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「按察使」の版間の差分

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記述の整理。関連項目に 按察使銜分巡台湾兵備道 追加。採訪使(採訪処置使)の設置年を「開元22年(734年)」に変更(鄭炳俊(1994)に拠る)乞う校閲。そのほか鄭炳俊(1994)等に拠り記述を補正・整理。
中国: 森安孝夫(2000) で節度使(武官・軍政)と観察処置使(文官・民政)の兼任、また節度使設置のない地方の「トップ」としての観察処置使について出典註。
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== 中国 ==
== 中国 ==
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2024年3月9日 (土) 08:14時点における版

按察使(あんさつし、あぜち)は中国日本朝鮮ベトナムにかつて存在した官職である。においては正三品であった。「按察使」の名称は唐代から用いられた。もともとは監察官のような性質の官職で、監察御史の役割に近かった。後代では司法官としての性質を強め、清代には臬台臬司廉訪使廉台などの別称があった。

中国

の初年(618年武徳元年〉)、按察使の前身が刺史制度に倣って派遣された[1]。以後も必要に応じて命ぜられ、地方政府の監察を目的に臣下が派遣されることとなった[2]。各道を巡察して地方の役人の考課をおこなう、御史に近い存在だった。ほぼ100年を経た景雲2年(711年)に十道に按察使を置いて常設の官職とした[3][4]。しかしその後の按察使は設置と廃止を繰り返し、開元22年(734年)に採訪処置使(略称: 採訪使)となり[4]、さらに乾元元年(758年)には観察処置使(略称: 観察使)へと改称した[5]。観察使の権限は唐代を通じて増大し[6]、地位としては各州の都督刺史よりも上位で、権限は節度使に次ぐものとなった[3][7]。節度使が置かれる場合は観察使も兼職するのが通例だった[7]

では節度使を虚職とし、最初は転運使中国語版提刑中国語版を兼ねたが、のちには別に提点刑獄司中国語版(四監司[8]の一つ)を設け、これがその後の按察使の原型となった[3]。唐代の観察使とは異なり、中国語版の最上位司法官となった[8]

では承安4年(1199年)に按察使と改称し、司法刑獄を管轄するようになった[3]

は按察使を肅政廉訪使と改めた[3]。略称は廉訪使で、これにより按察使の俗称は「廉訪」となった。これはの最上位の司法官と監察官を兼ねた。

において按察使の名称が復活した[3]。明は省レベル(明は元代に置かれた行省を設置しなかったが、「省」は三司の管轄する区域を指す俗称として民間で使われ続けた)では権力を三分割し、それぞれ三司中国語版に分掌させ、承宣布政使司提刑按察使司都指揮使司中国語版を置いた。布政使が「民政」、按察使が「刑名」、都指揮使が「軍事」を司った。

では布政使は省の長官ではなくなり、総督または(および)巡撫の部下となり、その省の首席官職となった。布政使は主に民政と税を、按察使は引きつづき司法を管轄し、都指揮使は廃止された。

臬台・臬司

これらの古典に基づき、のちに刑法の施行を「陳臬」と呼ぶようになり、司法官をも指すようにもなった。このため、司法官の性質を強めた按察使も「臬台」「臬司」の名で呼ばれるようになった。

日本

日本では奈良時代元正天皇養老3年(719年)に按察使が設けられた。これは地方行政を監督・監察する令外官だった。平安時代以降は陸奥国出羽国のみに按察使が置かれ、他国については中央官僚である大納言中納言少納言參議の兼任職となって形骸化した。

明治維新後、地方政治の監督官として明治2年に按察使が設けられたが、翌年には廃止された。

朝鮮

朝鮮半島においては高麗時代に設けられた。唐に倣って設けられた十道の行政の長だった。

ベトナム

ベトナムにおいては、按察使(Án sát sứ)が初めて現れるのは黎聖宗の時代で、洪徳2年(1471年)に全国に置いた12道の承宣それぞれに按察司を置いた[9]。ただし、それ以降、この名は登場せず、どうなったかは不明である。

のちに按察使となる官職が、阮主阮福源時代の1614年に「記録ベトナム語版」として設けられた。阮朝明命帝時代の明命8年(1827年)に「参協鎮ベトナム語版」と改称され、さらに明命12年(1831年)に按察使と改称された。

嗣徳帝の時代からは按察使は小規模な中国語版の副省長とみなされた。省長である巡撫を補佐した。

脚注

  1. ^ 鄭炳俊 1994, p. 42.
  2. ^ 鄭炳俊 1994, pp. 42–43.
  3. ^ a b c d e f 徐连达, ed (2010) (中国語). 中国官制大辞典. 上海: 上海大学. p. 425. ISBN 978-7-81118-556-0 
  4. ^ a b 鄭炳俊 1994, p. 43.
  5. ^ 鄭炳俊 1994, pp. 40, 50.
  6. ^ 鄭炳俊 1994, p. 60-65.
  7. ^ a b 森安孝夫「河西帰義軍節度使の朱印とその編年」『内陸アジア言語の研究』第15巻、中央ユーラシア学研究会、2000年10月、12頁、CRID 1050282812667505664hdl:11094/20397ISSN 1341-5670。「以後の節度使の多くは観察(処置)使を兼ねて内の民政をも掌握し、なかでも強大な中国北部の諸節度使は半独立的な勢力となる。一方、節度使が置かれず、観察(処置)使がトップであった所もあったが、その場合でも観察使が(都)防禦使や(都)団練使、あるいは経略使を兼ねて軍政を扱っていた。節度使と観察使の区別があったのは、武官文官は本来別であるという建前に由来するのか、それとも両者を分離して少しでも皇帝権力に歯向かう半独立勢力が生じる危険を防止しようとしたのか、その実態はわからない。」  ウィキペディア「藩鎮」項も参照せよ。
  8. ^ a b 梅原郁監司」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E7%9B%A3%E5%8F%B8コトバンクより2024年3月8日閲覧 「宋は府州県の上に監督区分として15ないし23の路を設け,その長官を監司と呼んだ。具体的には,主として人事・財政を担当する転運司,警察・司法の提点刑獄,軍事関係の安撫司,特殊財務を取り扱う提挙常平司の四者があり,それぞれ,漕司,憲司,帥司,倉司の別名を持った。」。(「北宋#地方」項も参照せよ。)
  9. ^ 八尾隆生「黎朝聖宗期の新開拓地を巡る中央政権と地方行政 : 安興碑文の分析」『東南アジア研究』第33巻第2号、京都大学東南アジア研究センター、1995年9月、159頁、CRID 1390282680084542592doi:10.20495/tak.33.2_143ISSN 2424-1377 

参考文献

関連項目