コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「英和対訳袖珍辞書」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
テンプレ追加
(3人の利用者による、間の5版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 書籍
{{出典の明記| date = 2022-09}}
| title = 英和対訳袖珍辞書
『'''英和対訳袖珍辞書'''』(えいわたいやくしゅうちんじしょ、欧文名: A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language)は、[[堀達之助]]が編纂した日本初の本格的刊本[[英和辞典]]。953ページよりなる。[[1862年]]([[文久]]2年)出版で、刊行部数は約200部。収録語数は約35,000。「袖珍」というのは、「袖に入れて携帯するのに便利である」という意味で、"pocket"に対応した語である。その形状から「枕辞書」とも呼ばれて珍重された。
| image = <!-- 画像(「[[」「]]」や「画像:」「Image:」は不要) -->
| image_size = <!-- 画像の幅(「px」は不要) -->
| image_caption = <!-- 画像の概要 -->
| author = [[堀達之助]]
| published = [[1862年]]([[文久]]2年)
| publisher = <!-- 発行元 -->
| genre = [[英和辞典]]
| country = {{JPN}}
| language = <!-- 言語 -->
| series = <!-- シリーズ -->
| type = <!-- 形態 -->
| pages = <!-- ページ数 -->
| portal1 = 書物
| portal2 = 歴史
| portal3 = 文学
| portal4 = 言語学
}}
'''英和対訳袖珍辞書'''(えいわたいやくしゅうちんじしょ)とは、[[1862年]]([[文久]]2年)に[[堀達之助]]が編集した[[辞典|辞書]]である{{Sfnp|清水|2010|p=6}}。[[日本]]における最初の[[英和辞典|英和辞書]]といわれており{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}、[[海賊版]]を含む様々な版が刊行された{{Sfnp|清水|2010|p=6}}{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。


== 出版の経緯 ==
開国にともない、英語教育の需要が高まっていたが、すでに編纂されていた『[[諳厄利亜語林大成]]』に不十分な点が多かったことから、堀を筆頭に[[西周 (啓蒙家)|西周]]、[[千村五郎]]、竹原勇四郎、[[箕作麟祥]]などが編纂に参加し、本書が完成した。
=== 初版 ===
[[オランダ人]]のピカードによる『A New Pocket Dictionary of the English-Dutch and Dutch-English(英蘭・ 蘭英ポケット辞典)』1857年再版のオランダ語部分を[[日本語]]に訳して作成された{{Sfnp|清水|2010|p=6}}。日本語訳にあたっては『[[ハルマ和解|波留麻和解]]』『[[訳鍵]]』『[[道富波留麻]]』『[[和蘭字彙]]』『English and Chinese Dictionary(英華辞典)』などが参照されたという{{Sfnp|清水|2010|p=6}}。なお、底本については1843年初版とする説もあったが、岩崎克己の研究により第2版に確定した{{Sfnp|杉本|1980|p=2}}。


編者の堀達之助は、[[島津斉彬]]から提供された江戸藩邸の[[座敷牢]]にて草稿を作成した{{Sfnp|惣郷|1974|p=166}}{{#tag:ref|2007年、[[高崎市]]の古書店主である名雲純一は『英和対訳袖珍辞書』初版の草稿と慶應2年版の校正原稿を発見し、同書店の古書目録で公開した{{Sfnp|三好|2007|p=87}}。|group="註"}}。島津斉彬は堀の学識を高く評価しており、当時江戸で横行した[[攘夷派]]に執筆が邪魔されないよう、余人が近づけない江戸藩邸を提供したとされている{{Sfnp|惣郷|1974|p=163}}。また、西周助([[西周]])、[[千村五郎]]、竹原勇四郎、箕作禎一郎が辞書の作成に協力した{{Sfnp|惣郷|1974|p=163}}。
H. Picardの著した[[英蘭辞典]]"A New Dictionary of the English and Dutch Languages"の[[オランダ語]]部分を和訳する方法によって編纂が進められた。


1862年(文久2年)に出版された初版の収録語数は35,000で{{Sfnp|村端|2005|p=51}}、装丁・印刷は、表紙が黒のモロッコ総革装、三方の縁は薄桃色を施した洋装、用紙は鳥の子紙に両面摺、英語はオランダ献上の鉛製活字、訳語は1頁1枚の木版で、日本最初の印刷本としては誇るにたるものであったという{{Sfnp|清水|2010|p=6}}{{Sfnp|惣郷|1974|p=163}}。大きさは縦164ミリメートル、横196ミリメートル、厚さ46ミリメートルで、幕府の洋学研究所である[[洋書調所]]から200部が出版された{{Sfnp|清水|2010|p=6}}{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}{{Sfnp|惣郷|1974|p=163}}。本書は発売後たちまち売り切れとなり、定価2両のところ20両で取引されたという{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}。
[[1866年]](慶応2年)には、堀越亀之助編纂、[[柳河春三]]・[[田中芳男]]協力による改訂版『改正増補英和対訳袖珍辞書』が刊行された<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/shuchinjisho/explain/explain_01.html 堀達之助『英和対訳袖珍辞書』について] - 堀達之助『英和対訳袖珍辞書』デジタルライブラリ</ref>。


== 登場する作品 ==
=== 慶應2年版 ===
本書の需要は高く、明治20(1887)年代までに何種類も刊行された{{Sfnp|清水|2010|p=6}}。[[1866年]]([[慶応|慶應]]2年)には、洋書調所の後進である[[開成所]]が、初版を訂正増補した『改正増補英和対訳袖珍辞書』を出版している{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}。本版の編纂にあたっては堀越亀之助が主任を、柳河春三、田中芳男らが補佐を務めた{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}。この時は1,000部を印刷したが、それでもなお需要を満たしきれなかったという{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}。
*[[吉村昭]]『黒船』([[中公文庫]],1994年) - 堀達之助による編纂の様子が詳細に描かれ、中盤のハイライトシーンとなっている。

慶應2年版は、縦158ミリメートル、横193ミリメートル、厚さ48ミリメートル、表紙は布装または紙装で、本文用紙は雁皮紙で和本仕立になっている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。また、本文のページ数は初版と同じ953ページであるが、新しく追改、不規則動辞表、ABBREVIATIONS EXPLAINED、象形記号之解が加わって合計998ページとなっている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}{{#tag:ref|初版のページ数について、清水稔は998としているが{{Sfnp|清水|2010|p=6}}、惣郷正明は「堀達之助のPREFACE2ペ ージ、略語之解1ページにつづいて本文937ページで終る」と記している{{Sfnp|惣郷|1974|p=163}}。なお、惣郷は慶應2年版のページ数を998としている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。|group="註"}}。

なお、三好彰は慶応2年版について「邦訳語が見直されて実用性が高まっている。慶応2年版の改訂に本草学者であり後年[[博物学]]の確立に貢献した田中芳男が加わったことで、文久2年版に比し博物学関係の邦訳語を充実させたことが知られている」と述べている{{Sfnp|三好|2007|p=97}}。

=== 慶應3年版 ===
[[1867年]](慶應3年)にも新版が刊行された{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。慶應3年版は、縦150-155ミリメートル、横218-222ミリメートル、表紙は布装で、用紙は厚さ25ミリメートルの薄葉紙、もしくは厚さ85ミリメートルの美濃紙が用いられている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。また、日本文の木版は慶應2年版のものが流用されている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。なお、慶應3年版の特徴は、英語の活字が全て木版に新しくなぞり彫りされていること、本文のまわりがケイで囲まれていること、袋綴じの和本形式となっていること、従来のページ番号に代わって版心に丁数が打たれていることである(計499丁){{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。

=== 明治2年版 ===
[[1869年]](明治2年)にも新版が出版される{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。本版の扉は慶應3年のままで、巻末の499丁裏に「官許 明治二巳巳年」、対向の裏表紙の内側に「書肆 蔵田屋清右衛門」と記されている。また、慶應版の扉または巻末に押されていた「開成所刊行」の朱印は「徳川蔵版之章」に変わっている{{Sfnp|惣郷|1974|p=164}}。

なお『英和対訳袖珍辞書』の英文タイトルは "A POCKET DICTIONARY OF THE ENGLISH AND JAPANESE LANGUAGE" であり、本来複数形であるべき "LANGUAGES" が単数形となっているが、これは初版から明治2年版まで訂正されなかった{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。竹中龍範はこれについて「何らかの単純ミスであろうと思われるが、扉といういわば書物の顔とも言うべきところであること、3度にわたる改訂でも正されなかったことを考えると不可解と言わざるを得ない」と述べている{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。

=== 海賊版 ===
『英和対訳袖珍辞書』は海賊版も出版された{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。薩摩藩の前田正毅、高橋良昭は G. F. Verbeck のサポートのもと、1869年(明治2年)に『英和対訳袖珍辞書』の海賊版『和訳英辞書』を出版し、[[1871年]](明治4年)にはその改訂版である『和訳英辞林』を出版した{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。これは「薩摩辞書」として親しまれ、[[1872年]](明治5年)には本書をもとにした『英和対訳辞書』が出版された{{Sfnp|竹中|1997|p=5}}。

== 評価 ==
=== 日本初の英和辞書として ===
[[清水稔]]は「日本最初の辞典としては『[[諳厄利亜語林大成]]』(筆写本)をあげる説もあるが、辞書・活字印刷本という観点からすれば『英和対訳袖珍辞書』が最初だろう」と述べている{{Sfnp|清水|2010|p=6}}。また、竹中龍範も「『諳厄利亜語林大成』が[[文化 (元号)|文化]]1(1814)年に編まれているが、これは長崎に留め置かれた草稿本、抜稿本と幕府献上本、および薩摩の[[島津氏|島津家]]、[[水戸徳川家|水戸の徳川家]]などに筆写されて伝えられたものがあるに過ぎず、いずれも写本で、刊本辞書として一般に利用されることを意図したものではない。また、その内容も見出し語およそ6,000と少なく、辞書とするよりは単語帳と位置付けるべきであるとの考えもある。したがって、この『英和対訳袖珍辞書』こそわが国の英語辞書史上、最初の英和辞書と位置づけることができる」と述べている{{Sfnp|竹中|1997|p=4}}。

=== 訳語の工夫 ===
『英和対訳袖珍辞書』の草稿を分析した三好彰は「草稿の訳語の校正状況から[[近代語]]の作成過程の一端がうかがえる。言い換えれば文明開化を先取りした関係者の苦闘の様が見える。たとえば現在では通常 『二重母音』と訳される Diphthong は、校正前は『韻母ノ二ッ付テアル韻」 だったのが、朱で消されて『二合韻』に訂正され、最終的に文久2年版で『二重韻』となっている」と述べている{{Sfnp|三好|2007|p=90}}{{Sfnp|三好|2007|p=91}}。また、遠藤智夫は「『英和対訳袖珍辞書』の訳語は、『和蘭字彙』に最も多く依存している。依存率は7割程度である。底本の H. Picard の英蘭辞典の蘭訳が句になっていて、『和蘭字彙』に見出し語がない場合、各単語を『和蘭字彙』で引き、その訳を結合させて直訳している。『和蘭字彙』と全く異る訳語が2割強あり、『道訳法爾馬』、『波留麻和解』、『訳鍵』、『増補改正訳鍵』のそれぞれのみと、訳語が一致するものが少数ながらある」と指摘している{{Sfnp|遠藤|1994|p=135}}。

=== 後世への影響 ===
村端五郎は『英和対訳袖珍辞書』について「その文法用語訳が後のわが国の英和辞書に与えた影響の大きさから極めて重要な辞書として英学史に刻まれている」「『略語之解』で示されている文法用語訳は、『詞』が『辞』となっている以外は、今日私たちが使用している用語とほとんど差はない」と指摘している{{Sfnp|村端|2005|p=51}}{{Sfnp|村端|2005|p=52}}。

== 所蔵機関 ==
[[早稲田大学図書館]]は、初版、再版第1刷、再版第2刷、再版第3刷、そしていわゆる「薩摩辞書」など十余本を所蔵している{{Sfnp|杉本|1980|p=1}}。これについて[[杉本つとむ]]は「おそらく日本の大学や古い図書館で、これだけ質量ともにそろっているところは珍しく、十分に誇るに足る」と評している{{Sfnp|杉本|1980|p=1}}。なお、うち8冊は英文学者の勝俣銓吉郎が寄贈したものである{{Sfnp|遠藤|2003|p=101}}。

また、[[牧野富太郎]]も各版を所蔵しており、これらは牧野植物園牧野文庫の蔵書目録に登録された{{Sfnp|遠藤|2003|p=101}}。遠藤智夫は「『英和対訳袖珍辞書』はその再版において、博物関係訳語が飛躍的に充実しており、植物学者牧野富太郎にとって、『英和対訳袖珍辞書』初版よりも、再版『改正増補英和対訳袖珍辞書』慶応二年刊の訳語が、その植物学研究に不可欠だったと、容易に推定できよう。『牧野日本植物図鑑』などを執筆する際に、『改正増補英和対訳袖珍辞書』は、牧野富太郎の座右の書となったはずである」と推測している{{Sfnp|遠藤|2003|p=101}}。

なお、各版ごとの所蔵機関については、遠藤智夫の論稿「『英和対訳袖珍辞書』・『改正増補 英和対訳袖珍辞書』所蔵一覧」にまとめられている{{Sfnp|遠藤|2006|p=118}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{Reflist|group=註}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 外部リンク ==
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[遠藤智夫]]|title=『英和対訳袖珍辞書』に見られる先行諸辞書の影響|journal=英学史研究|volume=1995|number=27|year=1994|pages=135-149|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1995/27/1995_27_135/_article/-char/ja/|doi=10.5024/jeigakushi.1995.135|ref={{SfnRef|遠藤|1994}}}}
* [http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=英和対訳袖珍辞書 早稲田大学図書館古典籍総合データベース] - 2017年3月13日閲覧
* {{Cite journal|和書|author=遠藤智夫|title=牧野富太郎と『英和対訳袖珍辞書』|journal=英学史研究|volume=2004|number=36|year=2003|pages=101-116|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2004/36/2004_36_101/_article/-char/ja/|doi=10.5024/jeigakushi.2004.101|ref={{SfnRef|遠藤|2003}}}}
* [http://www.museum.city.ichinoseki.iwate.jp/collection/det36.html 一関市博物館] - 2017年3月13日閲覧
* {{Cite journal|和書|author=遠藤智夫|title=『英和対訳袖珍辞書』・『改正増補英和対訳袖珍辞書』所蔵一覧|journal=英学史研究|volume=2007|number=39|year=2006|pages=117-129|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2007/39/2007_39_117/_article/-char/ja/|doi=10.5024/jeigakushi.2007.117|ref={{SfnRef|遠藤|2006}}}}
* [https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/shuchinjisho/index.html 堀達之助『英和対訳袖珍辞書』デジタルライブラリ]
* {{Cite journal|和書|author=清水稔|year=2010|title=外来文化の受容の歴史から見た日本の外国語学習と教育について|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0094/BO00940L001.pdf
|journal=佛教大学 文学部論集|volume=94|page=1-14|ref={{SfnRef|清水|2010}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[杉本つとむ]]|title=早稲田大学図書館蔵 『英和対訳袖珍辞書』の一考察|journal=早稲田大学図書館紀要|volume=21|date=1980-03|pages=1-22|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677447272960|ref={{SfnRef|杉本|1980}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[惣郷正明]]|title=「英和対訳袖珍辞書」考|journal=英学史研究|volume=1975|number=7|year=1974|pages=163-169|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1975/7/1975_7_163/_article/-char/ja/|doi=10.5024/jeigakushi.1975.163|ref={{SfnRef|惣郷|1974}}}}
* {{Cite journal|和書|author=竹中龍範|title=英和對譯袖珍辭書|journal=香川大学附属図書館報|volume=24|year=1997|pages=4-5|url=https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/526|ref={{SfnRef|竹中|1997}}}}
* {{Cite journal|和書|author=三好彰|title=新発見『英和対訳袖珍辞書』の草稿および校正原稿の考察|journal=英学史研究|volume=2008|number=40|year=2007|pages=87-103|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/2008/40/2008_40_87/_article/-char/ja/|doi=10.5024/jeigakushi.2008.87|ref={{SfnRef|三好|2007}}}}
* {{Cite journal|和書|author=村端五郎|title=川田文庫『英和対訳袖珍辞書』の遍歴をめぐって|journal=国際社会文化研究|volume=5|publisher=高知大学人文学部国際社会コミュニケーション学科|year=2005|pages=49-68|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282812913217920|ref={{SfnRef|村端|2005}}}}

== 関連文献 ==
<!--記事本文には出典として明記されていないものの、記事に深く関係する文献の一覧です。「脚注」に使用した際は、「参考文献」欄へ移行して下さい。-->
* {{Cite book|和書|author=竹村覚|title=日本英学発達史|publisher=名著普及会|year=1982|NCID=BN02927820}}
* {{Cite book|和書|author=肖江楽|title=『英和対訳袖珍辞書』の研究|publisher=[[武蔵野書院]]|year=2021|isbn=9784838607402}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[諳厄利亜語林成]] - 日本初の和辞典
* [[和英語林成]] - 日本初の[[辞典]]

*『[[和英語林集成]]』 - 日本最初の英語で書かれた日本語辞典([[和英辞典]])
== 外部リンク ==
* [http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=英和対訳袖珍辞書 英和対訳袖珍辞書] - 早稲田大学図書館古典籍総合データベース
* [https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/shuchinjisho/index.html 堀達之助『英和対訳袖珍辞書』デジタルライブラリ] - 立教大学


{{DEFAULTSORT:えいわたいやくしゆうちんししよ}}
{{DEFAULTSORT:えいわたいやくしゆうちんししよ}}

2024年3月11日 (月) 12:36時点における版

英和対訳袖珍辞書
著者 堀達之助
発行日 1862年文久2年)
ジャンル 英和辞典
日本の旗 日本
ウィキポータル 書物
ウィキポータル 歴史
ウィキポータル 文学
ウィキポータル 言語学
[ ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表示

英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくしゅうちんじしょ)とは、1862年文久2年)に堀達之助が編集した辞書である[1]日本における最初の英和辞書といわれており[2]海賊版を含む様々な版が刊行された[1][3]

出版の経緯

初版

オランダ人のピカードによる『A New Pocket Dictionary of the English-Dutch and Dutch-English(英蘭・ 蘭英ポケット辞典)』1857年再版のオランダ語部分を日本語に訳して作成された[1]。日本語訳にあたっては『波留麻和解』『訳鍵』『道富波留麻』『和蘭字彙』『English and Chinese Dictionary(英華辞典)』などが参照されたという[1]。なお、底本については1843年初版とする説もあったが、岩崎克己の研究により第2版に確定した[4]

編者の堀達之助は、島津斉彬から提供された江戸藩邸の座敷牢にて草稿を作成した[5][註 1]。島津斉彬は堀の学識を高く評価しており、当時江戸で横行した攘夷派に執筆が邪魔されないよう、余人が近づけない江戸藩邸を提供したとされている[7]。また、西周助(西周)、千村五郎、竹原勇四郎、箕作禎一郎が辞書の作成に協力した[7]

1862年(文久2年)に出版された初版の収録語数は35,000で[8]、装丁・印刷は、表紙が黒のモロッコ総革装、三方の縁は薄桃色を施した洋装、用紙は鳥の子紙に両面摺、英語はオランダ献上の鉛製活字、訳語は1頁1枚の木版で、日本最初の印刷本としては誇るにたるものであったという[1][7]。大きさは縦164ミリメートル、横196ミリメートル、厚さ46ミリメートルで、幕府の洋学研究所である洋書調所から200部が出版された[1][2][7]。本書は発売後たちまち売り切れとなり、定価2両のところ20両で取引されたという[2]

慶應2年版

本書の需要は高く、明治20(1887)年代までに何種類も刊行された[1]1866年慶應2年)には、洋書調所の後進である開成所が、初版を訂正増補した『改正増補英和対訳袖珍辞書』を出版している[2]。本版の編纂にあたっては堀越亀之助が主任を、柳河春三、田中芳男らが補佐を務めた[2]。この時は1,000部を印刷したが、それでもなお需要を満たしきれなかったという[2]

慶應2年版は、縦158ミリメートル、横193ミリメートル、厚さ48ミリメートル、表紙は布装または紙装で、本文用紙は雁皮紙で和本仕立になっている[9]。また、本文のページ数は初版と同じ953ページであるが、新しく追改、不規則動辞表、ABBREVIATIONS EXPLAINED、象形記号之解が加わって合計998ページとなっている[9][註 2]

なお、三好彰は慶応2年版について「邦訳語が見直されて実用性が高まっている。慶応2年版の改訂に本草学者であり後年博物学の確立に貢献した田中芳男が加わったことで、文久2年版に比し博物学関係の邦訳語を充実させたことが知られている」と述べている[10]

慶應3年版

1867年(慶應3年)にも新版が刊行された[9]。慶應3年版は、縦150-155ミリメートル、横218-222ミリメートル、表紙は布装で、用紙は厚さ25ミリメートルの薄葉紙、もしくは厚さ85ミリメートルの美濃紙が用いられている[9]。また、日本文の木版は慶應2年版のものが流用されている[9]。なお、慶應3年版の特徴は、英語の活字が全て木版に新しくなぞり彫りされていること、本文のまわりがケイで囲まれていること、袋綴じの和本形式となっていること、従来のページ番号に代わって版心に丁数が打たれていることである(計499丁)[9]

明治2年版

1869年(明治2年)にも新版が出版される[9]。本版の扉は慶應3年のままで、巻末の499丁裏に「官許 明治二巳巳年」、対向の裏表紙の内側に「書肆 蔵田屋清右衛門」と記されている。また、慶應版の扉または巻末に押されていた「開成所刊行」の朱印は「徳川蔵版之章」に変わっている[9]

なお『英和対訳袖珍辞書』の英文タイトルは "A POCKET DICTIONARY OF THE ENGLISH AND JAPANESE LANGUAGE" であり、本来複数形であるべき "LANGUAGES" が単数形となっているが、これは初版から明治2年版まで訂正されなかった[3]。竹中龍範はこれについて「何らかの単純ミスであろうと思われるが、扉といういわば書物の顔とも言うべきところであること、3度にわたる改訂でも正されなかったことを考えると不可解と言わざるを得ない」と述べている[3]

海賊版

『英和対訳袖珍辞書』は海賊版も出版された[3]。薩摩藩の前田正毅、高橋良昭は G. F. Verbeck のサポートのもと、1869年(明治2年)に『英和対訳袖珍辞書』の海賊版『和訳英辞書』を出版し、1871年(明治4年)にはその改訂版である『和訳英辞林』を出版した[3]。これは「薩摩辞書」として親しまれ、1872年(明治5年)には本書をもとにした『英和対訳辞書』が出版された[3]

評価

日本初の英和辞書として

清水稔は「日本最初の辞典としては『諳厄利亜語林大成』(筆写本)をあげる説もあるが、辞書・活字印刷本という観点からすれば『英和対訳袖珍辞書』が最初だろう」と述べている[1]。また、竹中龍範も「『諳厄利亜語林大成』が文化1(1814)年に編まれているが、これは長崎に留め置かれた草稿本、抜稿本と幕府献上本、および薩摩の島津家水戸の徳川家などに筆写されて伝えられたものがあるに過ぎず、いずれも写本で、刊本辞書として一般に利用されることを意図したものではない。また、その内容も見出し語およそ6,000と少なく、辞書とするよりは単語帳と位置付けるべきであるとの考えもある。したがって、この『英和対訳袖珍辞書』こそわが国の英語辞書史上、最初の英和辞書と位置づけることができる」と述べている[2]

訳語の工夫

『英和対訳袖珍辞書』の草稿を分析した三好彰は「草稿の訳語の校正状況から近代語の作成過程の一端がうかがえる。言い換えれば文明開化を先取りした関係者の苦闘の様が見える。たとえば現在では通常 『二重母音』と訳される Diphthong は、校正前は『韻母ノ二ッ付テアル韻」 だったのが、朱で消されて『二合韻』に訂正され、最終的に文久2年版で『二重韻』となっている」と述べている[11][12]。また、遠藤智夫は「『英和対訳袖珍辞書』の訳語は、『和蘭字彙』に最も多く依存している。依存率は7割程度である。底本の H. Picard の英蘭辞典の蘭訳が句になっていて、『和蘭字彙』に見出し語がない場合、各単語を『和蘭字彙』で引き、その訳を結合させて直訳している。『和蘭字彙』と全く異る訳語が2割強あり、『道訳法爾馬』、『波留麻和解』、『訳鍵』、『増補改正訳鍵』のそれぞれのみと、訳語が一致するものが少数ながらある」と指摘している[13]

後世への影響

村端五郎は『英和対訳袖珍辞書』について「その文法用語訳が後のわが国の英和辞書に与えた影響の大きさから極めて重要な辞書として英学史に刻まれている」「『略語之解』で示されている文法用語訳は、『詞』が『辞』となっている以外は、今日私たちが使用している用語とほとんど差はない」と指摘している[8][14]

所蔵機関

早稲田大学図書館は、初版、再版第1刷、再版第2刷、再版第3刷、そしていわゆる「薩摩辞書」など十余本を所蔵している[15]。これについて杉本つとむは「おそらく日本の大学や古い図書館で、これだけ質量ともにそろっているところは珍しく、十分に誇るに足る」と評している[15]。なお、うち8冊は英文学者の勝俣銓吉郎が寄贈したものである[16]

また、牧野富太郎も各版を所蔵しており、これらは牧野植物園牧野文庫の蔵書目録に登録された[16]。遠藤智夫は「『英和対訳袖珍辞書』はその再版において、博物関係訳語が飛躍的に充実しており、植物学者牧野富太郎にとって、『英和対訳袖珍辞書』初版よりも、再版『改正増補英和対訳袖珍辞書』慶応二年刊の訳語が、その植物学研究に不可欠だったと、容易に推定できよう。『牧野日本植物図鑑』などを執筆する際に、『改正増補英和対訳袖珍辞書』は、牧野富太郎の座右の書となったはずである」と推測している[16]

なお、各版ごとの所蔵機関については、遠藤智夫の論稿「『英和対訳袖珍辞書』・『改正増補 英和対訳袖珍辞書』所蔵一覧」にまとめられている[17]

脚注

注釈

  1. ^ 2007年、高崎市の古書店主である名雲純一は『英和対訳袖珍辞書』初版の草稿と慶應2年版の校正原稿を発見し、同書店の古書目録で公開した[6]
  2. ^ 初版のページ数について、清水稔は998としているが[1]、惣郷正明は「堀達之助のPREFACE2ペ ージ、略語之解1ページにつづいて本文937ページで終る」と記している[7]。なお、惣郷は慶應2年版のページ数を998としている[9]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 清水 (2010), p. 6.
  2. ^ a b c d e f g 竹中 (1997), p. 4.
  3. ^ a b c d e f 竹中 (1997), p. 5.
  4. ^ 杉本 (1980), p. 2.
  5. ^ 惣郷 (1974), p. 166.
  6. ^ 三好 (2007), p. 87.
  7. ^ a b c d e 惣郷 (1974), p. 163.
  8. ^ a b 村端 (2005), p. 51.
  9. ^ a b c d e f g h i 惣郷 (1974), p. 164.
  10. ^ 三好 (2007), p. 97.
  11. ^ 三好 (2007), p. 90.
  12. ^ 三好 (2007), p. 91.
  13. ^ 遠藤 (1994), p. 135.
  14. ^ 村端 (2005), p. 52.
  15. ^ a b 杉本 (1980), p. 1.
  16. ^ a b c 遠藤 (2003), p. 101.
  17. ^ 遠藤 (2006), p. 118.

参考文献

関連文献

  • 竹村覚『日本英学発達史』名著普及会、1982年。 NCID BN02927820 
  • 肖江楽『『英和対訳袖珍辞書』の研究』武蔵野書院、2021年。ISBN 9784838607402 

関連項目

外部リンク