としての技量がないにもかかわらず自作の翻訳を作成する決意をした。そこで言語学を学ぶため、1909年に[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]へ入学することになった<ref name=h24/>。

イモージェン・ホルストは父の翻訳を次のように評する。「父は詩人ではなく、彼の韻文は時おり未熟と思われることがある。しかし、彼は『明瞭かつ威厳ある』言葉、そして『聴衆を別世界へ誘う』ような言葉選びを自らに課しており、決して曖昧であったりだらしなく聞こえることはないのである<ref name=h198125>Holst (1981), p. 25</ref>。」サンスクリット語の翻訳へ音楽を付したものとしては、『[[ラーマーヤナ]]』のある逸話を基にした3幕のオペラ『シーター』(1899年-1906年、彼は最終的にこの作品を[[ミラノ]]の音楽出版社である[[リコルディ]]が主催した英語オペラコンクールに出品している)<ref>Short, p. 55</ref>、『[[マハーバーラタ]]』の一説に基づく[[室内オペラ]]である『[[サーヴィトリ (オペラ)|サーヴィトリ]]』(1908年)、4集からなる『リグ・ヴェーダからの賛歌』(1908年-1914年)、『[[カーリダーサ]]』からの2つのテクスト『2つの東洋画』(1909年-1910年)と『雲の使者』(1913年)がある<ref name=grove/>。

19世紀の終わりが近づくにつれ、イギリスの音楽界では自国の民謡に新たな関心が沸き起こっていた。サリヴァンや[[エドワード・エルガー|エルガー]]などの一部の作曲家は無関心なままであったが<ref>Hughes, p. 159 (Sullivan); and Kennedy, p. 10 (Elgar)</ref>、パリー、スタンフォード、ステイナー、[[アレグザンダー・マッケンジー (作曲家)|アレグザンダー・マッケンジー]]によって[[英国民族舞踊民謡協会|民謡協会]]が創設されていた<ref name=graebe/>。パリーはイングランドの民謡を取り戻すことにより、イングランドの作曲家は正統な国の声を見出すことになると考えていた。彼はこう述べている。「真の民謡には見せかけも、飾り立てた煌びやかさも、下品さもない<ref name=graebe/>。」ヴォーン・ウィリアムズは早くから熱心に運動へと転向し、イングランドの田舎をまわって民謡の収集と筆記を行っていた。こうしたことはホルストにも影響を及ぼす。友人に比べるとこの主題に熱心ではなかったものの、彼も自作に多数の民謡の旋律を取り入れ、他者が収集した民謡の編曲も複数手掛けた<ref name=graebe>{{cite journal|last=Graebe|first=Martin|title=Gustav Holst, Songs of the West, and the English Folk Song Movement|journal=Folk Music Journal|year=2011|volume=10|issue=1|pages=5–41|url=http://search.proquest.com/docview/884536926|access-date=6 April 2013|archive-date=26 July 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190726145208/https://search.proquest.com/docview/884536926|url-status=live}}{{subscription}}</ref>。『[[サマーセット狂詩曲]]』(1906年-1907年)は民謡収集家の[[セシル・シャープ]]の提案で書かれ、シャープが書き留めた旋律が用いられている。ホルストは1910年にクイーンズ・ホールで行われた同曲の初演について「私の初めての真の成功」と表現している<ref>Short, p. 88</ref>。数年後、ホルストは別の音楽復興 - イングランドのマドリガル作曲家の再発見 - に興奮していた。[[トマス・ウィールクス]]が[[テューダー朝]]の作曲家の中で彼の一番のお気に入りであったが、[[ウィリアム・バード]]、[[ヘンリー・パーセル]]も彼にとって非常に重要であった<ref>Short, p. 207</ref><ref name="bio4">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=4|title=A Biography of Gustav Holst 4.Planetary Fame|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。

[[File:House on The Terrace, Barnes - geograph.org.uk - 1309706.jpg|thumb|right|alt=19世紀初期の小さな、かわいらしい家の外観。|upright|ホルストが1908年から1913年まで暮らした{{仮リンク|バーンズ (ロンドン)|label=バーンズ|en|Barnes, London}}の家。記念の[[ブルー・プラーク]]が正面に取り付けられている。]]
ホルスとは熱心な[[ハイキング|ハイカー]]だった。彼はイングランド、イタリア、フランス、アルジェリアを広く歩いて回った。1908年には、喘息及びオペラ『シーター』がリコルディの賞を逃して以降患っていた鬱の治療として、医者の助言を受けてアルジェリアへと旅に出ている<ref>Short, pp. 74–75</ref>。この旅で霊感を得て組曲『[[ベニ・モラ]]』が生まれており、アルジェリアの街路で彼が耳にした音楽が盛り込まれている<ref>Mitchell, p. 91</ref>。ヴォーン・ウィリアムズはこの異国風の作品について次のように記す。「もしこの作品がロンドンでなくパリで演奏されるとしたら、作曲者にはヨーロッパ中に轟く名声をもたらしていただろうし、イタリアで演奏されるとしたら恐らく暴動が起こっていただろう<ref name=ml2>{{cite journal|last=Vaughan Williams|first=Ralph|title=Gustav Holst (Continued)|journal=Music & Letters|date=October 1920|volume=1|issue=4| jstor= 726997|pages=305–317|doi=10.1093/ml/1.4.305}} {{subscription}}</ref>。」

=== 1910年代 ===
1911年、ホルストはモーリー・カレッジの教え子たちと共に17世紀以来初めてとなるパーセルの『[[妖精の女王 (パーセル)|妖精の女王]]』の演奏を行った。総譜は1695年のパーセルの死後まもなく失われていたが、その頃に再発見されたばかりであった。28人のモーリー・カレッジの学生が声楽譜と管弦楽譜の写譜を完全な形で作成した。音楽は1500ページにも及び、学生たちが余暇時間に写しを取る作業にはおよそ18か月もかかった<ref>Holst (1981), pp. 30–31</ref>。演奏会形式での公演が[[オールド・ヴィック・シアター]]で行われ、演奏に先立ちヴォーン・ウィリアムズが導入のための講話を行った。『タイムズ』紙はホルストと彼の仲間に対し「この非常に重要な作品の最も興味深く芸術的な公演」であったと賛辞を贈った<ref>{{cite news|title=Music—Purcell's 'Fairy Queen'|newspaper=The Times|date=12 June 1911|page=10}}</ref>。

この成功がありはしたものの、翌年には合唱作品『雲の使者』の評判が生ぬるいものに終わり、この作品に自信を持っていたホルストはひどく意気消沈した<ref>{{citation|url=http://www.gustavholst.info/compositions/listing.php?work=64|title=The Cloud Messenger Op. 30|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。『ベニ・モラ』の評判も芳しくなく<ref name="planets">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/compositions/listing.php?work=18|title=The Planets Op. 32|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>、ふさぎ込んでいた彼は一緒に来ないかという[[ヘンリー・バルフォア・ガーディナー]]の誘い、そしてスペインにいた[[クリフォード・バックス|クリフォード]]と[[アーノルド・バックス]]兄弟の誘いを受ける形で再び旅に出た<ref>Mitchell, p. 118</ref>。この休暇の間にクリフォード・バックスがホルストへ[[占星術]]を紹介しており<ref name="planets" />、ここでの興味が後に組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』の着想へと繋がっていく。ホルストは友人の[[ホロスコープ]]を生涯操り続け、占星術が彼にとって「ペット代わり」だと述べていた<ref>Holst (1969), p. 43</ref>。

1913年にセント・ポール女学校に新しい建屋が落成、ホルストはこれを記念して『[[セントポール組曲]]』を作曲した。この新しい校舎には立派な設備を擁した防音室が備えられており、彼はそこで邪魔を気にすることなく仕事ができるようになった<ref>Mitchell, p. 126</ref>。ホルストは家族を連れて学校のすぐそばの{{仮リンク|ブルック・グリーン|en|Brook Green}}へ引っ越してきていた。それまでの6年間は[[テムズ川]]を望む{{仮リンク|バーンズ (ロンドン)|label=バーンズ|en|Barnes, London}}の小綺麗な家に住んでいたのだが、霧が立ち込めがちな川面の空気が彼の呼吸に障っていたのだった<ref>Short, p. 117</ref>。週末と学校休暇中に使用するため、ホルスト夫妻は[[エセックス]]の{{仮リンク|サクステッド|en|Thaxted}}にコテージを購入、中世の建物に囲まれ好きなだけ散歩に興じることのできる物件であった<ref>Holst (1981), p. 40</ref>。1917年にこの町の中心部へ移った彼らは、1925年までその地で暮らした<ref>Short, p. 151</ref>。

[[File:The Manse - geograph.org.uk - 845330.jpg|thumb|left|alt=田舎町の家の外観|ホルストが1917年から1925年まで暮らしたサクステッドのザ・マンス。]]
ホルストはサクステッドで「赤い司祭」(Red Vicar)として知られた{{仮リンク|コンラッド・ノエル|en|Conrad Noel}}師と近づきになった。ノエルは[[独立労働党]]の支援者で、保守的な世論には不人気な多数の運動を支持していた<ref>Mitchell, pp. 139–140</ref>。また、ノエルは教会での祝典の一環としての民俗舞踊と行進の復興を唱えており、この改革は伝統を重んじる教会通いの人々の間で議論を巻き起こした<ref>Short, pp. 126 & 136</ref>。ホルストはサクステッド教区教会で時おりオルガニストと合唱指揮者を務めた。また鐘を鳴らすことにも興味を持つようになった{{refn|2013年、サイモン・ゲイとマーク・デイヴィスは書籍『The Ringing World』の中でホルストが[[転調鳴鐘]]に関心を寄せており、「自らの作曲の才能をこの方向へ向けたのかもしれない」と報告している。ホルストの遺した書類を調べる中で、彼らは2つの調律された鐘のための作品を発見している。「そこからは、ホルストが当時の鳴鐘の考え方に比べて著しく進んでいたことが分かる。」これらの作品は2013年4月の時点では、実際に演奏されたことはない<ref>{{cite journal|last=Gay|first=Simon|author2=Mark Davies|title=A New Planets Suite|journal=The Ringing World|date=5 April 2013|volume=5319|url=http://bronze-age.com/spliced/major-planets.html|page=332|access-date=5 June 2016|archive-date=23 June 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160623175254/http://bronze-age.com/spliced/major-planets.html|url-status=live}}{{subscription}}</ref>。|group= "注"}}。彼は1916年に年1回の音楽祭をウツィアンタイドで開始、そこではモーリー・カレッジとセント・ポール女学校の学生たちが地元からの参加者と共に演奏を行った<ref>Holst (1981), p. 41</ref>。

ホルストはノエルが太古の宗教の始まりに関心を抱いていることを知り、[[ア・カペラ]]のキャロル「This Have I Done for My True Love」を彼に献呈した(ホルストはこの作品を常に「舞踏の日」と表現していた)<ref>Short, p. 135</ref>。初演は1918年5月にサクステッドにおいて、第3回ウィツァン音楽祭の中で初演された。確固たる[[十月革命]]の支持者となるノエルは、この音楽祭の場で教会活動に参加する者はより大きく政治への参画をせねばならないと礼拝の土曜の言葉のなかで要求した。彼はホルストの教え子の一部(暗にセント・ポール女学校の学生を指している)を単なる「[[非戦闘従軍者|キャンプ・フォロワー]]」だと主張して反感を買った<ref>Short, p. 158; and Mitchell, pp. 154–55</ref>。教え子が教会関係の対立に巻き込まれることを懸念したホルストは、ウィツァン音楽祭をダリッチへと移した。一方で彼自身はサクステッドの合唱団への援助を続け、ときには教会のオルガンの演奏も行った<ref>Mitchell, p. 156</ref>。

=== 第一次世界大戦 ===
[[第一次世界大戦]]の開戦時に従軍を志願したホルストであったが、軍役には不適格であるとして認められなかった<ref name=dnb/>。彼は戦争に貢献できないことに挫折を感じていた。彼の妻はボランティアの救急車運転手となり、ホルストの弟のエミールとヴォーン・ウィリアムズは兵役でフランスへ出兵、友人の作曲家であった[[ジョージ・バターワース]]と[[セシル・コールズ]]は戦死していたのである<ref>Holst (1969), pp. 51–52</ref>。ホルストは教職と作曲を継続する。彼は『惑星』の筆を進め、室内オペラ『[[サーヴィトリ (オペラ)|サーヴィトリ]]』の上演準備を行った。オペラの初演は1916年12月に、{{仮リンク|セント・ジョンズ・ウッド|en|St John's Wood}}にあるウェリントン・ホールにおいてロンドン・オペラ学校の学生によって行われた<ref>Short, p. 144</ref>。この時には、同作品は何ら主要紙の関心を引くことはできなかったが、5年後にプロによって上演された際には「完璧な小傑作」との言葉に迎えられている<ref>{{cite news|title=Savitri|newspaper=The Times|date=24 June 1921|page=13}}</ref>。1917年に作曲した管弦楽と合唱のための『[[イエス賛歌]]』は終戦まで演奏されないままとなった<ref name=grove/>。

大戦が終結に近づいた1918年、ついにホルストに従軍の機会を与える仕事の見通しが生まれた。[[キリスト教青年会]](YMCA)の教育部、音楽課が、動員解除を待ってヨーロッパで駐留中のイギリス兵とともに働くことができるボランティアを必要としていたのである<ref>Short, p. 159</ref>。モーリー・カレッジとセント・ポール女学校は彼に数年の離職期間提供を申し出たが、まだ障害が残されていた。YMCA側が彼の苗字があまりにもドイツ的であり、今回の役割には受け入れられないと考えたのである<ref name=h196952>Holst (1969) p. 52</ref>。これを受けて、ホルストは1918年に{{仮リンク|平型捺印証書|en|Deed poll}}によって「フォン・ホルスト」(von Holst)から「ホルスト」へ正式に改称することになった<ref>{{London Gazette|issue=30928|page=11615|date=1 October 1918|}}</ref>。果たして彼は[[テッサロニキ|サロニカ]]を拠点とするYMCAの[[近東]]音楽総括に任用されたのであった<ref>Mitchell, p. 161</ref>。

[[File:Holst-planets-inscription.jpg|right|thumb|upright=1.4|alt=Handwritten inscription: "This copy is the property of Adrian Boult, who first caused the Planets to shine in public and thereby earned the gratitude of Gustav Holst"|『[[惑星 (組曲)|惑星]]』の総譜に記された[[エイドリアン・ボールト]]への献辞。「この写譜は惑星をはじめて公に輝かせ、それによってグスターヴ・ホルストの感謝を得たエイドリアン・ボールトの資産である。」]]
ホルストは壮大な見送りを受けた。指揮者の[[エイドリアン・ボールト]]は次のように述懐している。「休戦直前に、グスターヴ・ホルストが私のオフィスに飛び込んできた。『エイドリアン、YMCAがもうすぐ私をサロニカへ送るのだが、バルフォア・ガーディナー、彼の心遣いに感謝することに、彼が日曜の午前を丸々使ってクイーンズ・ホール、クイーンズ・ホール管弦楽団による餞別を私にくれたんだ。だから私たちは《惑星》をやることにする、君が指揮をすることになるんだ。』<ref name=b35>Boult (1973), p. 35</ref>」期限内に準備を整えるために、すべきことが大量に発生した。セント・ポール女学校の学生たちは管弦楽パート譜の写しを手伝い<ref name=b35/>、モーリー・カレッジの女子学生とセント・ポール女学校の学生は終曲にある合唱パートを練習したのである<ref>Boult (1979), p. 32</ref>。

9月29日の演奏には[[ヘンリー・ウッド]]をはじめとして、ロンドンのプロの音楽家の大半が招待客として招かれた<ref name=m165>Mitchell, p. 165</ref>。5か月後、ホルストが[[ギリシャ]]での従軍中の1919年2月の演奏会において、ボールトは『惑星』を一般聴衆に向けて紹介した。ホルストは彼に宛てて助言を書き連ねた長い手紙を送っているが{{refn|ホルストによれば『サロニカ、ピカデリー・サーカス』から送ったという手紙の中で、次のような助言がある。『火星。素晴らしく澄んだ演奏をしてくれました。(中略)今回はもっと《騒々しく》できますか?それと、もっとクライマックスの感覚を作れるでしょうか?例えば、少しだけテンポを速めるなど?ともかく、もっと不快に、そして遥かに恐ろしく聞こえなければなりません<ref>Boult (1979), p. 34</ref>。』|group= "注"}}、組曲は全曲演奏せねばならないという考えは彼を納得させるに至らなかった。ボールトはこのような急進的な新作を初めて聞く聴衆全員が許容できるのは30分程度までであると考え、この時は全7曲のうち5曲しか演奏しなかった<ref>Boult (1979), p. 33</ref>。

ホルストはサロニカでの任務を楽しんでおり、同地から赴くことが出来た[[アテネ]]では強い感銘を受けている<ref name=s171>Short, p. 171</ref>。彼の音楽上の職務は多岐にわたっており、ときには地元の管弦楽団でヴァイオリンを演奏しなければならないことすらあった。「それは大層楽しかったが、自分があまり役に立たなかったのではないかと懸念している<ref name=s171/>。」彼は1919年6月にイングランドへ帰国した<ref>Holst (1969), p. 77</ref>。

=== 戦後 ===
ギリシャからの帰国後まもなく、ホルストは教職と作曲に戻った。彼はこれまで担っていた仕事に加えて、[[レディング大学]]での作曲の講義を受け持ち、さらに母校の王立音楽大学で作曲を教えるヴォーン・ウィリアムズに加わるようになった<ref name=graebe/>。同校でエイドリアン・ボールトが担当していた指揮の講座に触発される形で、彼は女性のための音楽教育をさらに開拓しようと、セント・ポール女学校のハイ・ミストレス{{refnest|group= "注"|理事会より任命を受けた事務や生徒指導を担う担当者のこと<ref>{{Cite web|url=https://www.lawinsider.com/dictionary/the-high-mistress |title=Law Insider: The High Mistress definition |accessdate=2024-01-14}}</ref>。}}に対してボールトを招聘して講義を持たせなければならないと進言を行った。「セント・ポールの生徒たちが世界で唯一の女性指揮者となったら栄誉なことですよ<ref>Mitchell, p. 212</ref>!」ホルトはセント・ポール女学校の防音室でホイットマンの詩を用いて『[[死への頌歌]]』を作曲した。多くの者がこの作品をホルストの最も美しい合唱作品だと考えている、というのはヴォーン・ウィリアムズの言である<ref name=archive/>。

[[File:Vaughan Williams and Holst walking in the Malvern Hills 1921.jpg|thumb|upright|散策を楽しむホルスト(左)とヴォーン・ウィリアムズ。]]
40代に差し掛かったホルストは、突如として引っ張りだことなっていた。『惑星』の米国初演をどちらが行うかで[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]と[[シカゴ交響楽団]]が争っていた<ref name=graebe/>。この作品の成功に続いて1920年には『イエス賛歌』が熱狂を巻き起こしており、『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』紙は「ここ数年で聞かれた管弦楽と合唱で表現される作品の中でも、屈指の華麗さ、屈指の誠実さを有する」と評した<ref>{{cite news|title=Music of the Week: Holst's 'Hymn of Jesus'|newspaper=The Observer|date=28 March 1920|page=11}}</ref>。『タイムズ』紙は同作を「疑いなく、この何年もの間に我が国において生み出された中で最も際立った独自性を持つ合唱作品」と表現している<ref>{{cite news|title=Holst's 'Hymn of Jesus'|newspaper=The Times|date=26 March 1920|page=12}}</ref>。

本人が驚き狼狽えたことに、ホルストは有名になってきていた<ref name=archive/>。有名人になるということは彼の気質には全く合わないことだった。音楽学者の[[バイロン・アダムズ]]は次のように述べる。「けばけばしい宣伝、大衆の無理解、そしてこの成功を望まない態度により彼に対して生まれた専門家の嫉妬の織り成す網から解放されんとして、彼は生涯奮闘したのであった<ref>{{cite journal|last=Adams|first=Byron|title=Gustav Holst: The Man and His Music by Michael Short|journal=Musical Quarterly|date=Winter 1992|volume=78|issue=4|page=584|jstor=742478}} {{subscription}}</ref>。」彼は栄典や褒賞の申し出を辞退し{{refn|ホルストがこのルールを曲げた2つの例外が[[イェール大学]]の{{仮リンク|ハウランド記念賞|en|Howland Memorial Prize}}(1924年)、[[ロイヤル・フィルハーモニック協会]]のゴールド・メダル(1930年)であった<ref name=dnb/>。|group= "注"}}、インタビューを受けることやサインに応じることをしなかった<ref name=graebe/>。

コミック・オペラ『[[どこまでも馬鹿な男]]』(1923年)は広く『[[パルジファル]]』の風刺であると看做されたが、ホルストはこれを断固として否定した<ref>{{cite news|title=Mr. Holst on his New Opera|newspaper=The Observer|date=22 April 1923|page=9}}</ref>。この作品は主役のソプラノに[[マギー・テイト]]を据え、[[ユージン・グーセンス]]の指揮で[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]で初演されて熱狂的な評価を受けた<ref name=timespf/>。1923年に[[レディング]]で行われた演奏会において、ホルストは足を滑らせて転倒、[[脳震盪]]を起こした。経過は良好とみられ、[[ミシガン大学]]での講義と指揮のために渡米の招待を受けられると考えるまでとなった<ref>Holst (1981), p. 59</ref>。帰国後の彼はこれまで以上に多忙となっており、指揮をし、出版のための過去作品の準備をし、そして以前のように教壇に立った。これらの職務によって引き起こされた負担は彼には過大であった。医師の指示により彼は1924年中の全ての仕事をキャンセルし、タスクテッドで静養に入った<ref>Holst (1981), pp. 60–61</ref>。1925年にセント・ポール女学校には復職を遂げたが、それ以外のどのポストにも戻ることが出来なかった<ref name=h198164>Holst (1981), p. 64</ref>。

=== 晩年 ===
他の職務から解放されたことにより、ホルストの作曲家としての生産性はたちまち向上した。この時期の作品には[[ジョン・キーツ]]のテクストを用いた『[[合唱交響曲 (ホルスト)|合唱交響曲]]』がある([[ジョージ・メレディス]]のテクストによる『合唱交響曲第2番』は断片しか残されていない)。[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]による短いオペラ『[[猪の頭]]』、これに続く1928年の金管バンドのための『[[ムーアサイド組曲]]』のいずれも、大衆への訴求は持ち合わせていなかった<ref>Holst, Imogen (1974), pp. 150, 153, 171</ref>。

1927年、ホルストは[[ニューヨーク交響楽団]]から新作交響曲の委嘱を受けた。彼は交響曲ではなく、ハーディが呼ぶところのウェセックスに霊感を受けた管弦楽曲『[[エグドン・ヒース (ホルスト)|エグドン・ヒース]]』を書き上げた。この作品は1928年2月に初演を迎えたが、前月にハーディがこの世を去っており追悼コンサートとなった。ホルスト作品であれば何でも絶賛してきた大衆の一時的な熱狂は翳りをみせており<ref name=h198164/>、ニューヨークにおける本作の評判は芳しくなかった。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の[[オーリン・ダウンズ]]は「新作は長たらしく特徴なく思える」と述べている<ref>{{cite news|last=Downes|first=Olin|title=Music: New York Symphony Orchestra|url=https://www.nytimes.com/1928/02/13/archives/music-new-york-symphony-orchestra.html|newspaper=The New York Times|date=13 February 1928|access-date=23 July 2018|archive-date=23 July 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180723064934/https://www.nytimes.com/1928/02/13/archives/music-new-york-symphony-orchestra.html|url-status=live}}{{subscription}}</ref>。アメリカ初演の翌日、ホルストは自ら[[バーミンガム市交響楽団|バーミンガム市管弦楽団]]を指揮してイギリス初演を行った。『タイムズ』紙は曲が暗いながらも、それがハーディの厭世観に適合していると認めている。「『エグドン・ヒース』は人気を博すことはないだろうが、本人が好むと好まざるとにかかわらずこの作品は作曲者が述べたいことを伝えており、真実とは義務の一側面なのである<ref>{{cite news|title=Egdon Heath|newspaper=The Times|date=14 February 1928|page=12}}</ref>。」ホルストは過去の作品に対して向けられた敵意のある評価を苦痛に感じていたが、『エグドン・ヒース』への批判的意見には無関心だった。アダムズはこの作品を「最も完璧に実現された楽曲」と評した<ref>{{cite journal|last=Adams|first=Byron|title=Egdon Heath, for Orchestra, Op. 47 by Gustav Holst;|journal=Notes|date=June 1989|volume=45|issue=4|page=850|jstor=941241|doi=10.2307/941241}} {{subscription}}</ref>。

最晩年のホルストは『[[合唱幻想曲 (ホルスト)|合唱幻想曲]]』(1930年)を作曲し、[[英国放送協会|BBC]]から軍楽バンドのための作品の委嘱を受けた。この委嘱によって生まれたのが、人生の多くの時間を過ごした土地に寄せられた前奏曲とスケルツォ『[[ハマースミス (吹奏楽曲)|ハマースミス]]』である。作曲家で評論家の[[コリン・マシューズ]]は、この作品は「『エグドン・ヒース』のように妥協をすることなく、イモージェン・ホルストの言葉に依るならば『人でごったがえすロンドンのただ中にいて(中略)彼がエグドン・ヒースの孤独の中に見出したのと同じ静寂』を発見している」と考えている<ref name=grove/>。不幸にも本作が初演された演奏会では[[ウィリアム・ウォルトン|ウォルトン]]の『[[ベルシャザールの饗宴 (ウォルトン)|ベルシャザールの饗宴]]』のロンドン初演も呼び物となっており、それによって本作は幾分陰に隠れてしまうことになった<ref>{{cite book|last=Mowat|first=Christopher|year=1998|title=Notes to Naxos CD 8.553696|location=Hong Kong|publisher=Naxos Records|oclc=39462589}}</ref>。この初演はホルスト自身が指揮する予定であったが病気のために代役が立てられた<ref>{{citation|url=https://www.boosey.com/shop/prod/Holst-Gustav-Hammersmith-op-52-Symphonic-Band-Set/601521|author=Nikk Pilato|title=Hammersmith: Prelude & Scherzo (Symphonic Band Score & Parts)|publisher=Boosey & Hawks}}</ref>。以降、作品は1954年の蘇演まで忘却に甘んじることになる{{r|ng}}。

ホルストはイギリスの映画『{{仮リンク|鐘 (1931年の映画)|label=鐘|en|The Bells (1931 film)}}』(1931年)のための音楽を書き、群衆のシーンにはエキストラ出演も果たして満悦であった<ref>Holst (1981), p. 80</ref>。この映画は映像も音楽も散逸してしまっている<ref>Holst, Imogen (1974), p. 189</ref>。彼は「ジャズバンド曲」を作曲しており、イモージェンが後に管弦楽のための『カプリチオ』に編曲した<ref>Holst (1981), p. 78</ref>。生涯を通じてオペラを作曲し、大小さまざまな成功を手にしてきたホルストであったが、最後のオペラ『[[放浪学者]]』では、マシューが述べるところの「省力的、直截的に書くという、彼の迂遠なユーモアセンスにとって正しい手段」を見出している<ref name=grove/>。このオペラは1934年に初演されるもホルストは出席できず、その後はブリテンが1951年に復活上演するまで取り上げられることはなかった<ref name="ng">{{cite book|author=Colin Matthews|year=2001|chapter=Holst, Gustav(us Theodore von)|title=Grove Music Online|publisher=Oxford University Press|doi=10.1093/gmo/9781561592630.article.13252}}</ref>。

[[image:Chichester Cathedral Exterior, West Sussex, UK - Diliff.jpg|right|thumb|ホルストが眠る{{仮リンク|チチェスター大聖堂|en|Chichester Cathedral}}。]]
1932年、[[ハーバード大学]]は6か月の間ホルストに講師の地位を与えた。ニューヨークに到着した彼は、弟のエミールとの再会を喜んだ。エミールは[[アーネスト・コッサート]]という芸名で[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウェイ]]で俳優のキャリアを歩んでいた。一方、ホルストは絶え間なく報道記者や写真家からの注目を浴びて落胆していた。ハーバードでの時間を楽しみはしたものの、同校在任中に病を患った。病名は[[消化性潰瘍]]で、数週間の療養が必要だった。イングランドに帰国すると、弟を迎えてしばし[[コッツウォルズ]]での休暇を共に過ごした<ref>Holst (1981), pp. 78–82</ref>。健康状態は衰えていき、以降の音楽活動からは身を引くことになる。最晩年の仕事のひとつに、セント・ポール女学校の若手奏者の手引きとするため1934年3月に作曲した『[[ブルック・グリーン組曲]]』がある<ref>Holst (1981), p. 82</ref>。

潰瘍の手術後に見舞われた[[心不全]]により、ホルストは1934年5月25日にロンドンで59年の生涯を閉じた<ref name=grove/>。遺灰はサセックスの{{仮リンク|チチェスター大聖堂|en|Chichester Cathedral}}で、彼が好んだテューダー朝の作曲家であるトマス・ウィールクスの記念碑近くに埋葬された<ref>Hughes and Van Thal, p. 86</ref>。葬儀では司教の{{仮リンク|ジョージ・ベル (司教)|label=ジョージ・ベル|en|George Bell (bishop)}}が追悼演説を行い、ヴォーン・ウィリアムズが指揮を行ってホルストの自身の音楽を演奏した<ref>{{cite news|title=In Memory of Holst|newspaper=The Times|date=25 June 1934|page=11}}</ref>。

== 音楽 ==
{{see also|グスターヴ・ホルストの楽曲一覧}}

=== 様式 ===
ホルストは旋律の感覚のみならず、その簡素さや表現の省力化という点でも民謡を我がものとしており<ref>Short, p. 346</ref>、これによって同時代の多くの人々、彼のファンですらも厳格で知的だと考えるスタイルが確立されていった<ref name=H664>Holst (1980), p. 664</ref><ref name=OCM>{{cite web|last= Kennedy|first= Michael|author-link= マイケル・ケネディ (音楽評論家)|title= Holst, Gustav|url= http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/opr/t114/e3305?q=Gustav+Holst&search=quick&pos=2&_start=1#firsthit|publisher= Oxford Companion to Music Online edition|accessdate= 14 April 2013|archive-date= 20 September 2020|archive-url= https://web.archive.org/web/20200920112812/https://www.oxfordreference.com/documentid/acref-9780199579037-e-330521/#firsthit|url-status= live}}{{subscription required}}</ref>。これは『惑星』とホルストと同一視する世間の見方とは反対であり、マシューズは『惑星』のせいで真の独自性を有する作曲である彼の威信が覆い隠されてしまっていると考えている<ref name=grove/>。音楽が冷たいという非難に対し、イモージェンはホルストに特有の「下降する低音の歩みの上で安心させるように動く、荒れ狂う旋法旋律」を引き合いに出し<ref name=H664/>、対する[[マイケル・ケネディ (音楽評論家)|マイケル・ケネディ]]は1929年の{{仮リンク|ハンバート・ウルフ|en|Humbert Wolfe}}のテクストによる12の歌曲、また1930年から1931年の無伴奏合唱のための12の[[ウェールズ]]の民謡を真の温かみのある作品であると指摘する<ref name=OCM/>。

ホルストは数多くの特色を活用した。一般的でない拍子、上昇・下降する[[音階|スケール]]、[[オスティナート]]、複調、時おり現れる[[多調]]であり、これらによって彼はイングランドの作曲家の中でも目立った存在となっている<ref name=grove/>。ホルストは常に音楽の中で自らの言いたいことを直截的かつ簡潔に言っていた、ヴォーン・ウィリアムズは述べている。「彼はその時に必要とされるのであれば赤裸々であることを恐れず、よそよそしくすることで目的が表現されるのあれば他人行儀であることを躊躇しない<ref>Quoted in Short, p. 347</ref>。」ホルストが省力化されたスタイルを用いたのは、彼の優れない健康状態が一因だったのではないかとケネディは推測している。「紙に書きつけるという努力は芸術的な省力化を強いるわけであるが、それをやり過ぎだと感じるものもいる<ref name=OCM/>。」しかし、経験豊かな器楽奏者、オーケストラメンバーであったホルストは演奏者の視点から楽曲を理解し、各パートはいかに難しいものとなろうと必ず常に演奏可能となるようにした<ref name=Short336/>。弟子の[[ジェーン・ジョゼフ]]によると、ホルストが演奏の中で育んだのは「実践的な僚友関係の精神であった。(中略)プロの奏者にとって起こりえる退屈、そして退屈することを不可能にする音楽を彼は誰よりも知っていた<ref>Gibbs, p. 25</ref>。」

=== 初期作品 ===
ホルストは学生時代とその後すぐの時期に大量の作品、特に歌曲を作曲していたが、1904年に以前に書かれた楽曲のほぼ全ては独創性に欠ける「初期の愚作群」であると彼自身が後年分類している<ref name=grove/><ref name=H661>Holst (1980), p. 661</ref>。しかし、作曲家で評論家のコリン・マシューズはこうした習作の中にも「直感的な管弦楽のセンスの良さ」を認めている<ref name=grove/>。この時期の作品としてある程度の独創性を持つものとして、マシューズは1894年の弦楽三重奏曲ト短調(1974年まで演奏されないままだった)を取り上げ、ホルストによる初めての模倣でない作品であると述べる<ref name=Matthews84>{{cite journal|author-link= コリン・マシューズ|last= Matthews|first= Colin|title= Some Unknown Holst| jstor= 961565|work=[[ミュージカル・タイムズ|The Musical Times]]|volume= 125|issue= 1695|pages= 269–272|date= May 1984|doi=10.2307/961565}}</ref>。マシューズとイモージェン・ホルストはいずれも、交響曲『コッツウォルズ』(1899年-1900年)の「エレジー」楽章を習作作品のうちで完成度の高い楽曲であると指摘しており、さらにイモージェンは1899年の『バレエ組曲』と1900年の『アヴェ・マリア』に父の真の顔をおぼろげに感じ取っている。彼女とマシューズはウィットマンの韻文を用いた歌曲『神秘的なトランペット吹き』(1904年)において、ホルストが彼自身の声を見出したのだと主張する。同作では『惑星』の「火星」を特徴づけるトランペットの響きが、ほのかに予感されるところがある<ref name=grove/><ref name=H661/>。この作品においては、ホルストは2つの調性を同時に奏でる複調技法をはじめて用いている<ref name=dnb/>。

=== 実験期 ===
マシューズによると、20世紀のはじめごろのホルストは[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]を追って後期[[ロマン派音楽|ロマン派]]へ入っていこうとしているかのように見えるという。ところが、ホルストも後に自覚したように、[[ヘンリー・パーセル|パーセル]]の『[[ディドとエネアス]]』との出会いによって「イングランドの言語の音楽イディオム」の探索へ駆り立てられ<ref name=GHolstWhit23/>、20世紀の最初の10年ほどでは民謡の復興が触媒となって、ホルストはその他のものにも霊感の源を求めていくことになる<ref name=grove/>。

==== インド期 ====
当時の多くの人物がインド神話に関心を抱いており、1895年ごろからのホルストの興味はオペラ『シーター』(1901年-1906年)ではじめて露わになる<ref name="bio2"/><ref name=H1>{{cite journal|last=Head|first=Raymond|title=Holst and India (I): 'Maya' to 'Sita'|jstor=944947|journal=Tempo|issue=158|date=September 1986|pages=2–7}} {{subscription}}</ref>。長きにわたったこのオペラの製作期間中には、ホルストは他にもインドを主題とした作品に取り組んだ。ヴァイオリンとピアノのための『Maya』(1901年)が例として挙げられるが、この作品については作曲者自身も作家のレイモンド・ヘッドも「味気ないサロン向け作品で、その音楽語法は危険なほど[[マイケル・メイブリック|スティーヴン・アダムズ]]に似通っている」と看做した<ref name=H1/>{{refn|「スティーヴン・アダムズ」は[[マイケル・メイブリック]]の筆名である。メイブリックは歌曲『The Holy City』でよく知られる、ヴィクトリア朝風の感傷的なバラッドを書いたイギリスの作曲家である<ref>{{cite web|title= Maybrick, Michael|url= http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/opr/t237/e6647|publisher= Oxford Dictionary of Music Online edition|accessdate= 6 April 2013|archive-date= 20 June 2021|archive-url= https://web.archive.org/web/20210620115625/https://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199578108.001.0001/acref-9780199578108|url-status= live}}{{subscription}}</ref>。|group= "注"}}。その後、ホルストはヴォーン・ウィリアムズを介して[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]を見出し、その音楽を賞賛するようになる<ref name=HolstEB>{{Britannica|269664}}</ref>。彼はラヴェルが「純粋さの模範」であり、その程度については彼が大いに称賛していた[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]と同程度であると考えていた<ref>Short, p. 61</ref><ref>Short, p. 105</ref>。

ラヴェル、[[ヒンドゥー教]]の心霊主義、イングランドの民謡の影響が合わさることで<ref name=HolstEB/>、かつて心酔したワーグナーとリヒャルト・シュトラウスの影響を超えてホルストは彼独自のスタイルを形作ることができるようになった。イモージェン・ホルストは「人はワーグナーが新たなものへと導いてくれるまで、彼に従わねばならない」というホルストの自説(ヴォーン・ウィリアムズに書き送られたもの)を認識していた。彼女はホルストのグランド・オペラ『シーター』が「古き良きワーグナー風の喚き」ではあるが「終盤に向かって音楽に変化が生じ、地球の声を表す影の合唱の美しく穏やかなフレーズは、ホルストの独自の語法に依拠している」と記している<ref>Holst (1986), p. 134</ref>。

[[image:Rigveda MS2097.jpg|right|thumb|[[リグ・ヴェーダ]]。]]
ラッブラによると、1911年の『リグ・ヴェーダ賛歌』の出版はホルストの成熟にとって記念碑的な出来事だったという。「実のところこれ以前には、ホルストの音楽は常に彼の持ち味であった語法の清澄さを呈してはいたが、和声的には彼を現代音楽の中で抜きんでた重要人物とする要素が少なかったのだ<ref name=r30>Rubbra, p. 30</ref>。」ディッキンソンはこうした[[ヴェーダ]]に基づく歌曲を宗教的というより絵画的であると評する。出来具合は様々でありながらも、聖句のテクストは明らかに「作曲者の創造力の中にある生命の泉に触れていた」という<ref>Dickinson (1995), pp. 7–9</ref>。ホルストがインドの韻文に付した音楽は概して西洋的な性格に留まっているが、ヴェーダを用いた歌曲の一部では実験的にインドの[[旋法]]である[[ラーガ]]を使用している<ref name=H2>{{cite journal|last=Head|first=Raymond|title=Holst and India (II)|jstor=944789|journal=Tempo|issue=160|date=March 1987|pages=27–36}} {{subscription}}</ref>。

[[室内オペラ]]『[[サーヴィトリ (オペラ)|サーヴィトリ]]』(1908年)は3人の独唱者、小規模な表に出ない合唱、フルート2、コーラングレと2群の弦楽四重奏という楽器隊の編成で書かれている<ref name=H3>{{cite journal|last= Head|first= Raymond|title= Holst and India (III)|jstor= 945908|journal= Tempo|issue= 166|date= September 1988|pages= 35–40}} {{subscription}}</ref>。音楽評論家の[[ジョン・ウォラック]]は、ホルストが少ない編成を配した「並みならぬ表現の機微」に寄せてこう述べる。「作品の始まりを告げる2人の独唱者の旋律線が、巧みに死とサーヴィトリを関係づける。死は森を進んでおり、サーヴィトリの慄いた応答が彼の周囲をはためくが、彼の和声に引き寄せられることから逃れることが出来ない<ref name=dnb/>。」ヘッドはこの作品が同時代にあってはそのこじんまりとした親密さで特異であると評し、さらにホルストが自らの音楽でワーグナー風の半音階主義による支配を終了させようとした試みの中で、最も成功を収めていると考えている<ref name=H3/>。ディッキンソンはこの作品が重要な一歩であったと考えるが、それは「オペラに向かうものではなく、[ホルストの]理想像の慣用的追求に向かっている」という<ref name=D20>Dickinson (1995), p. 20</ref>。[[カーリダーサ]]のテクストに関して、ディッキンソンは『雲の使者』(1910年-1912年)を「とりとめのない出来事、ご都合主義の劇的エピソード、そして恍惚的感情の迸りの寄せ集め」であり、同時代の作曲者の創作活動の迷走を示すものとして低く見ている。ディッキンソンの見立てによると、『2つの東洋画』(1911年)は「最終的により記憶に残りやすいカーリダーサの印象」を与えるという<ref name=D20/>。

==== 民謡その他の影響 ====
インドのテクストへの曲付けは、1900年から1914年の期間のホルストの楽曲のごく一部を占めたに過ぎなかった。彼の音楽が成熟を迎えるにあたって非常に重要だったのは、イングランドの民謡復興であった。そのことは管弦楽組曲『[[サマーセット狂詩曲]]』(1906年-1907年)において明らかである。この作品は当初、11の民謡主題を下敷きに制作される予定であったが、後に4つへと削減された<ref name=D192>Dickinson (1995), p. 192</ref>。同曲がヴォーン・ウィリアムズの『[[ノーフォーク狂詩曲第1番|ノーフォーク狂詩曲]]』への類縁性を持つことに目を付け、ディッキンソンは楽曲の全体的な構造により、ホルストの楽曲は「歌曲選集(中略)の水準を超えた高みにいる」と述べている<ref>Dickinson (1995), pp. 110–111</ref>。ホルストがイングランド民謡を発見したことで「彼の管弦楽書法が変容」し、『サマーセット狂詩曲』の作曲は彼の初期作品において支配的であった半音階主義を追いやるのに大きな役割を果たしたと、イモージェンは認識している<ref name=H661/>。1906年の『2つの無言歌』では、ホルストは民謡のイディオムを使用しつつ独自の音楽を生み出せることを示してみせた<ref>Short, p. 65</ref>。やはり1906年に書かれた管弦楽による民謡幻想曲『西の風』は、作曲者自身に取り下げられて出版されることはなかったが、1980年代になって[[ジェイムズ・カーナウ]]による木管バンド用編曲の形で世に出された<ref>Dickinson (1995), pp. 192–193</ref>。

{{listen|type=music
|filename=Holst First Suite March.ogg
|title=軍楽バンドのための第1組曲変ホ長調から行進曲
|description=演奏:アメリカ海兵隊軍楽隊}}
[[第一次世界大戦]]開戦前の数年間、ホルストは様々なジャンルの作品を作曲した。マシューズは1908年の組曲『[[ベニ・モラ]]』において北アフリカの街を想起させる部分が、それまでで最も個性的な楽曲であると考える。第3曲では4[[小節]]の主題が絶え間ない繰り返しを受け、[[ミニマル・ミュージック|ミニマリズム]]の先駆けのようである。軍楽バンド向けには[[吹奏楽のための組曲 (ホルスト)#第1組曲|第1組曲]](1909年)と[[吹奏楽のための組曲 (ホルスト)#第2組曲|第2組曲]](1911年)をの2つの組曲を作曲しており、前者は金管バンドの定番曲であり続けている<ref name=grove/>。この作品は非常に独創的かつ重要な楽曲であり、ショートが述べるところの「バンドのレパートリーに浸透していた一般的な編曲ものやオペラ選集」から脱却する契機となった<ref>Short, p. 82</ref>。同じく1911年に書かれた『ヘクバの嘆き』は{{仮リンク|ギルバート・マリー|en|Gilbert Murray}}が翻訳した[[エウリピデス]]に曲を付けたもので、ディッキンソン曰く7拍子の繰り返しが[[ヘカベー]]の神聖な憤怒による反抗を表現しているのだという<ref>Dickinson (1995), p. 22</ref>。1912年には2つの詩篇への曲付けを行っており、そこで彼は[[単旋聖歌]]による実験を行っている<ref name=H662>Holst (1980), p. 662</ref>。同じ年には長い人気を獲得した『[[セントポール組曲]]』(ディッキンソンによると「陽気だが退行的な」楽曲<ref>Dickinson (1995), p. 167</ref>)が生まれ、大規模な管弦楽作品『Phantastes』が失敗に終わっている<ref name=grove/>。

=== 全盛期 ===
==== 『惑星』 ====
{{Main|惑星 (組曲)}}
[[File:Jupiter 2019 July 21 - Flickr - geckzilla.png|thumb|木星。]]
ホルストは1913年に『惑星』の着想を得た。ひとつには彼が占星術に対して関心を持っていたからであり{{refn|当時、ホルストは{{仮リンク|アラン・レオ|en|Alan Leo}}が著した小冊子『What is a Horoscope?』([[ホロスコープ]]とは何か)を読んでいるところだった<ref>Short, p. 122</ref>。|group= "注"}}、もうひとつには『Phantastes』では失敗したものの大規模管弦楽作品を制作しようという決意があったからである<ref name=dnb/>。選択された形式はシェーンベルクの『[[5つの管弦楽曲 (シェーンベルク)|5つの管弦楽曲]]』に影響を受けている可能性があり、またマシューが提唱するのは[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]』もしくは『[[海 (ドビュッシー)|海]]』と美学的ななにがしかに共通するところがあるということである<ref name=grove/><ref>Dickinson (1995), p. 169</ref>。ホルストが『惑星』の作曲に着手したのは1914年であった。楽曲は最終的な曲順の通りに生まれていったわけではない。「火星」が最初に書き上げられ、「金星」、「木星」が続いた。「土星」、「天王星」、「海王星」の各曲は1915年に作曲され、「水星」が1916年に完成された<ref name=grove/>。

それぞれの惑星は異なった性格付けをされている。ディッキンソンは「他の星から色彩を借りている惑星はない」と述べる<ref>Dickinson (1995), p. 168</ref>。「火星」では、5拍子で不均等なリズムの塊が執拗に繰り返され、トランペットの咆哮と不協和な和声が組み合わされる。これによってもたらされる闘争の音楽について、ショートはその暴力と険しい恐怖の表現は独特であり「ホルストの意図は英雄的行為を美化することではなく、むしろ戦争の現実を描き出すことにある」と断言する<ref>Short, p. 123</ref>。「金星」では、ホルストは放棄された声楽作品である『ペンテコステの徹夜祷』から楽想を流用して開始部分とした。曲中の至るところで聞かれる雰囲気は平和な諦観と郷愁である<ref name=Matthews84/><ref>Short, pp. 126–127</ref>。「水星」は不揃いな拍子と主題の急速な変化に支配されており、羽の生えた使者の素早い飛行を表現する<ref>Dickinson (1995), pp. 121–122</ref>。「木星」は中間部の旋律「[[サクステッド (音楽)|サクステッド]]」が高名で、ディッキンソンの見解では「幻想的な休息、その中では多くの者がひそやかな歓びから距離を保っている」という<ref name=Dickinson123>Dickinson (1995), pp. 123–124</ref>。この曲は後に愛国的賛歌『[[我は汝に誓う、我が祖国よ]]』に用いられており、それはホルスト自身も加担して行われたことであったにもかかわらず、ディッキンソンや他の評論家は非難を浴びせている<ref name=dnb/><ref name=Dickinson123/>{{refn|ディッキンソンの著書を編集したアラン・ギブズは脚注において、ラグビー・ワールドカップで[[応援歌]]として歌われた「嘆かわしい1990年代バージョン」の「木星」を聴く前にディッキンソンとイモージェンがともにこの世を去っていたことは、おそらく幸運であったと述べている<ref name=Dickinson123/>。|group= "注"}}。

ホルストは「土星」にも過去の声楽作品である『Dirge and Hymeneal』を下敷きとして用いており、繰り返される和音が容赦なく歩み寄ってくる老いを表現する<ref>Short, pp. 128–129</ref>。続く「天王星」には[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の『[[幻想交響曲]]』や[[ポール・デュカス|デュカス]]の『[[魔法使いの弟子]]』の要素が盛り込まれ、「わずか数小節の間に曲の音響的推進力が'''''fff'''''から'''''ppp'''''へと減じ」ることで魔法使いが「ひと吹きの煙の中へ消える」様を描き出している<ref>Short, pp. 130–131</ref>。終曲にあたる「海王星」では歌詞のない女声が徐々に後退して閉じられ、ウォラックはその効果を「未解決の恒久性(中略)宇宙に終わりがないが故に決して終わることのない、しかし永久の沈黙へと漂い去っていく」様子になぞらえている<ref name=dnb/>。『我は汝に誓う、我が祖国よ』では妥協を許しはしたが、ホルストは作品全体が一体であることを主張し、各曲を独立して演奏することに反対した<ref name=dnb/>。にもかかわらず、この作品は「BGMとして断片化して引用される状態に苦しめられてきた」とイモージェンは記している<ref name=H663>Holst (1980), p. 663</ref>。

==== 円熟期 ====
[[File:P.3. Swansea City Centre 2012.jpg|left|thumb|[[スウォンジー]]の風景。]]
『惑星』の作曲期間及びその後の時期に、ホルストは多数の声楽曲、合唱曲を作曲もしくは編曲しており、その多くは1916年から1918年の戦中のサクステッドのウィツァン音楽祭のためのものだった。1916年の『6つの合唱民謡』は[[ウェスト・カントリー]]の楽曲に基づいており、中でも「スウォンジーの町」はその「洗練された音色」により最も記憶に残りやすいとディッキンソンは看做している<ref>Dickinson (1995), pp. 96—97</ref>。ホルストはそうした音楽は「芸術の限定的な形」であり、そこでは「マンネリ化はほぼ避けようがない」として軽視していた<ref>Short, p. 137</ref>。しかし、作曲家のアラン・ギブズはこの曲集が少なくともヴォーン・ウィリアムズの『5つのイギリス民謡』(1913年)に比肩するものであると考えている<ref>Gibbs, p. 128</ref>。


『惑星』に続くホルストの最初の大規模作品は、1917年に完成された『[[イエス賛歌]]』である。歌詞は[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]の[[使徒言行録]]、[[グノーシス主義]]のテクストから採られており、ホルストが[[クリフォード・バックス]]とジェーン・ジョゼフの助けを借りてギリシャ語から翻訳したものを用いている<ref>Dickinson (1995), p. 25</ref>。ヘッドは『イエス賛歌』の革新的性格について次のようにコメントしている。「ホルストはヴィクトリア朝やエドワード朝の感傷的なオラトリオを一気に投げ捨て、例えば[[ジョン・タヴナー]]が1970年代に書くことになるような作品の先駆けを創り出した<ref name=Hymn>{{cite journal|last= Head|first= Raymond|title= The Hymn of Jesus: Holst's Gnostic Exploration of Time and Space|jstor= 946668|journal= Tempo|issue= 209|date= July 1999|pages= 7–13}}</ref>。」マシューズはこの作品の「恍惚とした」特色に並ぶイングランドの音楽は「おそらく[[マイケル・ティペット|ティペット]]の『聖オーガスティンの幻影』だけであろう」と記した<ref name=grove/>。音楽的要素には単旋聖歌、対話を強調するために離れて配置された2群の合唱、舞踏的エピソード、そして「爆発的な和声的混乱」が含まれている<ref name=Hymn/>。
== 人物・来歴 ==
イングランド、[[グロスターシャー|グロスターシャー州]][[チェルトナム]]で生まれた。『[[ブリタニカ百科事典]]』では父親を[[スウェーデン人]]とするが<ref>{{citation|url=https://www.britannica.com/biography/Gustav-Theodore-Holst|title=Gustav Holst|publisher=Encyclopedia Britannica}}</ref>、『[[ニューグローヴ世界音楽大事典|ニューグローヴ]]』第2版によるとホルストの父方の曽祖父は[[リトアニア]]の[[リガ]](当時は[[ロシア帝国]]領)で生まれた[[バルト・ドイツ人|ドイツ系]]の人物で、[[サンクトペテルブルク]]で宮廷音楽家として働いていたが、後にイギリスに移住した{{r|ng}}。祖父・父も音楽家で、幼いころから父に音楽を学んだ{{r|ng}}。10代のころからすでに作曲を試み、チェルトナムで教会の[[オルガニスト]]および聖歌隊指揮者をこなしつつ作曲を行っていた{{r|ng}}。


『[[死への頌歌]]』(1918年-1919年)の静謐な、諦観した雰囲気は『イエス賛歌』の人生を豊かにする精神性の後の「急激な方向転換」であるとマシューズは見ている<ref name=grove/>。この作品についてウォラックは遠くに静けさがあると言及しており<ref name=dnb/>、イモージェン・ホルストはホルストの死に対する私的な態度を表明しているのだと考える<ref name=H663/>。この曲は1922年の初演以来滅多に演奏されないが、作曲家の[[アーネスト・ウォーカー (作曲家)|アーネスト・ウォーカー]]はそれまでのホルストの最良の作品であると考えていた<ref>Dickinson (1995), p. 36</ref>。
[[1893年]]、[[ロンドン]]の[[王立音楽院]]に入学して[[チャールズ・ヒューバート・パリー|パリー]]や[[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード|スタンフォード]]の下に音楽を学んだ<ref name="hf">{{citation|url=http://www.holstfoundation.org/Gustav.php|title=Gustav Holst|publisher=The Holst Foundation}}</ref>。1895年に音楽院の学位を取得した{{r|ng}}。同年[[レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|ヴォーン・ウィリアムズ]]と知り合い{{r|ng}}、とくに故郷を同じくグロスターシャーとすることもあり、親交を深めた。1898年に王立音楽院を去っていったん[[カール・ローザ]]・オペラの[[トロンボーン]]奏者および声楽教師の職を得るが<ref name="hf"/>、その後は教職につき、1905年から没するまで約30年にわたってロンドン西部の[[ハマースミス]]にある[[セント・ポール女学校]]の音楽教師の仕事の傍ら作曲活動を行った。


大きな影響力のあった評論家の[[アーネスト・ニューマン]]は『[[どこまでも馬鹿な男]]』こそが「現代イギリスのオペラの最高峰」であると考えたが<ref>{{cite news|last=Newman|first=Ernest|title=The Week in Music|newspaper=The Manchester Guardian|date=30 August 1923|page=5}}</ref>、この作品は『タイムズ』紙から「華麗なパズル」と評されたような、約1時間という例外的に短い上演時間、パロディー風で気まぐれな性質によりオペラの本流の外側に置かれてしまっている<ref name=timespf>{{cite news|title=The Perfect Fool|newspaper=The Times|date=15 May 1923|page=12}}</ref>。このオペラからは、同じく『タイムズ』紙が「華麗な瞬間により煌めく作品中で最も華麗なもの」と称したバレエ音楽のみが1923年以降も敵的に演奏されている<ref>{{cite news|title=The Unfamiliar Holst|newspaper=The Times|date=11 December 1956|page=5}}</ref>。ホルストによる[[リブレット (音楽)|リブレット]]は批判の的となったものの、[[エドウィン・エヴァンズ (音楽評論家)|エドウィン・エヴァンズ]]はオペラ中で歌唱されている言葉が聞き取れるよう珍しい取り扱いがなされていると述べている<ref>Short, p. 214</ref>。
学生時代のホルストは[[ウィリアム・モリス]]のハマースミス社会主義者協会に参加し<ref name="bio2">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=2|title=A Biography of Gustav Holst 2.Falling in Love|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>、[[1896年]]に協会の合唱団の指揮者に招かれた。[[1901年]]には合唱団のメンバーであったイソベル・ハリソンと結婚している<ref name="hf"/>。1900年に作曲された『[[コッツウォルズ]]交響曲』の第2楽章はモリスに捧げる哀歌である<ref name="bio2"/>。


=== 後期作品 ===
[[1905年]]に初演された『神秘的なトランペット吹き』には[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]からの強い影響が見えるが、その後はより単純なイギリス民謡に引かれるようになっていった<ref>{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=3|title=A Biography of Gustav Holst 2.A Gifted Teacher|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。[[1910年代]]には[[テューダー朝]]時代の[[マドリガル]]や、[[ウィリアム・バード|バード]]・[[ヘンリー・パーセル|パーセル]]などの古いイギリスの音楽も好んだ<ref name="bio4"/>。
[[File:Moritz Retzsch Henry IV part 1 act 2 sc 4.jpg|thumb|upright=1.1|『[[ヘンリー四世 第1部]]』から「猪の頭」の場面(線画、1853年)。]]
1924年に休養を余儀なくされるまで、ホルストは[[対位法]]へ新たな関心を寄せており、1922年の『フーガ風序曲』や1923年のフルート、オーボエと弦楽合奏のための[[新古典主義音楽|新古典主義]]的『フーガ風協奏曲』にそれが表れている<ref name=grove/>。最後の10年間で彼は歌曲や小規模作品を、大規模作品と合わせたり時には新たな試みを行ったりした。各楽器が異なる調性で演奏する1925年の[[フルート、オーボエとヴィオラのための三重奏曲]]は、イモージェンにホルストの[[室内楽|室内楽曲]]で唯一の成功作品として挙げられている<ref>Holst (1986), p. 72</ref>。1924年に完成された『[[合唱交響曲 (ホルスト)|合唱交響曲]]』に関して、本物の良質を備えた複数楽章に続く終楽章はとりとめがなく拍子抜けであるとマシューズは記している<ref name=grove/>。最後から2番目のオペラ『[[猪の頭]]』(1924年)は[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[ヘンリー四世 第1部]]』と『[[ヘンリー四世 第2部|同 第2部]]』の居酒屋の場面を基にして書かれている。大部分が[[セシル・シャープ]]が収集したイングランドの旋律やその他のコレクションから採られたその音楽には、速度と活気がある<ref name=grove/>。同時代の評論家であるハーヴィー・グレースは、独自性に欠けることは「作曲者が素材を取り扱うことが、素材を創作すること同様の説得力を示すことができる」側面であると述べ、考慮から外している<ref>{{cite journal|last= Grace|first= Harvey|title= At the Boar's Head: Holst's New Work|jstor= 912399|journal=[[ミュージカル・タイムズ|The Musical Times]]|volume= 66|issue= 986|date= April 1925|pages= 305–310}}</ref>。


『[[エグドン・ヒース (ホルスト)|エグドン・ヒース]]』(1927年)は『惑星』以来初となるホルストの大規模管弦楽曲である。マシューズはこの音楽は「3つの主要要素により捉えどころがなく、予測不能である:それらは、生気なく彷徨う[弦楽器のための]旋律、悲し気な金管の行進、弦楽器とオーボエのための落ち着きのない音楽である」と要約している。終盤にかけての神秘的な舞曲については、「奇妙な作品中の最も奇妙な瞬間」であるとマシューズは述べる<ref name=grove/>。『Music & Letters』誌のリチャード・グリーンは、この作品を「[[シチリアーナ|シチリアーノ]]のリズムによる簡素な、1歩ずつの、揺れるリズムを持つ[[wikt:larghetto|ラルゲット]]の舞曲」と評するが、『惑星』で見られた力感を欠いており、時に聴衆にとって単調に聞こえると表現する<ref>{{cite journal|last= Greene|first=Richard|title=A Musico-Rhetorical Outline of Holst's 'Egdon Heath'|jstor=735933|journal=Music & Letters|volume= 73|issue=2|date=May 1992|pages=244–67|doi=10.1093/ml/73.2.244}} {{subscription}}</ref>。より大衆的な成功を収めたのは、1928年に全英ブラスバンド選手権大会の課題曲として書かれたブラスバンドのための『[[ムーアサイド組曲]]』である。曲は国北部の金管合奏音楽の伝統の範疇で書かれているが、ショートはこの組曲に見紛うことのないホルストの印が刻まれていると述べる。それは「最初のスケルツォでの跳ねるような6/8拍子から、終曲となる行進曲で活発に旋律を作る4分音符まで[刻まれており]、間に挿入される夜想曲は『土星』における遅い動きの行進への[[家族的類似]]を有している<ref>Short, p. 263</ref>。」『ムーアサイド組曲』は『[[ミュージカル・タイムズ]]』誌に2017年に掲載された論文で大規模な修正論を提示されている<ref>Stephen Arthur Allen, 'Symphony within: rehearing Holst's "A Moorside Suite"', The Musical Times (Winter, 2017), pp.7–32</ref>。『エグドン・ヒース』が交響曲として委嘱を受けた作品であったことを受け、論文はこのブラスバンド作品の交響的性質を明らかにしている。
[[1895年]]ごろから<ref name="bio2"/>ホルストはインド文学に傾倒し、1909年には[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]で[[サンスクリット]]を学んだ。20世紀の最初の10年ほどの間に、交響詩『インドラ』、オペラ『シーター』および『サーヴィトリー』、[[カーリダーサ]]『[[メーガ・ドゥータ]]』にもとづく合唱曲『雲の使者』、および[[リグ・ヴェーダ]]の讃歌にもとづく多数の合唱曲や歌曲を発表している。中でも[[1913年]]に初演された大曲の『雲の使者』は自信作であったが成功せず、ホルストはひどく意気消沈している<ref>{{citation|url=http://www.gustavholst.info/compositions/listing.php?work=64|title=The Cloud Messenger Op. 30|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。


この後、ホルストはクリフォード・バックスのテクストを用いて陽気な調子のオペラに取り組んだ。オペラへの最後の取り組みとなる『[[放浪学者]]』(1929年-1930年)である。イモージェンはその音楽について「[[wikt:scherzando|スケルツァンド]]の(遊び心のある)気分で最高の状態のホルスト」であると言及する<ref name=H664/>。ヴォーン・ウィリアムズはその活気ある民謡調のリズムにコメントを寄せ「このオペラには《少しだけ》6/8拍子が多過ぎると思うかね?」と述べた<ref>Quoted in Short, p. 351</ref>。ショートの述べるところでは、開始部の[[モチーフ (音楽)|モチーフ]]が特定の性格を持たせられずに複数回再登場するが、これによって作品に音楽的統一感が与えられるという<ref>Short, p. 420</ref>。
『雲の使者』や、[[アルジェリア]]の民族音楽に影響を受けて書かれた管弦楽組曲『ベニ・モラ』などの失敗でふさぎこんでいたホルストは、作曲家[[アーノルド・バックス]]の弟のクリフォード・バックスとスペインを旅行し、このときにクリフォード・バックスから[[占星術]]の知識を得た<ref>{{citation|url=http://www.gustavholst.info/compositions/listing.php?work=18|title=The Planets Op. 32|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。おそらくこのことがきっかけとなって、ホルストは組曲『惑星』を作曲した。ホルストの名声は[[1920年]]に初演されたこの曲によって一気に高まった。やはり1920年に初演された『イエス讃歌』も大成功であった<ref name="bio4">{{citation|url=http://www.gustavholst.info/biography/index.php?chapter=4|title=A Biography of Gustav Holst 4.Planetary Fame|author=Ian Lace|publisher=The Gustav Holst Website}}</ref>。ホルストはその後も多くの作品を発表したが、『惑星』以上に名声を博す作品を遺すことはなかった。


ホルストは最後の数年で大規模作品は数曲しか作曲しなかった。1930年の『[[合唱幻想曲 (ホルスト)|合唱幻想曲]]』は[[グロスター]]の[[スリー・クワイア・フェスティバル]]のために書かれた。曲の開始と終了にはソプラノの独唱者があてられ、合唱、弦楽合奏、金管と打楽器を要する。さらに充実したオルガン独奏が入り、これはイモージェン・ホルスト曰く「『エグドン・ヒース』の《巨大で神秘的な》孤独のなにがしかを知っている」のだという<ref>Holst (1986), pp. 100–101</ref>。未完成に終わった最後の交響曲を除くと、ホルストの残りの作品は小編制で書かれている。1932年の8つのカノンは彼の教え子たちに捧げられた作品であるが、イモージェンの見立てではこの作品は大半のプロの歌手にすら恐るべき試練を課すものだという。『[[ブルック・グリーン組曲]]』はセント・ポール女学校の管弦楽団のために書かれており、遅まきながら『[[セントポール組曲]]』と対になる楽曲である<ref name=H663/>。ヴィオラと小管弦楽のための『[[抒情的断章]]』(1933年)は[[ライオネル・ターティス]]のために作曲された。静かでありかつ瞑想的で、独奏者にあまり技巧性が要求されないこの作品が、ヴィオラ奏者の間で人気を獲得するのは遅かった<ref>Short, pp. 324–325</ref>。『ペンギン・ミュージック・マガジン』誌の[[ロビン・ハル (音楽評論家)|ロビン・ハル]]は、この作品の「澄み切った美しさ - 他の作曲家の芸術とは見間違えようのないもの」を賞賛したが、ディッキンソンの考えによると同曲は「脆弱な創作物」に留まっている<ref>Dickinson (1995), p. 154</ref>。ホルスト最後の作品となる、構想に終わった交響曲のスケルツォ楽章には、彼の過去の音楽の多くで特徴となっていたものが特色として含まれており、ショートによれば「ホルストの管弦楽芸術の要約」となっているという<ref>Short, pp. 319–320</ref>。ディッキンソンはこの作品にみられる幾分くだけた素材の集まりからは、書かれていたかもしれない交響曲に関する示唆はあまり得られないと論じている<ref>Dickinson (1995), p. 157</ref>。
1930年代にはいると健康状態が悪化した。1932年の『[[ハマースミス (吹奏楽曲)|ハマースミス]]』の初演はホルスト本人が指揮する予定だったが病気のためにキャンセルになった<ref>{{citation|url=https://www.boosey.com/shop/prod/Holst-Gustav-Hammersmith-op-52-Symphonic-Band-Set/601521|author=Nikk Pilato|title=Hammersmith: Prelude & Scherzo (Symphonic Band Score & Parts)|publisher=Boosey & Hawks}}</ref>。1934年のオペラ『放浪学者』の初演にも出席することができなかった<ref name="ng">{{cite book|author=Colin Matthews|year=2001|chapter=Holst, Gustav(us Theodore von)|title=Grove Music Online|publisher=Oxford University Press|doi=10.1093/gmo/9781561592630.article.13252}}</ref>。その後『ハマースミス』は1954年、『放浪学者』は[[ベンジャミン・ブリテン]]によって1951年に蘇演されるまで忘却されていた{{r|ng}}。病床にあってもホルストは作曲を続けた{{r|ng}}。


== 録音 ==
1934年、[[消化性潰瘍|出血性胃潰瘍]]のためロンドンで没した。59歳だった。[[エドワード・エルガー]]と[[フレデリック・ディーリアス]]も同じ年に没している。
ホルストは自作を[[指揮 (音楽)|指揮]]して複数の録音を残している。[[コロンビア・グラモフォン・カンパニー|コロンビア・グラモフォン]]へは1922年に[[アコースティック録音]]により[[ロンドン交響楽団]]と『ベニ・モラ』、『行進の歌』、そして『惑星』全曲を録音した。録音に由来する制約により「海王星」の最後で女声が次第にフェードアウトしていく様は表現できておらず、効果的な低音を得るために低弦をチューバと置き換える必要があった<ref>Short, p. 205</ref>。1925年には名称不詳の弦楽オーケストラと組んだ『セントポール組曲』と『田園の歌』の録音がある<ref>{{cite news|title= Columbia Records|newspaper=The Times|date=5 November 1925|page=10}}</ref>。コロンビア社と競っていた[[グラモフォン・カンパニー]]からは[[アルバート・コーツ]]の指揮、名称不詳の管弦楽団の演奏により、同じレパートリーから一部の楽曲の録音が制作された<ref>{{cite news|title= Gramophone Notes |newspaper=The Times|date=9 June 1928|page=12}}</ref>。[[電気録音]]が導入されて音質が劇的に改善されると、ホルストとロンドン交響楽団は1926年にコロンビア社で『惑星』の再録音を行った<ref>Short, p. 247</ref>。


[[レコード#LP盤|LP盤]]の初期にはホルストの音楽で音盤になるものはほとんどなかった。1955年版の『[[レコード・ガイド]]』誌に掲載されているホルスト作品は僅か6曲、『惑星』(HMVとNixaへのボールトの録音、[[デッカ・レコード|デッカ]]への[[マルコム・サージェント]]の録音)、バレエ音楽版『[[どこまでも馬鹿な男]]』、『セントポール組曲』、そして3つの短い合唱作品のみであった<ref>Sackville-West and Shawe-Taylor, pp. 378–379</ref>。ステレオLPからCDの時代になると、世界中の楽団と指揮者による数多くの『惑星』の録音が生まれた。21世紀のはじめまでには管弦楽曲、合唱曲のうち有名作品の大半、無名作品の多くの音源が発売されてきた。2008年版の『ペンギン・ガイド』誌には、7ページにわたってホルスト作品を収めたCDが列挙されている<ref>March, pp. 617–623</ref>。オペラに関しては『サーヴィトリ』、『放浪学者』、『猪の頭』が録音されている<ref>[http://www.worldcat.org/title/savitri-an-episode-from-the-mahabharata/oclc/18508869&referer=brief_results "Savitri"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180612144230/http://www.worldcat.org/title/savitri-an-episode-from-the-mahabharata/oclc/18508869%26referer%3Dbrief_results |date=12 June 2018 }}; and [http://www.worldcat.org/title/wandering-scholar-at-the-boars-head/oclc/39784315&referer=brief_results "Wandering scholar / At the Boar's Head"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180612143102/http://www.worldcat.org/title/wandering-scholar-at-the-boars-head/oclc/39784315%26referer%3Dbrief_results |date=12 June 2018 }}, WorldCat, accessed 24 March 2013</ref>。
=== エピソード等 ===
[[小惑星]] (3590) の[[ホルスト (小惑星)|ホルスト]]は、グスターヴ・ホルストにちなんで命名された。


=== 家族 ===
== 遺産 ==
{{Quote box|width=246px|bgcolor=#c6dbf7|align=left|quote=直截さと真摯さに価値を置き、音楽は有閑の少数のための秘密の領域ではなく日々の生活に欠くことのできないものだと捉える、我々全員の作品に[ホルストの]影響は残り続けている。|salign = left |source=<br/>[[エドマンド・ラッブラ]]による賛辞<ref>From "GH: An account of Holst's attitude to the teaching of composition, by one of his pupils", first published in ''Crescendo'', February 1949. Quoted by Short, p. 339</ref>。}}
* 妻:'''イゾベル'''({{Lang|en|Isobel}})
ホルストは民謡について、おそらく他のイングランドの作曲家よりも、本能的にその重要性への理解を獲得したとウォラックは強調している。民謡の中に彼は「旋律がいかに構成されるのかということのみならず、円熟の芸術的語法の発展に対するいかなる示唆があるかについて、新たな思想」を見出したのである<ref name=dnb/>。ホルストは作曲の楽派というものを形成したり導いたりすることはなかったが、同時代人にも後進にも影響を及ぼした。ショートによるとヴォーン・ウィリアムズはホルストを「私の音楽が受けた最大の影響」と評したというが<ref name=Short336>Short, pp. 336–38</ref>、マシューズは2人は互いに等しく影響を与えあったのだと主張する<ref name=grove/>。後の作曲家の中ではショートは[[マイケル・ティペット]]がホルストの「最も重要な芸術的後継者」であると認識しているが、それは作曲様式の面、そしてモーリー・カレッジの音楽監督を引き継ぎ同校でホルストの音楽精神を維持したという面の両面による<ref name=Short336/>。ホルストとのかつての出会いについて、ティペットは後年次のように書いている。「ホルストは鋭い精神的視点によって、私のただ中を見ているかのようだった<ref>Tippett, p. 15</ref>。」ケネディはこう述べる。「新しい世代の聴き手は(中略)彼らがブリテンやティペットの音楽において称賛しているものの多くの起源をホルストに認めた<ref name="OCM"/>。」ホルストの弟子であった[[エドマンド・ラッブラ]]は、自らや他の若いイングランドの作曲家たちが、いかにホルストのスタイルの省力さを取り入れていったのかを認めている。「いかなる熱意をもって我々が骨組みまで音楽を削ぎ落していったことか<ref name=H664/>。」
* 子:'''[[イモージェン・ホルスト|イモージェン]]'''({{Lang|en|Imogen}}、[[1907年]] - [[1984年]]) - 妻イゾベルとの間に生まれた娘のイモージェンもまた作曲家であり、指揮者、音楽学者としても知られる。


ショートはホルストに負うところのあるイングランドの作曲家として特に[[ウィリアム・ウォルトン]]と[[ベンジャミン・ブリテン]]を引き合いに出し、ホルストの影響はさらに離れたところでも感じられる可能性があると論じる{{refn|ショートの述べるところでは、「木星」の上昇する4度は[[アーロン・コープランド]]の『[[アパラチアの春]]』で聞かれると述べ、『イエス賛歌』は[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の『[[詩篇交響曲]]』と「正式な連作カンタータ」の先駆と考えられるのではないかと論じる。とはいえ「ストラヴィンスキーがこの作品を熟知していたか、もしくは知っていたかすらも疑わしい」ということは認めている<ref>Short, p. 337</ref>。|group= "注"}}。なによりも、ホルストは祭典、祝典、儀式、クリスマスキャロル、もしくは簡素な讃美歌など、実用的な目的のために音楽を提供することが作曲家の義務であると信じる人々のための作曲家であったとショートは認識している。こうして、ショート曰く「[ホルスト]の主要作品を一度も聴いたことのない多くの人々(中略)であっても『[[木枯らし寒く吹きすさび]]』のようなキャロルの小さな傑作を聴き、歌うことで大きな喜びを得ているのである<ref>Short, p. 339</ref>。」
== 主な作品 ==
{{作品一覧|グスターヴ・ホルストの楽曲一覧}}
ホルストはオペラや歌曲・ピアノ曲なども多数作っているが、主に[[管弦楽曲]]や[[吹奏楽曲]]、弦楽合奏曲が広く知られる。
* [[惑星 (組曲)|組曲『惑星』]] 作品32(管弦楽曲) - 7楽章から成る大編成の管弦楽のために書かれた組曲で、最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われる。[[占星術]]から着想を得て書かれた作品である。
* [[サマセット狂詩曲]] 作品21-2(管弦楽曲) - 後にクレア・グランドマンによって吹奏楽用に編曲された。
* [[セントポール組曲]] 作品29-2(弦楽合奏曲、オプションで木管楽器も追加)
* [[吹奏楽のための組曲 (ホルスト)|吹奏楽のための第1組曲・第2組曲]] 作品28-1/2(吹奏楽曲) - [[吹奏楽]]の分野における古典的な演奏会用作品の一つとして、極めて重要な位置を占める楽曲。
* [[ムーアサイド組曲]]([[英国式ブラスバンド|ブラスバンド]]曲、弦楽合奏曲にも編曲) - 他の作編曲家によって管弦楽用、吹奏楽用にも編曲された。
* [[ハマースミス (吹奏楽曲)|ハマースミス]] 作品52(吹奏楽曲、のちに管弦楽曲)
* エグドン・ヒース 作品47 {{enlink|Egdon Heath (Holst)|''Egdon Heath''}} - [[トーマス・ハーディ]]の小説『帰郷』(原題:{{enlink|The Return of the Native|i=on|s=off}})の舞台を描いた管弦楽作品で、副題には「ハーディを賛えて」とある。
* ベニ・モラ 作品29-1 {{enlink|Beni Mora|''Beni Mora''}} - 東洋的な曲調の組曲で、3つの楽章からなる。
* 冬のさなかに {{enlink|In the Bleak Midwinter}} - [[クリスティーナ・ロセッティ]]の詩により1906年に作曲された[[クリスマス・キャロル]]で、『3つの讃歌』(H.73)の第1曲。日本の[[讃美歌 (1954年版)]]では486番。[[オーボエ]]奏者のマルコム・メシター{{enlink|Malcolm Messiter}}による編曲版でも知られる。
* [[日本組曲 (ホルスト)|日本組曲]] 作品33 - 舞踊家[[伊藤道郎]]の依頼により作曲された6楽章から成る[[バレエ|バレエ音楽]]。全編を通して日本[[民謡]]の旋律により構成されている。


[[File:Memorial For Gustav Holst.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|チチェスター大聖堂|en|Chichester Cathedral}}にある記念銘板。]]
== 使用 ==
2009年9月27日、ホルストを記念するコンサートを週末に{{仮リンク|チチェスター大聖堂|en|Chichester Cathedral}}で催したのち、彼の死後75年を記念する新たな記念銘板が除幕された。そこには『イエス賛歌』から次のテクストが刻まれた。「天国的な天体群が我々へと音楽を授ける<ref>{{cite web|title=A New Memorial for Gustav Holst|url=http://www.chichestercathedral.org.uk/news/a-new-memorial-for-gustav-holst-posted-15-jan-2010.shtml|publisher=Chichester Cathedral|accessdate=20 April 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20150422235240/http://www.chichestercathedral.org.uk/news/a-new-memorial-for-gustav-holst-posted-15-jan-2010.shtml#|archive-date=22 April 2015|url-status=dead}}</ref>」。2011年4月に[[英国放送協会|BBC]]はテレビドキュメンタリー『Holst: In the Bleak Midwinter』を放送してホルストの生涯を描き、とりわけ社会主義と労働者の主張への肩入れに焦点を当てた<ref>{{cite web|title=In the Bleak Midwinter|url=http://www.bbc.co.uk/programmes/b010p530|publisher=BBC|accessdate=25 March 2013|archive-date=15 October 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20131015060149/http://www.bbc.co.uk/programmes/b010p530|url-status=live}}</ref>。ホルストの生家であるチェルトナム、{{仮リンク|ピットヴィル|en|Pittville}}のピットヴィル・テラス4(後にクラレンス・ロード4と呼ばれるようになった)には、現在ホルスト博物館が開館しており、訪問客を受け入れている<ref>[https://holstvictorianhouse.org.uk/ Holst Museum]. Retrieved 28 July 2021</ref>。
ホルストの楽曲のうちでは『惑星』がずば抜けてよく知られ、とくに「木星」の中間部にはさまざまな歌詞がつけられて、編曲されている([[サクステッド (音楽)|サクステッド]]、および[[我は汝に誓う、我が祖国よ]]を参照)。


それ以外の曲が使われることは少ないが、[[ビリー・アイリッシュ]]の2021年のアルバム『[[ハピアー・ザン・エヴァー]]』に収録された「ゴールドウィング」が、ホルストの『リグ・ヴェーダからの合唱讃歌第3集』作品26(1910年)の第3曲の[[ヴェーナ]]賛歌をそのまま使っていることが話題になった<ref>{{citation|url=https://www.classicfm.com/composers/holst/billie-eilish-goldwing-hymn/|author=Kyle Macdonald|title=This Billie Eilish song is based on a Gustav Holst hymn with a 3,000-year-old Sanskrit text|date=2021-08-05|publisher=classicfm.com}}</ref>。
ホルストの楽曲のうちでは『惑星』がずば抜けてよく知られ、とくに「木星」の中間部にはさまざまな歌詞がつけられて、編曲されている(『[[サクステッド (音楽)|サクステッド]]』および『[[我は汝に誓う、我が祖国よ]]』を参照)。それ以外の曲が使われることは少ないが、[[ビリー・アイリッシュ]]の2021年のアルバム『[[ハピアー・ザン・エヴァー]]』に収録された「ゴールドウィング」が、ホルストの『リグ・ヴェーダからの合唱讃歌第3集』作品26(1910年)の第3曲の[[ヴェーナ]]賛歌をそのまま使っていることが話題になった<ref>{{citation|url=https://www.classicfm.com/composers/holst/billie-eilish-goldwing-hymn/|author=Kyle Macdonald|title=This Billie Eilish song is based on a Gustav Holst hymn with a 3,000-year-old Sanskrit text|date=2021-08-05|publisher=classicfm.com}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em|group="注"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|}}


=== 注釈・出典 ===
== 参考文献 ==
* {{cite book | last=Boult | first=Adrian |author-link=エイドリアン・ボールト|title=My Own Trumpet | location=London | publisher=Hamish Hamilton | year=1973 | isbn=0-241-02445-5}}
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* {{cite book | last= Boult | first= Adrian | year=1979 | title=Music and Friends | location= London | publisher= Hamish Hamilton | isbn = 0-241-10178-6}}
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* {{cite book |author-link= マイケル・ティペット| last= Tippett|first= Michael|title= Those Twentieth Century Blues|publisher= Pimlico|location= London|year= 1991|isbn= 0-7126-6059-3}}
* {{cite book | last= Vaughan Williams|first=Ralph|author-link=レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ|editor= Hugh Cobbe | title= Letters of Ralph Vaughan Williams | year=2008 | location=Oxford and New York | publisher=Oxford University Press | isbn=0-19-925797-3 }}


== 外部リンク ==
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* {{IMSLP|id=Holst%2C_Gustav|cname=グスターヴ・ホルスト}}
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* [http://www.gustavholst.info/ The Gustav Holst Website]
* {{ChoralWiki|Gustav Holst}}
* {{IMDb name|id=0392304}}
* [http://www.gustavholst.info グスターヴ・ホルスト ウェブサイト(非公式)] {{en icon}}
* {{Internet Archive author |sname=Gustav Theodore Holst}}
* {{Librivox author |id=205}}


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[[Category:1874年生]]
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2024年3月3日 (日) 17:19時点における版

グスターヴ・ホルスト
Gustav Holst
基本情報
生誕 1874年9月21日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドチェルトナム
死没 (1934-05-25) 1934年5月25日(59歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドロンドン
学歴 王立音楽院
ジャンル 合唱曲吹奏楽管弦楽
職業 作曲家
活動期間 1895年 - 1934年

グスターヴ・シオドア・ホルストGustavus Theodore von Holst, [ˌɡʊstɑːv/ˌɡʌstɑːv ˈθiəˌdɔː ˈhəʊlst][1][2]/ , 1874年9月21日 - 1934年5月25日)は、イングランド作曲家、編曲家、教育者。出生名はグスターヴァス・シオドア・フォン・ホルスト(Gustavus Theodore von Holst)。最も知られる作品は管弦楽組曲『惑星』であり、他にも様々なジャンルに数多くの楽曲を遺しているがいずれも『惑星』に並ぶ成功を収めてはいない。多くの影響を受けて成立した彼の特徴的な作曲スタイルであるが、中でも成長期のはじめに決定的な影響を与えたのはワーグナーリヒャルト・シュトラウスの2人であった。続いて霊感の源となったのは20世紀初頭に起こったイングランドの民謡復興運動、そしてラヴェルらの台頭する同時代の作曲家たちであり、それらによってホルストは独自の様式を発展、洗練させていった。

ホルストの一家は3代にわたってプロの音楽家を輩出しており、彼が同じ天職に就くであろうことは幼少期から明らかであった。音楽家であった父に幼いころから音楽を学び、10代のころからすでに作曲を試みていた[3]。彼はピアニストになることを夢見ていたが、右腕の神経炎により叶わなかった。父は心配していたものの彼は作曲家として身を立てることを志し、王立音楽大学に入学してチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの下で学んだ。しかし作曲だけでは食べていくことが出来ず、プロとしてトロンボーンを演奏し、後には教壇にも立った - 同僚のレイフ・ヴォーン・ウィリアムズによれば名教師であったらしい。教育活動としては、1907年から1924年まで音楽監督を務めたモーリー・カレッジ英語版で築き上げた強力な演奏の伝統、1905年から没する1934年まで教鞭を執ったセント・ポール女学校で開拓した女性のための音楽教育が特筆される。彼が創始したウィツァン英語版音楽祭シリーズは、1916年から彼が没するまで続けられた。

ホルストの作品は20世紀の初頭にも頻繁に取り上げられていたが、第一次世界大戦直後に『惑星』が国際的な成功を収めてはじめてその名が広く知られるようになった。内気な人物であった彼はこの名声を快く思わず、穏やかに作曲と教職に打ち込めることを望んだ。晩年にはその妥協を許さない個性的な作曲スタイルが多くの音楽愛好家の目に禁欲的に過ぎると映るようになり、一時は高まった人気も衰えていった。にもかかわらず、彼はエドマンド・ラッブラマイケル・ティペットベンジャミン・ブリテンといった数多くの若い世代のイングランドの作曲家たちに多大な影響を与えた。『惑星』とその他ごく一部を除く彼の音楽は1980年代まで総じて無視に甘んじてきたが、以降は多くの作品の録音が入手可能となっている。

生涯

若年期

家族的背景

ホルストの家系図、簡易版

ホルストはグロスタシャーチェルトナムに生まれた。父はプロの音楽家であったアドルフ・フォン・ホルスト[注 1]、母はクララ・コックス(旧姓レディアード)で、2人が授かった2児のうち上の子どもであった。母はほぼイギリス系の出自で[注 2]サイレンセスターの尊敬される弁護士の娘だった[6]。ホルスト家側ではスウェーデンラトヴィアドイツの血が混ざりあっており、過去3代にわたり最低ひとりプロの音楽家が輩出していた[7]

ホルストの曾祖父のひとりであったマティアス・ホルストは、ラトヴィアのリガに生まれたドイツ系であった。彼はサンクトペテルブルクのロシア帝国の宮殿に作曲家、ハープ教師として勤めていた[8]。マティアスの息子のグスタフスはまだ子どもであった1802年に両親と共にイングランドに移り[9]、サロン様式の音楽の作曲家、そしてよく知られたハープの教師となった。彼は貴族であることを示す接頭辞である「von」を勝手に取って一家の名前に加えており、これによって名声が高まること、生徒にとり魅力が増すことを願った[注 3]

ホルストの父親、アドルフ・フォン・ホルストはチェルトナムのオール・セインツ教会英語版のオルガニスト、合唱指揮者となり[11]、ピアノを教えた他に自らもリサイタルを開催した[11]。妻のクララはかつては彼の教え子であり、才能ある歌手でありピアニストであった。夫妻は2人の息子に恵まれた。グスターヴの弟のエミール・ゴットフリードはウェスト・エンドニューヨークハリウッドで俳優として成功を収め、アーネスト・コッサートという名前で知られた[12]。クララが1882年2月に他界し、一家はチェルトナム市内で別の家に移り住むと[注 4]、アドルフは子どもたちの育児の助けを得るべく姉妹のニーナを呼び寄せた。グスターヴは一家に対する彼女の献身を理解しており、初期の音楽作品を数点彼女へと捧げている[6]。1885年にアドルフはメアリー・ソーリー・ストーンと再婚、彼女も教え子のひとりであった。彼らはマサイアス(マックスとして知られた)、エヴリン(ソーリーとして知られた)という2男を儲けた[15]。メアリーは神智学に傾倒し、家庭内の物事にあまり関心を示さなかった。アドルフの4人の息子はいずれも、ある伝記作家が述べるところの「良性のネグレクト」に晒されることになり[15]、とりわけグスターヴは「過剰な注目や理解に悩まされることはなく、視力の弱さも胸の弱さもいずれも無視されていた - 彼は『惨めで怯えていた』[16]。」

幼年期、少年期

ホルストはピアノとヴァイオリンの演奏を教わった。ピアノは楽しめたがヴァイオリンは嫌っていた[17]。12歳になると父の勧めでトロンボーンを吹くようになった。これには金管楽器を演奏することで彼の喘息が改善するのではないかという父の考えがあった[18]。1886年から1891年にかけてはチェルトナム・グラマー・スクール英語版に通った[19]。1886年頃には作曲を開始している。トーマス・マコーリーの詩『Horatius』に霊感を受けて野心的な管弦楽と合唱のための作品に着手するも、まもなく放棄している[17]。彼の初期作品にはピアノ曲、オルガン・ヴォランタリー、歌曲、讃美歌、交響曲(1892年)がある。この時期に主に影響を受けていたのはメンデルスゾーンショパングリーグ、そしてとりわけサリヴァンであった[20][注 5]

息子にピアニストとしてのキャリアを歩ませたかったアドルフは、彼を作曲から遠ざけようと試みた。ホルストは神経過敏で哀れであった。視力が弱かったにもかかわらず、彼が眼鏡の着用を必要としていることに誰も気が付かなかった。彼の健康が彼の音楽的将来性を決めるのに決定的な役割を果たした。生まれつき病弱で、喘息と弱視に加えて神経炎に苦しみ、それによってピアノの演奏が困難となった[22]。彼は上手く動かない腕について「電気を過剰に流されたゼリーのよう」だと述べていた[23]

1891年に学校を卒業したホルストへアドルフが資金を出し、マートン・カレッジのオルガニストであったジョージ・フレデリック・シムスの下で対位法を学ぶべく4か月間オックスフォードで過ごした[24]。これが終わるとすぐ、グロスターシャーのウィック・リシントン英語版でオルガニスト兼合唱指揮者となった。これは彼が17歳にして就いた初めてのプロとしての職だった。この職にはボートン=オン=ザ=ウォーター合唱協会の指揮者の役割ももたらした。仕事が増えたことへの追加報酬は得られなかったものの貴重な経験となり、彼は指揮の技術を磨くことが出来た[17]。1891年11月、ホルストはおそらく初となるピアニストとしての公開演奏を行った。彼と父がチェルトナムの演奏会でブラームスの『ハンガリー舞曲』を演奏したのである[25]。このイベントのプログラムにはグスターヴァス(Gustavus)ではなくグスターヴ(Gustav)と名前が記されていた。彼は幼少期には既に短い名前で呼ばれていたのである[25]

王立音楽大学

1892年、ホルストはギルバート・アンド・サリヴァンの様式でオペレッタ『Lansdown Castle, or The Sorcerer of Tewkesbury』のための音楽を書いた[26]。楽曲は1893年にチェルトナム穀物取引所で演奏された。評判は上々で、この成功は彼に作曲を続けようという意欲をもたらした[27]。そこでロンドンに所在する王立音楽大学の奨学金への応募を行うことになったが、同年の作曲の奨学金を獲得したのはサミュエル・コールリッジ=テイラーであった[28]。ホルストは助成を受けない学生として入学を許可され、アドルフは初年度の学費を賄うために100ポンドを借り入れた[注 6]。ホルストは1893年5月にチェルトナムを後にロンドンへと向かい、一部には倹約のため、また一部には生来の性向により菜食主義者、禁酒家となった[28]。2年後にようやく奨学金を認められて経済的困難は若干和らげられたものの、彼は自ら課した厳格な規律を守った[29]

ホルストと生涯にわたる親交を結んだレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ

王立音楽大学でのホルストの教授陣はピアノのフレデリック・シャープ、オルガンのウィリアム・スティーヴンソン・ホイト、トロンボーンのジョージ・ケース[注 7] 、楽器法のジョルジュ・ジャコビ、そして大学の学長であった歴史のヒューバート・パリーである。ウィリアム・ロックストロフレデリック・ブリッジから導入の講義を受けた後、ホルストは念願かなってチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードから作曲を学ぶことが認められた[31][32]

学業に勤しむ傍ら、ホルストは生活の足しにするために夏季には海辺の行楽地で、冬季にはロンドンの劇場でトロンボーンを演奏して収入を得ていた[33]。彼の娘で伝記作家のイモージェン・ホルストが記録するところでは、演奏者としての収入により「彼は生活に必須な出費を賄うことが出来た。食事つきの下宿代、原稿用紙、ワーグナーの夕べにおけるコヴェント・ガーデン・オペラ・ハウスのギャラリー立見席のチケット代である[33]」。交響楽演奏会での時おりの雇用も確保しており、1897年にはクイーンズ・ホールにおいてリヒャルト・シュトラウスの指揮で演奏している[8]

同時代の多くの音楽家同様、ホルストもワーグナーの呪縛に囚われた。1892年にコヴェント・ガーデンで『神々の黄昏』を聴いた際にはその音楽にひるんでいたが、友人で同窓生のフリッツ・ハートに背中を押されて持ちこたえた彼は、瞬く間に熱心なワーグナー信者となっていた[34]。彼の音楽に与える影響の主たる部分でワーグナーはサリヴァンに取って代わり[35]、一時期はイモージェンの述べるところの「同化に失敗した『トリスタン』の断片が、彼自身の歌曲や序曲のほとんどあらゆるページに挿入された」ような状態となった[33]。1905年に初演された『神秘的なトランペット吹き』にはその強い影響が見出される[36]。スタンフォードはワーグナー作品の一部を賞賛し若い頃には影響を受けていたが[37]、ホルストによる半ワグネリアンの作品には強く反対した。「それじゃ上手くいかないよ、君。それじゃ上手くいかない[33]。」スタンフォードを尊敬していたホルストは、同窓生のハーバート・ハウエルズに恩師のことを「我々を技術的混乱から抜け出させることのできるただひとりの人物」と評していたが[38]、自分の成長により大きな影響を与えたのは教授陣ではなく、仲間の学生たちであったと悟ることになる[33]

1895年、21歳の誕生日を祝ったばかりのホルストはレイフ・ヴォーン・ウィリアムズと出会う。故郷を同じくグロスターシャーとすることもありホルストの生涯の友人となった彼は、他の誰よりもホルストの音楽に強い影響を与えることになる[39]。スタンフォードは自身の教え子たちに自己批判的であることの重要性を説いたが、ホルストとヴォーン・ウィリアムズは互いが相手の主評論家となった。2人は互いに自らの最新作を、まだ作曲中の段階で演奏して相手に聴かせていたのである。ヴォーン・ウィリアムズは後年、次のように述べている。「アカデミーや大学における真の学びといえば、公式な教員から学ぶことよりもむしろ同窓生から学ぶことにある。(中略)太陽の下で、コントラファゴットの最低音から『日陰者ジュード』の哲学に至るまで、あらゆる題材[を我々は議論した][40]。」1949年には2人の関係性について書き残している。「ホルストは自らの音楽が友人のそれに影響を受けているとはっきり述べた。逆もまた真なり、である[41]。」

1895年はヘンリー・パーセルの没後200周年でもあり、ライシアム劇場でスタンフォードが『ディドとエネアス』を指揮するなど、数々の公演が行われた[42]。この作品はホルストに深い感銘をもたらし[8]、20年以上が経過した後にある友人に対し、自らの「イングランドの言語の音楽的イディオム」探索は「パーセルの『ディド』で朗誦を聴いた」ことによって「無意識に」感化されているのだと告白している[43]。同年にホルストは王立音楽院の学位を取得している[3]

他に影響を受けたのがウィリアム・モリスである[44]。ヴォーン・ウィリアムズの言に依るとこうである。「ホルストは今や同郷人らとの一体感を見出し、それによって後に彼は優れた教師となった。政治的信念よりもむしろ同志であるという感覚により、ハマースミスのケルムスコット・ハウスに集った社会主義同盟に、まだ学生でありながら加盟することになった[41]。」モリスの住居であったケルムスコット・ハウスで、ホルストはモリスやジョージ・バーナード・ショーが開催する講義に出席していた。ホルスト自身の社会主義思想は穏健なものであったが、気の置けない仲間の存在とモリスを人として敬愛していたことで集まりを楽しんでいた[45]。彼の理想はモリスの思想に影響されていたが、重点は異なる部分に置かれていた。モリスは次のように記している。「私が少数の者への芸術を求めないのは、少数の者への教育、または少数の者への自由を求めないのと同じである。私は全ての人が両親がたまたま持っていた金銭の多寡に依るのではなく、各人の能力に従って教育を受けることを願っている[46]。」一方、ホルストはこう述べていた。「『芸術における特権階級』 - 芸術は全体ではなく選ばれた一部の者のみのもの - しかし、その選ばれた一部を見出す方法は全員に芸術を届けること - そして芸術家たちは民衆の中にいて互いを認識できる、ある種のフリーメイソン的な信号を有している[注 8]。」彼は1896年にハマースミス社会主義者合唱団に指揮者として招かれ、団員にトマス・モーリーマドリガル、パーセルの合唱曲、モーツァルト、ワーグナー、そして自身の作品を指導した[48]。合唱団の中に彼より2年年少で美しいソプラノの(エミリー・)イゾベル・ハリソン(1876年-1969年)がいた。ホルストは彼女へ恋に落ちるが、彼女の側は当初彼に興味を引かれていなかった。彼女を振り向かせて2人は婚約に至るが、ホルストのわずかな収入では結婚の見通しはすぐには立てられなかったのであった[48]

プロの音楽家として

ホルストが指揮する姿を捉えた野外の全身彫像
生地チェルトナムにあるホルスト像。左手に指揮棒を握っているが、右腕の神経炎に悩まされた彼がしばしば実践していた姿である[49]

1898年に王立音楽大学はホルストに奨学金の給付年数の延長を打診したが、彼は同校で学べることは学びつくしてしまい、曰く「実地で学ぶ」時であると感じていた[48]。彼の作品には出版、演奏されるものも出てきていた。前年の『タイムズ』紙は彼の歌曲『Light Leaves Whisper』を賞賛してこう記している。「6声からなる適度に洗練された作品、豊富な表現と詩的感情で処理されている[50]。」

時おりの成功に恵まれていながらも、ホルストは「人は作曲だけでは食べていけない」と悟る[41]。彼はロンドンの様々な教会でオルガニストの職を得て、劇場オーケストラでのトロンボーン演奏を続けた。1898年にカール・ローザ・オペラ・カンパニーで首席トロンボーン奏者、そしてコレペティートルに任用され、スコティッシュ管弦楽団と共に演奏旅行を行った。技巧的というより有能な奏者ではあったが、彼はコヴェント・ガーデンでの演奏で一流の指揮者であったハンス・リヒターから称賛を得ている[51]。ホルストの収入では食べていくのがやっとであったため[52]、彼はスタニスラス・ワーム(Stanislas Wurm)が指揮する「ホワイト・ウィーン・バンド」というポピュラー・オーケストラで演奏を行い収入の足しにした[53]。また、この頃には声楽教師の職にも就いている[32]

ホルストはワームのために演奏することに楽しみを見出し、奏者からルバートを引き出す術を彼に学んだ[54][注 9]。しかし、作曲に時間を充てることを望んでいたホルストは、「ザ・ワーム」(the Worm)や他のライト・オーケストラで演奏せねばならないことを「不快で煩わしい時間の浪費」と看做していた[55]。ヴォーン・ウィリアムズはこの件に関して、友人の意見に全面的に同意していたわけではない。彼は「くだらない」音楽もあることを認めつつ、それでもなおホルストにとっては有用であると考えていた。「まず第一に、トロンボーン奏者が絶えねばならない状況は、最悪でも教会オルガニストの我慢に比べれば何でもないかの如くである。そして第二に、ホルストは何より管弦楽の作曲家であり、彼の管弦楽書法を際立たせる確かな筆致は彼自身がオーケストラの奏者であるという事実によるところが大きい。彼は技法と実質的な部分で、教科書や理論から間接的にではなく、実際の演奏経験から自らの芸術を身に着けているのである[21]。」

控えめながらも収入が安定し、ホルストは1901年にイゾベルと結婚することが出来た[32]。1901年6月22日にフラム登記所での挙式となった。2人は生涯連れ添った。子どもはひとりで、1907年に生まれたイモージェンである[56]。1902年4月24日にダン・ゴドフリーボーンマス市立管弦楽団がホルストの交響曲『コッツウォルズ』(作品8)を初演した。この作品の第2楽章は、ホルストが作曲に着手する3年前の1896年10月にこの世を去ったウィリアム・モリスを追悼する哀歌となっている[57][58]。1903年には父のアドルフ・フォン・ホルストが他界し、わずかながら財産を遺した。イモージェンが後に記したところでは、ホルスト夫妻は「常に困窮していたために、唯一すべきことはそれをドイツでの休暇で一気に使い果たしてしまう」決意だったのだそうである[59]

作曲家、教師として

ホルストを記念する銘板
ロンドンのセント・ポール女学校に掲げられたブルー・プラーク

ドイツ滞在中、自らの職業人生について再考したホルストは、1903年にオーケストラで演奏することを止めにして、作曲へと集中することを決意した[13]。作曲家としての収入では生活することが出来ず、2年後にダリッチ英語版のジェームズ・アレン女学校英語版の教員ポストの提示を受諾、1921年まで教壇に立った。また、パスモア・エドワーズ・セトルメントでも教え、バッハカンタータを2作品イギリス初演するなど革新を行った[60]。彼の教員としての経歴で有名なのは、1905年から没するまで務めたハマースミスのセント・ポール女学校の音楽監督、そして1907年から1924年にかけてのモーリー・カレッジ英語版での音楽監督であろう[13]

ヴォーン・ウィリアムズは前者の学校について次のように記している。「同校での彼は女子学生が好むと思われるような幼稚な感傷性を排し、代わりにバッハやヴィットリアを据えた。未成熟な知性にとって優れた基礎となるものだ[41]。」セント・ポール女学校でのホルストの教え子には傑出したキャリアを歩むものも現れた。ソプラノのジョアン・クロス[61]オーボエコーラングレの奏者であるヘレン・ガスケルなどである[62]

モーリー・カレッジにおけるホルストの影響について、ヴォーン・ウィリアムズはこう書いている。「悪しき慣習は破壊されなければならなかった。結果ははじめこそがっかりするようなものであったが、まもなく新たな精神が立ち現れ、モーリー・カレッジの音楽はそこから生まれ出た『ウィツァンタイド音楽祭』と共に(中略)無視できない力となった[41]。」ホルスト着任前のモーリー・カレッジは、音楽をあまり真剣に扱っておらず(ヴォーン・ウィリアムズの言う「悪しき慣習」)、当初はホルストの厳しい要求に多くの学生が離れていった。彼は耐え忍び、次第に音楽愛好者に特化した講座を作り上げていったのである[63]

1920年代初頭にホルストの下で学んだ作曲家のエドマンド・ラッブラによると、ホルストは「講義に来るときに、プラウトステイナーに学ぶのではなく、『ペトルーシュカ』や当時出版されたばかりだったヴォーン・ウィリアムズのミサ曲 ト短調のミニチュア・スコアに重点を置くことの多い教師」だったという[64]。彼は作曲の生徒に決して自らの思想を押し付けようとはしなかった。学生が躓く個所を見抜き、本人が解決策を見出すよう優しく導くのだと、ラッブラは回想している。「ホルスト先生が私が書いたものにただの一音たりとも自らの音符を付け足したという記憶はない。そうではなく、彼は - 私が賛成した場合には! - これこれのフレーズがあったとして、これこれの経過を辿るのであればこちらの方がいいかもしれませんね、と提案してくれるのだ。もしこれを私が解しなかった場合には、そのポイントが強く主張されることはなかった。(中略)先生は本質的でないものを嫌悪[するが故に]取り除くことが多くあった[65]。」

フリードリヒ・マックス・ミュラー、1883年。

作曲家としてのホルストはたびたび文学から霊感を得ていた。トーマス・ハーディロバート・ブリッジズ英語版の詩句に曲を付したほか、ウォルト・ホイットマンの影響は特に大きく、『Dirge for Two Veterans』や『The Mystic Trumpeter』(1904年)で彼の言葉を楽曲に仕立てた。1899年には管弦楽のための『ウォルト・ホイットマン序曲』も書いている[8]。カール・ローザ・カンパニーに帯同してツアーをしていた際、ホルストはフリードリヒ・マックス・ミュラーの著書を数冊読み、それがきっかけとなってサンスクリット語のテクスト、特にリグ・ヴェーダの賛歌に強い関心を抱くようになった[66]。当時存在した英語版のテクストには説得力がないと感じた彼は[注 10]、言語学者としての技量がないにもかかわらず自作の翻訳を作成する決意をした。そこで言語学を学ぶため、1909年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンへ入学することになった[67]

イモージェン・ホルストは父の翻訳を次のように評する。「父は詩人ではなく、彼の韻文は時おり未熟と思われることがある。しかし、彼は『明瞭かつ威厳ある』言葉、そして『聴衆を別世界へ誘う』ような言葉選びを自らに課しており、決して曖昧であったりだらしなく聞こえることはないのである[68]。」サンスクリット語の翻訳へ音楽を付したものとしては、『ラーマーヤナ』のある逸話を基にした3幕のオペラ『シーター』(1899年-1906年、彼は最終的にこの作品をミラノの音楽出版社であるリコルディが主催した英語オペラコンクールに出品している)[69]、『マハーバーラタ』の一説に基づく室内オペラである『サーヴィトリ』(1908年)、4集からなる『リグ・ヴェーダからの賛歌』(1908年-1914年)、『カーリダーサ』からの2つのテクスト『2つの東洋画』(1909年-1910年)と『雲の使者』(1913年)がある[8]

19世紀の終わりが近づくにつれ、イギリスの音楽界では自国の民謡に新たな関心が沸き起こっていた。サリヴァンやエルガーなどの一部の作曲家は無関心なままであったが[70]、パリー、スタンフォード、ステイナー、アレグザンダー・マッケンジーによって民謡協会が創設されていた[71]。パリーはイングランドの民謡を取り戻すことにより、イングランドの作曲家は正統な国の声を見出すことになると考えていた。彼はこう述べている。「真の民謡には見せかけも、飾り立てた煌びやかさも、下品さもない[71]。」ヴォーン・ウィリアムズは早くから熱心に運動へと転向し、イングランドの田舎をまわって民謡の収集と筆記を行っていた。こうしたことはホルストにも影響を及ぼす。友人に比べるとこの主題に熱心ではなかったものの、彼も自作に多数の民謡の旋律を取り入れ、他者が収集した民謡の編曲も複数手掛けた[71]。『サマーセット狂詩曲』(1906年-1907年)は民謡収集家のセシル・シャープの提案で書かれ、シャープが書き留めた旋律が用いられている。ホルストは1910年にクイーンズ・ホールで行われた同曲の初演について「私の初めての真の成功」と表現している[72]。数年後、ホルストは別の音楽復興 - イングランドのマドリガル作曲家の再発見 - に興奮していた。トマス・ウィールクステューダー朝の作曲家の中で彼の一番のお気に入りであったが、ウィリアム・バードヘンリー・パーセルも彼にとって非常に重要であった[73][74]

19世紀初期の小さな、かわいらしい家の外観。
ホルストが1908年から1913年まで暮らしたバーンズ英語版の家。記念のブルー・プラークが正面に取り付けられている。

ホルスとは熱心なハイカーだった。彼はイングランド、イタリア、フランス、アルジェリアを広く歩いて回った。1908年には、喘息及びオペラ『シーター』がリコルディの賞を逃して以降患っていた鬱の治療として、医者の助言を受けてアルジェリアへと旅に出ている[75]。この旅で霊感を得て組曲『ベニ・モラ』が生まれており、アルジェリアの街路で彼が耳にした音楽が盛り込まれている[76]。ヴォーン・ウィリアムズはこの異国風の作品について次のように記す。「もしこの作品がロンドンでなくパリで演奏されるとしたら、作曲者にはヨーロッパ中に轟く名声をもたらしていただろうし、イタリアで演奏されるとしたら恐らく暴動が起こっていただろう[77]。」

1910年代

1911年、ホルストはモーリー・カレッジの教え子たちと共に17世紀以来初めてとなるパーセルの『妖精の女王』の演奏を行った。総譜は1695年のパーセルの死後まもなく失われていたが、その頃に再発見されたばかりであった。28人のモーリー・カレッジの学生が声楽譜と管弦楽譜の写譜を完全な形で作成した。音楽は1500ページにも及び、学生たちが余暇時間に写しを取る作業にはおよそ18か月もかかった[78]。演奏会形式での公演がオールド・ヴィック・シアターで行われ、演奏に先立ちヴォーン・ウィリアムズが導入のための講話を行った。『タイムズ』紙はホルストと彼の仲間に対し「この非常に重要な作品の最も興味深く芸術的な公演」であったと賛辞を贈った[79]

この成功がありはしたものの、翌年には合唱作品『雲の使者』の評判が生ぬるいものに終わり、この作品に自信を持っていたホルストはひどく意気消沈した[80]。『ベニ・モラ』の評判も芳しくなく[81]、ふさぎ込んでいた彼は一緒に来ないかというヘンリー・バルフォア・ガーディナーの誘い、そしてスペインにいたクリフォードアーノルド・バックス兄弟の誘いを受ける形で再び旅に出た[82]。この休暇の間にクリフォード・バックスがホルストへ占星術を紹介しており[81]、ここでの興味が後に組曲『惑星』の着想へと繋がっていく。ホルストは友人のホロスコープを生涯操り続け、占星術が彼にとって「ペット代わり」だと述べていた[83]

1913年にセント・ポール女学校に新しい建屋が落成、ホルストはこれを記念して『セントポール組曲』を作曲した。この新しい校舎には立派な設備を擁した防音室が備えられており、彼はそこで邪魔を気にすることなく仕事ができるようになった[84]。ホルストは家族を連れて学校のすぐそばのブルック・グリーン英語版へ引っ越してきていた。それまでの6年間はテムズ川を望むバーンズ英語版の小綺麗な家に住んでいたのだが、霧が立ち込めがちな川面の空気が彼の呼吸に障っていたのだった[85]。週末と学校休暇中に使用するため、ホルスト夫妻はエセックスサクステッド英語版にコテージを購入、中世の建物に囲まれ好きなだけ散歩に興じることのできる物件であった[86]。1917年にこの町の中心部へ移った彼らは、1925年までその地で暮らした[87]

田舎町の家の外観
ホルストが1917年から1925年まで暮らしたサクステッドのザ・マンス。

ホルストはサクステッドで「赤い司祭」(Red Vicar)として知られたコンラッド・ノエル英語版師と近づきになった。ノエルは独立労働党の支援者で、保守的な世論には不人気な多数の運動を支持していた[88]。また、ノエルは教会での祝典の一環としての民俗舞踊と行進の復興を唱えており、この改革は伝統を重んじる教会通いの人々の間で議論を巻き起こした[89]。ホルストはサクステッド教区教会で時おりオルガニストと合唱指揮者を務めた。また鐘を鳴らすことにも興味を持つようになった[注 11]。彼は1916年に年1回の音楽祭をウツィアンタイドで開始、そこではモーリー・カレッジとセント・ポール女学校の学生たちが地元からの参加者と共に演奏を行った[91]

ホルストはノエルが太古の宗教の始まりに関心を抱いていることを知り、ア・カペラのキャロル「This Have I Done for My True Love」を彼に献呈した(ホルストはこの作品を常に「舞踏の日」と表現していた)[92]。初演は1918年5月にサクステッドにおいて、第3回ウィツァン音楽祭の中で初演された。確固たる十月革命の支持者となるノエルは、この音楽祭の場で教会活動に参加する者はより大きく政治への参画をせねばならないと礼拝の土曜の言葉のなかで要求した。彼はホルストの教え子の一部(暗にセント・ポール女学校の学生を指している)を単なる「キャンプ・フォロワー」だと主張して反感を買った[93]。教え子が教会関係の対立に巻き込まれることを懸念したホルストは、ウィツァン音楽祭をダリッチへと移した。一方で彼自身はサクステッドの合唱団への援助を続け、ときには教会のオルガンの演奏も行った[94]

第一次世界大戦

第一次世界大戦の開戦時に従軍を志願したホルストであったが、軍役には不適格であるとして認められなかった[13]。彼は戦争に貢献できないことに挫折を感じていた。彼の妻はボランティアの救急車運転手となり、ホルストの弟のエミールとヴォーン・ウィリアムズは兵役でフランスへ出兵、友人の作曲家であったジョージ・バターワースセシル・コールズは戦死していたのである[95]。ホルストは教職と作曲を継続する。彼は『惑星』の筆を進め、室内オペラ『サーヴィトリ』の上演準備を行った。オペラの初演は1916年12月に、セント・ジョンズ・ウッド英語版にあるウェリントン・ホールにおいてロンドン・オペラ学校の学生によって行われた[96]。この時には、同作品は何ら主要紙の関心を引くことはできなかったが、5年後にプロによって上演された際には「完璧な小傑作」との言葉に迎えられている[97]。1917年に作曲した管弦楽と合唱のための『イエス賛歌』は終戦まで演奏されないままとなった[8]

大戦が終結に近づいた1918年、ついにホルストに従軍の機会を与える仕事の見通しが生まれた。キリスト教青年会(YMCA)の教育部、音楽課が、動員解除を待ってヨーロッパで駐留中のイギリス兵とともに働くことができるボランティアを必要としていたのである[98]。モーリー・カレッジとセント・ポール女学校は彼に数年の離職期間提供を申し出たが、まだ障害が残されていた。YMCA側が彼の苗字があまりにもドイツ的であり、今回の役割には受け入れられないと考えたのである[10]。これを受けて、ホルストは1918年に平型捺印証書英語版によって「フォン・ホルスト」(von Holst)から「ホルスト」へ正式に改称することになった[99]。果たして彼はサロニカを拠点とするYMCAの近東音楽総括に任用されたのであった[100]

Handwritten inscription: "This copy is the property of Adrian Boult, who first caused the Planets to shine in public and thereby earned the gratitude of Gustav Holst"
惑星』の総譜に記されたエイドリアン・ボールトへの献辞。「この写譜は惑星をはじめて公に輝かせ、それによってグスターヴ・ホルストの感謝を得たエイドリアン・ボールトの資産である。」

ホルストは壮大な見送りを受けた。指揮者のエイドリアン・ボールトは次のように述懐している。「休戦直前に、グスターヴ・ホルストが私のオフィスに飛び込んできた。『エイドリアン、YMCAがもうすぐ私をサロニカへ送るのだが、バルフォア・ガーディナー、彼の心遣いに感謝することに、彼が日曜の午前を丸々使ってクイーンズ・ホール、クイーンズ・ホール管弦楽団による餞別を私にくれたんだ。だから私たちは《惑星》をやることにする、君が指揮をすることになるんだ。』[101]」期限内に準備を整えるために、すべきことが大量に発生した。セント・ポール女学校の学生たちは管弦楽パート譜の写しを手伝い[101]、モーリー・カレッジの女子学生とセント・ポール女学校の学生は終曲にある合唱パートを練習したのである[102]

9月29日の演奏にはヘンリー・ウッドをはじめとして、ロンドンのプロの音楽家の大半が招待客として招かれた[103]。5か月後、ホルストがギリシャでの従軍中の1919年2月の演奏会において、ボールトは『惑星』を一般聴衆に向けて紹介した。ホルストは彼に宛てて助言を書き連ねた長い手紙を送っているが[注 12]、組曲は全曲演奏せねばならないという考えは彼を納得させるに至らなかった。ボールトはこのような急進的な新作を初めて聞く聴衆全員が許容できるのは30分程度までであると考え、この時は全7曲のうち5曲しか演奏しなかった[105]

ホルストはサロニカでの任務を楽しんでおり、同地から赴くことが出来たアテネでは強い感銘を受けている[106]。彼の音楽上の職務は多岐にわたっており、ときには地元の管弦楽団でヴァイオリンを演奏しなければならないことすらあった。「それは大層楽しかったが、自分があまり役に立たなかったのではないかと懸念している[106]。」彼は1919年6月にイングランドへ帰国した[107]

戦後

ギリシャからの帰国後まもなく、ホルストは教職と作曲に戻った。彼はこれまで担っていた仕事に加えて、レディング大学での作曲の講義を受け持ち、さらに母校の王立音楽大学で作曲を教えるヴォーン・ウィリアムズに加わるようになった[71]。同校でエイドリアン・ボールトが担当していた指揮の講座に触発される形で、彼は女性のための音楽教育をさらに開拓しようと、セント・ポール女学校のハイ・ミストレス[注 13]に対してボールトを招聘して講義を持たせなければならないと進言を行った。「セント・ポールの生徒たちが世界で唯一の女性指揮者となったら栄誉なことですよ[109]!」ホルトはセント・ポール女学校の防音室でホイットマンの詩を用いて『死への頌歌』を作曲した。多くの者がこの作品をホルストの最も美しい合唱作品だと考えている、というのはヴォーン・ウィリアムズの言である[41]

散策を楽しむホルスト(左)とヴォーン・ウィリアムズ。

40代に差し掛かったホルストは、突如として引っ張りだことなっていた。『惑星』の米国初演をどちらが行うかでニューヨーク・フィルハーモニックシカゴ交響楽団が争っていた[71]。この作品の成功に続いて1920年には『イエス賛歌』が熱狂を巻き起こしており、『オブザーバー』紙は「ここ数年で聞かれた管弦楽と合唱で表現される作品の中でも、屈指の華麗さ、屈指の誠実さを有する」と評した[110]。『タイムズ』紙は同作を「疑いなく、この何年もの間に我が国において生み出された中で最も際立った独自性を持つ合唱作品」と表現している[111]

本人が驚き狼狽えたことに、ホルストは有名になってきていた[41]。有名人になるということは彼の気質には全く合わないことだった。音楽学者のバイロン・アダムズは次のように述べる。「けばけばしい宣伝、大衆の無理解、そしてこの成功を望まない態度により彼に対して生まれた専門家の嫉妬の織り成す網から解放されんとして、彼は生涯奮闘したのであった[112]。」彼は栄典や褒賞の申し出を辞退し[注 14]、インタビューを受けることやサインに応じることをしなかった[71]

コミック・オペラ『どこまでも馬鹿な男』(1923年)は広く『パルジファル』の風刺であると看做されたが、ホルストはこれを断固として否定した[113]。この作品は主役のソプラノにマギー・テイトを据え、ユージン・グーセンスの指揮でロイヤル・オペラ・ハウスで初演されて熱狂的な評価を受けた[114]。1923年にレディングで行われた演奏会において、ホルストは足を滑らせて転倒、脳震盪を起こした。経過は良好とみられ、ミシガン大学での講義と指揮のために渡米の招待を受けられると考えるまでとなった[115]。帰国後の彼はこれまで以上に多忙となっており、指揮をし、出版のための過去作品の準備をし、そして以前のように教壇に立った。これらの職務によって引き起こされた負担は彼には過大であった。医師の指示により彼は1924年中の全ての仕事をキャンセルし、タスクテッドで静養に入った[116]。1925年にセント・ポール女学校には復職を遂げたが、それ以外のどのポストにも戻ることが出来なかった[117]

晩年

他の職務から解放されたことにより、ホルストの作曲家としての生産性はたちまち向上した。この時期の作品にはジョン・キーツのテクストを用いた『合唱交響曲』がある(ジョージ・メレディスのテクストによる『合唱交響曲第2番』は断片しか残されていない)。シェイクスピアによる短いオペラ『猪の頭』、これに続く1928年の金管バンドのための『ムーアサイド組曲』のいずれも、大衆への訴求は持ち合わせていなかった[118]

1927年、ホルストはニューヨーク交響楽団から新作交響曲の委嘱を受けた。彼は交響曲ではなく、ハーディが呼ぶところのウェセックスに霊感を受けた管弦楽曲『エグドン・ヒース』を書き上げた。この作品は1928年2月に初演を迎えたが、前月にハーディがこの世を去っており追悼コンサートとなった。ホルスト作品であれば何でも絶賛してきた大衆の一時的な熱狂は翳りをみせており[117]、ニューヨークにおける本作の評判は芳しくなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙のオーリン・ダウンズは「新作は長たらしく特徴なく思える」と述べている[119]。アメリカ初演の翌日、ホルストは自らバーミンガム市管弦楽団を指揮してイギリス初演を行った。『タイムズ』紙は曲が暗いながらも、それがハーディの厭世観に適合していると認めている。「『エグドン・ヒース』は人気を博すことはないだろうが、本人が好むと好まざるとにかかわらずこの作品は作曲者が述べたいことを伝えており、真実とは義務の一側面なのである[120]。」ホルストは過去の作品に対して向けられた敵意のある評価を苦痛に感じていたが、『エグドン・ヒース』への批判的意見には無関心だった。アダムズはこの作品を「最も完璧に実現された楽曲」と評した[121]

最晩年のホルストは『合唱幻想曲』(1930年)を作曲し、BBCから軍楽バンドのための作品の委嘱を受けた。この委嘱によって生まれたのが、人生の多くの時間を過ごした土地に寄せられた前奏曲とスケルツォ『ハマースミス』である。作曲家で評論家のコリン・マシューズは、この作品は「『エグドン・ヒース』のように妥協をすることなく、イモージェン・ホルストの言葉に依るならば『人でごったがえすロンドンのただ中にいて(中略)彼がエグドン・ヒースの孤独の中に見出したのと同じ静寂』を発見している」と考えている[8]。不幸にも本作が初演された演奏会ではウォルトンの『ベルシャザールの饗宴』のロンドン初演も呼び物となっており、それによって本作は幾分陰に隠れてしまうことになった[122]。この初演はホルスト自身が指揮する予定であったが病気のために代役が立てられた[123]。以降、作品は1954年の蘇演まで忘却に甘んじることになる[3]

ホルストはイギリスの映画『英語版』(1931年)のための音楽を書き、群衆のシーンにはエキストラ出演も果たして満悦であった[124]。この映画は映像も音楽も散逸してしまっている[125]。彼は「ジャズバンド曲」を作曲しており、イモージェンが後に管弦楽のための『カプリチオ』に編曲した[126]。生涯を通じてオペラを作曲し、大小さまざまな成功を手にしてきたホルストであったが、最後のオペラ『放浪学者』では、マシューが述べるところの「省力的、直截的に書くという、彼の迂遠なユーモアセンスにとって正しい手段」を見出している[8]。このオペラは1934年に初演されるもホルストは出席できず、その後はブリテンが1951年に復活上演するまで取り上げられることはなかった[3]

ホルストが眠るチチェスター大聖堂英語版

1932年、ハーバード大学は6か月の間ホルストに講師の地位を与えた。ニューヨークに到着した彼は、弟のエミールとの再会を喜んだ。エミールはアーネスト・コッサートという芸名でブロードウェイで俳優のキャリアを歩んでいた。一方、ホルストは絶え間なく報道記者や写真家からの注目を浴びて落胆していた。ハーバードでの時間を楽しみはしたものの、同校在任中に病を患った。病名は消化性潰瘍で、数週間の療養が必要だった。イングランドに帰国すると、弟を迎えてしばしコッツウォルズでの休暇を共に過ごした[127]。健康状態は衰えていき、以降の音楽活動からは身を引くことになる。最晩年の仕事のひとつに、セント・ポール女学校の若手奏者の手引きとするため1934年3月に作曲した『ブルック・グリーン組曲』がある[128]

潰瘍の手術後に見舞われた心不全により、ホルストは1934年5月25日にロンドンで59年の生涯を閉じた[8]。遺灰はサセックスのチチェスター大聖堂英語版で、彼が好んだテューダー朝の作曲家であるトマス・ウィールクスの記念碑近くに埋葬された[129]。葬儀では司教のジョージ・ベル英語版が追悼演説を行い、ヴォーン・ウィリアムズが指揮を行ってホルストの自身の音楽を演奏した[130]

音楽

様式

ホルストは旋律の感覚のみならず、その簡素さや表現の省力化という点でも民謡を我がものとしており[131]、これによって同時代の多くの人々、彼のファンですらも厳格で知的だと考えるスタイルが確立されていった[132][133]。これは『惑星』とホルストと同一視する世間の見方とは反対であり、マシューズは『惑星』のせいで真の独自性を有する作曲である彼の威信が覆い隠されてしまっていると考えている[8]。音楽が冷たいという非難に対し、イモージェンはホルストに特有の「下降する低音の歩みの上で安心させるように動く、荒れ狂う旋法旋律」を引き合いに出し[132]、対するマイケル・ケネディは1929年のハンバート・ウルフ英語版のテクストによる12の歌曲、また1930年から1931年の無伴奏合唱のための12のウェールズの民謡を真の温かみのある作品であると指摘する[133]

ホルストは数多くの特色を活用した。一般的でない拍子、上昇・下降するスケールオスティナート、複調、時おり現れる多調であり、これらによって彼はイングランドの作曲家の中でも目立った存在となっている[8]。ホルストは常に音楽の中で自らの言いたいことを直截的かつ簡潔に言っていた、ヴォーン・ウィリアムズは述べている。「彼はその時に必要とされるのであれば赤裸々であることを恐れず、よそよそしくすることで目的が表現されるのあれば他人行儀であることを躊躇しない[134]。」ホルストが省力化されたスタイルを用いたのは、彼の優れない健康状態が一因だったのではないかとケネディは推測している。「紙に書きつけるという努力は芸術的な省力化を強いるわけであるが、それをやり過ぎだと感じるものもいる[133]。」しかし、経験豊かな器楽奏者、オーケストラメンバーであったホルストは演奏者の視点から楽曲を理解し、各パートはいかに難しいものとなろうと必ず常に演奏可能となるようにした[135]。弟子のジェーン・ジョゼフによると、ホルストが演奏の中で育んだのは「実践的な僚友関係の精神であった。(中略)プロの奏者にとって起こりえる退屈、そして退屈することを不可能にする音楽を彼は誰よりも知っていた[136]。」

初期作品

ホルストは学生時代とその後すぐの時期に大量の作品、特に歌曲を作曲していたが、1904年に以前に書かれた楽曲のほぼ全ては独創性に欠ける「初期の愚作群」であると彼自身が後年分類している[8][137]。しかし、作曲家で評論家のコリン・マシューズはこうした習作の中にも「直感的な管弦楽のセンスの良さ」を認めている[8]。この時期の作品としてある程度の独創性を持つものとして、マシューズは1894年の弦楽三重奏曲ト短調(1974年まで演奏されないままだった)を取り上げ、ホルストによる初めての模倣でない作品であると述べる[138]。マシューズとイモージェン・ホルストはいずれも、交響曲『コッツウォルズ』(1899年-1900年)の「エレジー」楽章を習作作品のうちで完成度の高い楽曲であると指摘しており、さらにイモージェンは1899年の『バレエ組曲』と1900年の『アヴェ・マリア』に父の真の顔をおぼろげに感じ取っている。彼女とマシューズはウィットマンの韻文を用いた歌曲『神秘的なトランペット吹き』(1904年)において、ホルストが彼自身の声を見出したのだと主張する。同作では『惑星』の「火星」を特徴づけるトランペットの響きが、ほのかに予感されるところがある[8][137]。この作品においては、ホルストは2つの調性を同時に奏でる複調技法をはじめて用いている[13]

実験期

マシューズによると、20世紀のはじめごろのホルストはシェーンベルクを追って後期ロマン派へ入っていこうとしているかのように見えるという。ところが、ホルストも後に自覚したように、パーセルの『ディドとエネアス』との出会いによって「イングランドの言語の音楽イディオム」の探索へ駆り立てられ[43]、20世紀の最初の10年ほどでは民謡の復興が触媒となって、ホルストはその他のものにも霊感の源を求めていくことになる[8]

インド期

当時の多くの人物がインド神話に関心を抱いており、1895年ごろからのホルストの興味はオペラ『シーター』(1901年-1906年)ではじめて露わになる[57][139]。長きにわたったこのオペラの製作期間中には、ホルストは他にもインドを主題とした作品に取り組んだ。ヴァイオリンとピアノのための『Maya』(1901年)が例として挙げられるが、この作品については作曲者自身も作家のレイモンド・ヘッドも「味気ないサロン向け作品で、その音楽語法は危険なほどスティーヴン・アダムズに似通っている」と看做した[139][注 15]。その後、ホルストはヴォーン・ウィリアムズを介してラヴェルを見出し、その音楽を賞賛するようになる[141]。彼はラヴェルが「純粋さの模範」であり、その程度については彼が大いに称賛していたハイドンと同程度であると考えていた[142][143]

ラヴェル、ヒンドゥー教の心霊主義、イングランドの民謡の影響が合わさることで[141]、かつて心酔したワーグナーとリヒャルト・シュトラウスの影響を超えてホルストは彼独自のスタイルを形作ることができるようになった。イモージェン・ホルストは「人はワーグナーが新たなものへと導いてくれるまで、彼に従わねばならない」というホルストの自説(ヴォーン・ウィリアムズに書き送られたもの)を認識していた。彼女はホルストのグランド・オペラ『シーター』が「古き良きワーグナー風の喚き」ではあるが「終盤に向かって音楽に変化が生じ、地球の声を表す影の合唱の美しく穏やかなフレーズは、ホルストの独自の語法に依拠している」と記している[144]

リグ・ヴェーダ

ラッブラによると、1911年の『リグ・ヴェーダ賛歌』の出版はホルストの成熟にとって記念碑的な出来事だったという。「実のところこれ以前には、ホルストの音楽は常に彼の持ち味であった語法の清澄さを呈してはいたが、和声的には彼を現代音楽の中で抜きんでた重要人物とする要素が少なかったのだ[66]。」ディッキンソンはこうしたヴェーダに基づく歌曲を宗教的というより絵画的であると評する。出来具合は様々でありながらも、聖句のテクストは明らかに「作曲者の創造力の中にある生命の泉に触れていた」という[145]。ホルストがインドの韻文に付した音楽は概して西洋的な性格に留まっているが、ヴェーダを用いた歌曲の一部では実験的にインドの旋法であるラーガを使用している[146]

室内オペラサーヴィトリ』(1908年)は3人の独唱者、小規模な表に出ない合唱、フルート2、コーラングレと2群の弦楽四重奏という楽器隊の編成で書かれている[147]。音楽評論家のジョン・ウォラックは、ホルストが少ない編成を配した「並みならぬ表現の機微」に寄せてこう述べる。「作品の始まりを告げる2人の独唱者の旋律線が、巧みに死とサーヴィトリを関係づける。死は森を進んでおり、サーヴィトリの慄いた応答が彼の周囲をはためくが、彼の和声に引き寄せられることから逃れることが出来ない[13]。」ヘッドはこの作品が同時代にあってはそのこじんまりとした親密さで特異であると評し、さらにホルストが自らの音楽でワーグナー風の半音階主義による支配を終了させようとした試みの中で、最も成功を収めていると考えている[147]。ディッキンソンはこの作品が重要な一歩であったと考えるが、それは「オペラに向かうものではなく、[ホルストの]理想像の慣用的追求に向かっている」という[148]カーリダーサのテクストに関して、ディッキンソンは『雲の使者』(1910年-1912年)を「とりとめのない出来事、ご都合主義の劇的エピソード、そして恍惚的感情の迸りの寄せ集め」であり、同時代の作曲者の創作活動の迷走を示すものとして低く見ている。ディッキンソンの見立てによると、『2つの東洋画』(1911年)は「最終的により記憶に残りやすいカーリダーサの印象」を与えるという[148]

民謡その他の影響

インドのテクストへの曲付けは、1900年から1914年の期間のホルストの楽曲のごく一部を占めたに過ぎなかった。彼の音楽が成熟を迎えるにあたって非常に重要だったのは、イングランドの民謡復興であった。そのことは管弦楽組曲『サマーセット狂詩曲』(1906年-1907年)において明らかである。この作品は当初、11の民謡主題を下敷きに制作される予定であったが、後に4つへと削減された[149]。同曲がヴォーン・ウィリアムズの『ノーフォーク狂詩曲』への類縁性を持つことに目を付け、ディッキンソンは楽曲の全体的な構造により、ホルストの楽曲は「歌曲選集(中略)の水準を超えた高みにいる」と述べている[150]。ホルストがイングランド民謡を発見したことで「彼の管弦楽書法が変容」し、『サマーセット狂詩曲』の作曲は彼の初期作品において支配的であった半音階主義を追いやるのに大きな役割を果たしたと、イモージェンは認識している[137]。1906年の『2つの無言歌』では、ホルストは民謡のイディオムを使用しつつ独自の音楽を生み出せることを示してみせた[151]。やはり1906年に書かれた管弦楽による民謡幻想曲『西の風』は、作曲者自身に取り下げられて出版されることはなかったが、1980年代になってジェイムズ・カーナウによる木管バンド用編曲の形で世に出された[152]

第一次世界大戦開戦前の数年間、ホルストは様々なジャンルの作品を作曲した。マシューズは1908年の組曲『ベニ・モラ』において北アフリカの街を想起させる部分が、それまでで最も個性的な楽曲であると考える。第3曲では4小節の主題が絶え間ない繰り返しを受け、ミニマリズムの先駆けのようである。軍楽バンド向けには第1組曲(1909年)と第2組曲(1911年)をの2つの組曲を作曲しており、前者は金管バンドの定番曲であり続けている[8]。この作品は非常に独創的かつ重要な楽曲であり、ショートが述べるところの「バンドのレパートリーに浸透していた一般的な編曲ものやオペラ選集」から脱却する契機となった[153]。同じく1911年に書かれた『ヘクバの嘆き』はギルバート・マリー英語版が翻訳したエウリピデスに曲を付けたもので、ディッキンソン曰く7拍子の繰り返しがヘカベーの神聖な憤怒による反抗を表現しているのだという[154]。1912年には2つの詩篇への曲付けを行っており、そこで彼は単旋聖歌による実験を行っている[155]。同じ年には長い人気を獲得した『セントポール組曲』(ディッキンソンによると「陽気だが退行的な」楽曲[156])が生まれ、大規模な管弦楽作品『Phantastes』が失敗に終わっている[8]

全盛期

『惑星』

木星。

ホルストは1913年に『惑星』の着想を得た。ひとつには彼が占星術に対して関心を持っていたからであり[注 16]、もうひとつには『Phantastes』では失敗したものの大規模管弦楽作品を制作しようという決意があったからである[13]。選択された形式はシェーンベルクの『5つの管弦楽曲』に影響を受けている可能性があり、またマシューが提唱するのはドビュッシーの『夜想曲』もしくは『』と美学的ななにがしかに共通するところがあるということである[8][158]。ホルストが『惑星』の作曲に着手したのは1914年であった。楽曲は最終的な曲順の通りに生まれていったわけではない。「火星」が最初に書き上げられ、「金星」、「木星」が続いた。「土星」、「天王星」、「海王星」の各曲は1915年に作曲され、「水星」が1916年に完成された[8]

それぞれの惑星は異なった性格付けをされている。ディッキンソンは「他の星から色彩を借りている惑星はない」と述べる[159]。「火星」では、5拍子で不均等なリズムの塊が執拗に繰り返され、トランペットの咆哮と不協和な和声が組み合わされる。これによってもたらされる闘争の音楽について、ショートはその暴力と険しい恐怖の表現は独特であり「ホルストの意図は英雄的行為を美化することではなく、むしろ戦争の現実を描き出すことにある」と断言する[160]。「金星」では、ホルストは放棄された声楽作品である『ペンテコステの徹夜祷』から楽想を流用して開始部分とした。曲中の至るところで聞かれる雰囲気は平和な諦観と郷愁である[138][161]。「水星」は不揃いな拍子と主題の急速な変化に支配されており、羽の生えた使者の素早い飛行を表現する[162]。「木星」は中間部の旋律「サクステッド」が高名で、ディッキンソンの見解では「幻想的な休息、その中では多くの者がひそやかな歓びから距離を保っている」という[163]。この曲は後に愛国的賛歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』に用いられており、それはホルスト自身も加担して行われたことであったにもかかわらず、ディッキンソンや他の評論家は非難を浴びせている[13][163][注 17]

ホルストは「土星」にも過去の声楽作品である『Dirge and Hymeneal』を下敷きとして用いており、繰り返される和音が容赦なく歩み寄ってくる老いを表現する[164]。続く「天王星」にはベルリオーズの『幻想交響曲』やデュカスの『魔法使いの弟子』の要素が盛り込まれ、「わずか数小節の間に曲の音響的推進力がfffからpppへと減じ」ることで魔法使いが「ひと吹きの煙の中へ消える」様を描き出している[165]。終曲にあたる「海王星」では歌詞のない女声が徐々に後退して閉じられ、ウォラックはその効果を「未解決の恒久性(中略)宇宙に終わりがないが故に決して終わることのない、しかし永久の沈黙へと漂い去っていく」様子になぞらえている[13]。『我は汝に誓う、我が祖国よ』では妥協を許しはしたが、ホルストは作品全体が一体であることを主張し、各曲を独立して演奏することに反対した[13]。にもかかわらず、この作品は「BGMとして断片化して引用される状態に苦しめられてきた」とイモージェンは記している[166]

円熟期

スウォンジーの風景。

『惑星』の作曲期間及びその後の時期に、ホルストは多数の声楽曲、合唱曲を作曲もしくは編曲しており、その多くは1916年から1918年の戦中のサクステッドのウィツァン音楽祭のためのものだった。1916年の『6つの合唱民謡』はウェスト・カントリーの楽曲に基づいており、中でも「スウォンジーの町」はその「洗練された音色」により最も記憶に残りやすいとディッキンソンは看做している[167]。ホルストはそうした音楽は「芸術の限定的な形」であり、そこでは「マンネリ化はほぼ避けようがない」として軽視していた[168]。しかし、作曲家のアラン・ギブズはこの曲集が少なくともヴォーン・ウィリアムズの『5つのイギリス民謡』(1913年)に比肩するものであると考えている[169]

『惑星』に続くホルストの最初の大規模作品は、1917年に完成された『イエス賛歌』である。歌詞はヨハネ使徒言行録グノーシス主義のテクストから採られており、ホルストがクリフォード・バックスとジェーン・ジョゼフの助けを借りてギリシャ語から翻訳したものを用いている[170]。ヘッドは『イエス賛歌』の革新的性格について次のようにコメントしている。「ホルストはヴィクトリア朝やエドワード朝の感傷的なオラトリオを一気に投げ捨て、例えばジョン・タヴナーが1970年代に書くことになるような作品の先駆けを創り出した[171]。」マシューズはこの作品の「恍惚とした」特色に並ぶイングランドの音楽は「おそらくティペットの『聖オーガスティンの幻影』だけであろう」と記した[8]。音楽的要素には単旋聖歌、対話を強調するために離れて配置された2群の合唱、舞踏的エピソード、そして「爆発的な和声的混乱」が含まれている[171]

死への頌歌』(1918年-1919年)の静謐な、諦観した雰囲気は『イエス賛歌』の人生を豊かにする精神性の後の「急激な方向転換」であるとマシューズは見ている[8]。この作品についてウォラックは遠くに静けさがあると言及しており[13]、イモージェン・ホルストはホルストの死に対する私的な態度を表明しているのだと考える[166]。この曲は1922年の初演以来滅多に演奏されないが、作曲家のアーネスト・ウォーカーはそれまでのホルストの最良の作品であると考えていた[172]

大きな影響力のあった評論家のアーネスト・ニューマンは『どこまでも馬鹿な男』こそが「現代イギリスのオペラの最高峰」であると考えたが[173]、この作品は『タイムズ』紙から「華麗なパズル」と評されたような、約1時間という例外的に短い上演時間、パロディー風で気まぐれな性質によりオペラの本流の外側に置かれてしまっている[114]。このオペラからは、同じく『タイムズ』紙が「華麗な瞬間により煌めく作品中で最も華麗なもの」と称したバレエ音楽のみが1923年以降も敵的に演奏されている[174]。ホルストによるリブレットは批判の的となったものの、エドウィン・エヴァンズはオペラ中で歌唱されている言葉が聞き取れるよう珍しい取り扱いがなされていると述べている[175]

後期作品

ヘンリー四世 第1部』から「猪の頭」の場面(線画、1853年)。

1924年に休養を余儀なくされるまで、ホルストは対位法へ新たな関心を寄せており、1922年の『フーガ風序曲』や1923年のフルート、オーボエと弦楽合奏のための新古典主義的『フーガ風協奏曲』にそれが表れている[8]。最後の10年間で彼は歌曲や小規模作品を、大規模作品と合わせたり時には新たな試みを行ったりした。各楽器が異なる調性で演奏する1925年のフルート、オーボエとヴィオラのための三重奏曲は、イモージェンにホルストの室内楽曲で唯一の成功作品として挙げられている[176]。1924年に完成された『合唱交響曲』に関して、本物の良質を備えた複数楽章に続く終楽章はとりとめがなく拍子抜けであるとマシューズは記している[8]。最後から2番目のオペラ『猪の頭』(1924年)はシェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』と『同 第2部』の居酒屋の場面を基にして書かれている。大部分がセシル・シャープが収集したイングランドの旋律やその他のコレクションから採られたその音楽には、速度と活気がある[8]。同時代の評論家であるハーヴィー・グレースは、独自性に欠けることは「作曲者が素材を取り扱うことが、素材を創作すること同様の説得力を示すことができる」側面であると述べ、考慮から外している[177]

エグドン・ヒース』(1927年)は『惑星』以来初となるホルストの大規模管弦楽曲である。マシューズはこの音楽は「3つの主要要素により捉えどころがなく、予測不能である:それらは、生気なく彷徨う[弦楽器のための]旋律、悲し気な金管の行進、弦楽器とオーボエのための落ち着きのない音楽である」と要約している。終盤にかけての神秘的な舞曲については、「奇妙な作品中の最も奇妙な瞬間」であるとマシューズは述べる[8]。『Music & Letters』誌のリチャード・グリーンは、この作品を「シチリアーノのリズムによる簡素な、1歩ずつの、揺れるリズムを持つラルゲットの舞曲」と評するが、『惑星』で見られた力感を欠いており、時に聴衆にとって単調に聞こえると表現する[178]。より大衆的な成功を収めたのは、1928年に全英ブラスバンド選手権大会の課題曲として書かれたブラスバンドのための『ムーアサイド組曲』である。曲は国北部の金管合奏音楽の伝統の範疇で書かれているが、ショートはこの組曲に見紛うことのないホルストの印が刻まれていると述べる。それは「最初のスケルツォでの跳ねるような6/8拍子から、終曲となる行進曲で活発に旋律を作る4分音符まで[刻まれており]、間に挿入される夜想曲は『土星』における遅い動きの行進への家族的類似を有している[179]。」『ムーアサイド組曲』は『ミュージカル・タイムズ』誌に2017年に掲載された論文で大規模な修正論を提示されている[180]。『エグドン・ヒース』が交響曲として委嘱を受けた作品であったことを受け、論文はこのブラスバンド作品の交響的性質を明らかにしている。

この後、ホルストはクリフォード・バックスのテクストを用いて陽気な調子のオペラに取り組んだ。オペラへの最後の取り組みとなる『放浪学者』(1929年-1930年)である。イモージェンはその音楽について「スケルツァンドの(遊び心のある)気分で最高の状態のホルスト」であると言及する[132]。ヴォーン・ウィリアムズはその活気ある民謡調のリズムにコメントを寄せ「このオペラには《少しだけ》6/8拍子が多過ぎると思うかね?」と述べた[181]。ショートの述べるところでは、開始部のモチーフが特定の性格を持たせられずに複数回再登場するが、これによって作品に音楽的統一感が与えられるという[182]

ホルストは最後の数年で大規模作品は数曲しか作曲しなかった。1930年の『合唱幻想曲』はグロスタースリー・クワイア・フェスティバルのために書かれた。曲の開始と終了にはソプラノの独唱者があてられ、合唱、弦楽合奏、金管と打楽器を要する。さらに充実したオルガン独奏が入り、これはイモージェン・ホルスト曰く「『エグドン・ヒース』の《巨大で神秘的な》孤独のなにがしかを知っている」のだという[183]。未完成に終わった最後の交響曲を除くと、ホルストの残りの作品は小編制で書かれている。1932年の8つのカノンは彼の教え子たちに捧げられた作品であるが、イモージェンの見立てではこの作品は大半のプロの歌手にすら恐るべき試練を課すものだという。『ブルック・グリーン組曲』はセント・ポール女学校の管弦楽団のために書かれており、遅まきながら『セントポール組曲』と対になる楽曲である[166]。ヴィオラと小管弦楽のための『抒情的断章』(1933年)はライオネル・ターティスのために作曲された。静かでありかつ瞑想的で、独奏者にあまり技巧性が要求されないこの作品が、ヴィオラ奏者の間で人気を獲得するのは遅かった[184]。『ペンギン・ミュージック・マガジン』誌のロビン・ハルは、この作品の「澄み切った美しさ - 他の作曲家の芸術とは見間違えようのないもの」を賞賛したが、ディッキンソンの考えによると同曲は「脆弱な創作物」に留まっている[185]。ホルスト最後の作品となる、構想に終わった交響曲のスケルツォ楽章には、彼の過去の音楽の多くで特徴となっていたものが特色として含まれており、ショートによれば「ホルストの管弦楽芸術の要約」となっているという[186]。ディッキンソンはこの作品にみられる幾分くだけた素材の集まりからは、書かれていたかもしれない交響曲に関する示唆はあまり得られないと論じている[187]

録音

ホルストは自作を指揮して複数の録音を残している。コロンビア・グラモフォンへは1922年にアコースティック録音によりロンドン交響楽団と『ベニ・モラ』、『行進の歌』、そして『惑星』全曲を録音した。録音に由来する制約により「海王星」の最後で女声が次第にフェードアウトしていく様は表現できておらず、効果的な低音を得るために低弦をチューバと置き換える必要があった[188]。1925年には名称不詳の弦楽オーケストラと組んだ『セントポール組曲』と『田園の歌』の録音がある[189]。コロンビア社と競っていたグラモフォン・カンパニーからはアルバート・コーツの指揮、名称不詳の管弦楽団の演奏により、同じレパートリーから一部の楽曲の録音が制作された[190]電気録音が導入されて音質が劇的に改善されると、ホルストとロンドン交響楽団は1926年にコロンビア社で『惑星』の再録音を行った[191]

LP盤の初期にはホルストの音楽で音盤になるものはほとんどなかった。1955年版の『レコード・ガイド』誌に掲載されているホルスト作品は僅か6曲、『惑星』(HMVとNixaへのボールトの録音、デッカへのマルコム・サージェントの録音)、バレエ音楽版『どこまでも馬鹿な男』、『セントポール組曲』、そして3つの短い合唱作品のみであった[192]。ステレオLPからCDの時代になると、世界中の楽団と指揮者による数多くの『惑星』の録音が生まれた。21世紀のはじめまでには管弦楽曲、合唱曲のうち有名作品の大半、無名作品の多くの音源が発売されてきた。2008年版の『ペンギン・ガイド』誌には、7ページにわたってホルスト作品を収めたCDが列挙されている[193]。オペラに関しては『サーヴィトリ』、『放浪学者』、『猪の頭』が録音されている[194]

遺産

直截さと真摯さに価値を置き、音楽は有閑の少数のための秘密の領域ではなく日々の生活に欠くことのできないものだと捉える、我々全員の作品に[ホルストの]影響は残り続けている。

エドマンド・ラッブラによる賛辞[195]

ホルストは民謡について、おそらく他のイングランドの作曲家よりも、本能的にその重要性への理解を獲得したとウォラックは強調している。民謡の中に彼は「旋律がいかに構成されるのかということのみならず、円熟の芸術的語法の発展に対するいかなる示唆があるかについて、新たな思想」を見出したのである[13]。ホルストは作曲の楽派というものを形成したり導いたりすることはなかったが、同時代人にも後進にも影響を及ぼした。ショートによるとヴォーン・ウィリアムズはホルストを「私の音楽が受けた最大の影響」と評したというが[135]、マシューズは2人は互いに等しく影響を与えあったのだと主張する[8]。後の作曲家の中ではショートはマイケル・ティペットがホルストの「最も重要な芸術的後継者」であると認識しているが、それは作曲様式の面、そしてモーリー・カレッジの音楽監督を引き継ぎ同校でホルストの音楽精神を維持したという面の両面による[135]。ホルストとのかつての出会いについて、ティペットは後年次のように書いている。「ホルストは鋭い精神的視点によって、私のただ中を見ているかのようだった[196]。」ケネディはこう述べる。「新しい世代の聴き手は(中略)彼らがブリテンやティペットの音楽において称賛しているものの多くの起源をホルストに認めた[133]。」ホルストの弟子であったエドマンド・ラッブラは、自らや他の若いイングランドの作曲家たちが、いかにホルストのスタイルの省力さを取り入れていったのかを認めている。「いかなる熱意をもって我々が骨組みまで音楽を削ぎ落していったことか[132]。」

ショートはホルストに負うところのあるイングランドの作曲家として特にウィリアム・ウォルトンベンジャミン・ブリテンを引き合いに出し、ホルストの影響はさらに離れたところでも感じられる可能性があると論じる[注 18]。なによりも、ホルストは祭典、祝典、儀式、クリスマスキャロル、もしくは簡素な讃美歌など、実用的な目的のために音楽を提供することが作曲家の義務であると信じる人々のための作曲家であったとショートは認識している。こうして、ショート曰く「[ホルスト]の主要作品を一度も聴いたことのない多くの人々(中略)であっても『木枯らし寒く吹きすさび』のようなキャロルの小さな傑作を聴き、歌うことで大きな喜びを得ているのである[198]。」

チチェスター大聖堂英語版にある記念銘板。

2009年9月27日、ホルストを記念するコンサートを週末にチチェスター大聖堂英語版で催したのち、彼の死後75年を記念する新たな記念銘板が除幕された。そこには『イエス賛歌』から次のテクストが刻まれた。「天国的な天体群が我々へと音楽を授ける[199]」。2011年4月にBBCはテレビドキュメンタリー『Holst: In the Bleak Midwinter』を放送してホルストの生涯を描き、とりわけ社会主義と労働者の主張への肩入れに焦点を当てた[200]。ホルストの生家であるチェルトナム、ピットヴィル英語版のピットヴィル・テラス4(後にクラレンス・ロード4と呼ばれるようになった)には、現在ホルスト博物館が開館しており、訪問客を受け入れている[201]

ホルストの楽曲のうちでは『惑星』がずば抜けてよく知られ、とくに「木星」の中間部にはさまざまな歌詞がつけられて、編曲されている(『サクステッド』および『我は汝に誓う、我が祖国よ』を参照)。それ以外の曲が使われることは少ないが、ビリー・アイリッシュの2021年のアルバム『ハピアー・ザン・エヴァー』に収録された「ゴールドウィング」が、ホルストの『リグ・ヴェーダからの合唱讃歌第3集』作品26(1910年)の第3曲のヴェーナ賛歌をそのまま使っていることが話題になった[202]

脚注

注釈

  1. ^ ブリタニカ百科事典』では父親をスウェーデン人とするが[4]、後述のように『ニューグローヴ世界音楽大事典』第2版では曾祖父の代でイングランドに移住したとされる[3]
  2. ^ クララの曾祖母のひとりはスペイン人であったが、アイルランド人の同僚と駆け落ちして共に暮らした。イモージェン・ホルストはこの一家のスキャンダルがあったことで、クララが音楽家と結婚することに対するレディアード家の反対意見が弱められた可能性もあるのではないかと推測している[5]
  3. ^ イモージェン・ホルストは次のように記録している。「18世紀にあるはとこが外交の場においてドイツ皇帝から佳曲で称賛されるということがあり、不謹慎なマティアスは平然と『von』を拝借してピアノの生徒がもう少し増えないかと期待したのである[10]。」
  4. ^ アドルフは住まいをピットヴィル・テラス4(現在はクラレンス・ロードと呼ばれる)からヴィットリア・ウォーク1へと移した[13][14]
  5. ^ レイフ・ヴォーン・ウィリアムズはホルストの性格を描写するにあたりギルバート・アンド・サリヴァンの『軍艦ピナフォア』を引き合いに出している。「その名が示すように[他の国家に属するようにとの]あらゆる誘惑がありながらも、彼は『イングランド人であり続けた』[21]。」
  6. ^ イモージェン・ホルストによると、債権者として最も可能性が高いのは姉妹のニーナであるという[28]
  7. ^ ケースは1898年5月にウィリアム・グラッドストンの葬儀においてベートーヴェンの『4本のトロンボーンのための3つのエクアーレ』(WoO30)が演奏されるにあたり、助力を行った人物である[30]
  8. ^ ヴォーン・ウィリアムズは1937年9月19日にイモージェン・ホルストへ宛てた手紙の中でこのことを書いた上で、いつものように「レイフおじさん」と署名を行っている。同じ書簡の中で、彼は「芸術家というものは毎度生まれ変わり、一から新作に取り組むのだ」というホルストの見解を記している[47]
  9. ^ イモージェン・ホルストはホルストが禁酒を解くように説得された時のことを詳述している。シャンパン1杯で勢いづいた彼はあるワルツのピッコロパートをトロンボーンで吹いてみせ、これにワームは驚き賛辞を贈った[44]
  10. ^ ホルストはそれらが「口語英語での翻訳で誤解を招く」か、そうでなければ「英語話者の頭にとっては何の意味も示さない英単語の羅列」であると考えていた[67]
  11. ^ 2013年、サイモン・ゲイとマーク・デイヴィスは書籍『The Ringing World』の中でホルストが転調鳴鐘に関心を寄せており、「自らの作曲の才能をこの方向へ向けたのかもしれない」と報告している。ホルストの遺した書類を調べる中で、彼らは2つの調律された鐘のための作品を発見している。「そこからは、ホルストが当時の鳴鐘の考え方に比べて著しく進んでいたことが分かる。」これらの作品は2013年4月の時点では、実際に演奏されたことはない[90]
  12. ^ ホルストによれば『サロニカ、ピカデリー・サーカス』から送ったという手紙の中で、次のような助言がある。『火星。素晴らしく澄んだ演奏をしてくれました。(中略)今回はもっと《騒々しく》できますか?それと、もっとクライマックスの感覚を作れるでしょうか?例えば、少しだけテンポを速めるなど?ともかく、もっと不快に、そして遥かに恐ろしく聞こえなければなりません[104]。』
  13. ^ 理事会より任命を受けた事務や生徒指導を担う担当者のこと[108]
  14. ^ ホルストがこのルールを曲げた2つの例外がイェール大学ハウランド記念賞英語版(1924年)、ロイヤル・フィルハーモニック協会のゴールド・メダル(1930年)であった[13]
  15. ^ 「スティーヴン・アダムズ」はマイケル・メイブリックの筆名である。メイブリックは歌曲『The Holy City』でよく知られる、ヴィクトリア朝風の感傷的なバラッドを書いたイギリスの作曲家である[140]
  16. ^ 当時、ホルストはアラン・レオ英語版が著した小冊子『What is a Horoscope?』(ホロスコープとは何か)を読んでいるところだった[157]
  17. ^ ディッキンソンの著書を編集したアラン・ギブズは脚注において、ラグビー・ワールドカップで応援歌として歌われた「嘆かわしい1990年代バージョン」の「木星」を聴く前にディッキンソンとイモージェンがともにこの世を去っていたことは、おそらく幸運であったと述べている[163]
  18. ^ ショートの述べるところでは、「木星」の上昇する4度はアーロン・コープランドの『アパラチアの春』で聞かれると述べ、『イエス賛歌』はイーゴリ・ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』と「正式な連作カンタータ」の先駆と考えられるのではないかと論じる。とはいえ「ストラヴィンスキーがこの作品を熟知していたか、もしくは知っていたかすらも疑わしい」ということは認めている[197]

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参考文献

外部リンク