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その後、{{仮リンク|ノースパーク大学|en|North Park University}}では[[予備役将校訓練課程]]に参加し、また[[微生物学]]の[[学士(理学)|学士号]]を得ている<ref name=order>"War Hero Maintains Order as Sheriff," Harold Ellithorpe, ''Anderson Daily Bulletin'', Anderson, Indiana, October 3, 1957. p. 11.</ref>。1935年6月1日、シカゴにてジェーン・ウィルキンス(Jean Wilkins)と結婚。彼らの婚姻関係は1947年の離婚まで続いた。
その後、{{仮リンク|ノースパーク大学|en|North Park University}}では[[予備役将校訓練課程]]に参加し、また[[微生物学]]の[[学士(理学)|学士号]]を得ている<ref name=order>"War Hero Maintains Order as Sheriff," Harold Ellithorpe, ''Anderson Daily Bulletin'', Anderson, Indiana, October 3, 1957. p. 11.</ref>。1935年6月1日、シカゴにてジェーン・ウィルキンス(Jean Wilkins)と結婚。彼らの婚姻関係は1947年の離婚まで続いた。

==第二次世界大戦==
1936年、[[ノースウェスタン大学]]在学中に陸軍将校となる<ref name=part1>"Capt. Wermuth, "One Man Army" Tells of Heroic Stand on Bataan," Arthur Wermuth, ''The Coshocton Tribune'', September 24, 1945.</ref>。歩兵科予備役少尉に任官したワーマスは[[市民保全部隊]]に配属され、ミシガン州{{仮リンク|ウォーターズミート (ミシガン州)|label=ウォーターズミート|en|Watersmeet Township, Michigan}}近くで勤務した。この頃に荒野におけるサバイバル技術を学んだという<ref>None More Courageous - American War Heroes of Today. by [[Stewart Holbrook]]. 1942. ISBN 1-4067-4119-1</ref>。1941年1月には現役将校として[[スーセントマリー (ミシガン州)|スーセントマリー]]の{{仮リンク|レイク・スーペリア州立大学|label=フォート・ブラディ|en|Lake Superior State University}}に派遣され、4月までここに務めた。1941年12月10日、[[日本軍]]の[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン侵攻]]が始まった後、ワーマスは大尉に昇進すると共に、当時の米軍内では数少なかったフィリピン人部隊であり{{仮リンク|フィリピン・スカウト|en|Philippine Scouts}}部隊の1つである{{仮リンク|第57歩兵連隊 (アメリカ軍)|label=第57歩兵連隊|en|57th Infantry Regiment (United States)}}に配属された<ref name=part1/>。1942年1月5日、ワーマスは185人のフィリピン兵によって「自殺狙撃隊」(suicide snipers)として知られる部隊を編成した。これは戦線後方まで浸透して活動していた日本軍狙撃兵を排除する為のカウンター・スナイパー部隊だった。それから3週間のうちに、自殺狙撃隊は45人の戦死者を出しながら500人以上の敵兵を殺害したとされる<ref name=part2>"Captain Tells How Snipers Got Japs," Arthur Wermuth, ''The Coshocton Tribune'', September 26, 1945. p. 5.</ref>。ワーマスはフィリピン兵を率い橋梁や敵陣地への破壊工作を展開し、1月には足を撃たれて負傷する。2月3日には胸を撃たれ、治療の為に後送された。2月15日、無許可で病院を離れて部隊に戻る。4月初頭、巨大な落石に潰されて重傷を負い、再び後送された。その後、ワーマスは第2野戦病院(Field Hospital Number 2)にて目を覚ますが、その時点で既に病院は日本軍部隊に包囲されていた<ref name=part4>"Capt, Wermuth Reveals How He Was Captured," Arthur Wermuth, ''[[The Lowell Sun]]'', [[Lowell, Massachusetts]], September 27, 1945.</ref>。

ワーマスは捕虜となるまでに少なくとも116人の日本兵を殺害したとされている。1942年1月に[[殊勲十字章 (アメリカ合衆国)|殊勲十字章]]を授与され、以後は「バターンのワンマン・アーミー」として知られるようになった<ref>Home of the Heroes. [http://www.homeofheroes.com/members/02_DSC/citatons/03_wwii-dsc/army_w.html Distinguished Service Cross] "for extraordinary heroism in connection with military operations against an armed enemy while serving with the 57th Infantry Regiment, Philippine Scouts, in action against enemy forces from 10 to January 16, 1942", in the Philippine.</ref><ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,884460,00.html "One-Man Blitz"], ''Time'', February 23, 1942.</ref>。その他に[[シルバースター|銀星章]]と3つの[[パープルハート章|名誉戦傷章]]も授与されている<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,801369,00.html "Wonderful Lug"], ''Time'', March 16, 1942.</ref>。

===捕虜===
ワーマスはその後も日本軍の野戦病院で治療を受けた。1942年5月25日に退院し、[[ニュー・ビリビッド刑務所]]に収監される。依然として負傷の具合が深刻だったため、いわゆる[[バターン死の行進]]には割り当てられず、鉄道貨車で{{仮リンク|カバナツアン|en|Cabanatuan}}近くの捕虜収容所に移された。9月、500名ほどが働いていた[[バタンガス州]]{{仮リンク|リパ (バタンガス州)|label=リパ市|en|Lipa, Batangas}}の滑走路建設現場に送られる。建設作業の最中、ワーマスらはサボタージュの一環として爆撃機の着陸に耐えられないように滑走路の強度を落としていった。1943年1月、傷が悪化した為にニュー・ビリビッド刑務所へ送り返され、4月には刑務所内で捕虜のアメリカ人外科医による手術を受けることになる。6月、カバナツアン収容所に送り返され農場での作業に従事する。農場の労働環境は劣悪で、1944年1月にはある捕虜が作業中に[[厩肥]]の中へ倒れこんでしまった。ワーマスが日本側の指揮官に労働環境改善を申し出ると激しく殴打されて腎臓を損傷し、入院を余儀なくされた<ref name=captured>"Gallant Captain Tells How He Felt When He Was Captured," Arthur Wermuth, ''The Lowell Sun'', September 28, 1945.</ref>。

[[File:Oryoku Maru.jpg|thumb|1944年12月、{{仮リンク|オロンガポ|en|Olongapo}}近くで攻撃を受ける[[鴨緑丸]]]]
1944年10月13日にはニュービリビッド刑務所に戻される。12月、1,620人の捕虜の1人としていわゆる[[ヘルシップ]]の1隻でもあった[[鴨緑丸]]に載せられた<ref name="captured"/>。1944年12月15日、鴨緑丸は[[スービック湾]]{{仮リンク|オロンガポ|en|Olongapo}}近くにて[[ホーネット (CV-12)|米空母ホーネット]]所属部隊による爆撃を受けた。この際に数百人の捕虜が死亡したが、ワーマスは生き延びてオロンガポに降ろされ、そこから鉄道で[[サンフェルナンド (ラ・ウニョン州)|サンフェルナンド]]に送られた。彼の乗り込んだ貨車には160人の捕虜がつめ込まれており、目的に到着するまでの26時間は座ることもできなかった。ワーマスによれば、移動中に死んだ男が彼の足元に倒れており、移動させる余裕もなかったので、到着まで放置されていたという。1945年1月、[[台湾|台湾島]]へ向かう江之浦丸に載せられる<ref name=prisonship>"Horrors of Trip Aboard Jap Ship Carrying U.S. Prisoners Described," Arthur Wermuth, ''The Coshocton Tribune'', October 4, 1945.</ref>。江之浦丸も空母ホーネット所属部隊による爆撃を受けたが、この際の負傷によってワーマスは4つ目の名誉戦傷章を授与されている<ref>[http://www.oryokumaru.net/pdf%20files/weruth.pdf ''Deposition of Major Arthur Wermuth''].</ref><ref>west-point.org [http://www.west-point.org/family/japanese-pow/EricksonCSV.htm Oryoku Maru Roster].</ref>。台湾島到着後は日本本土、[[釜山]]を経由して[[満州国]][[奉天市]]の捕虜収容所に送られ、1945年8月に[[ソ連対日参戦|侵攻]]してきた[[赤軍]]によって解放された。ワーマスの体重について大戦初期の計測記録には{{convert|190|lb|kg}}とあるが、ロシア兵に発見された時には{{convert|105|lb|kg}}まで痩せていた。ワーマスはアメリカ本土へ向かう輸送船マリーン・シャーク号(SS Marine Shark)に乗り込み、1945年11月1日に[[サンフランシスコ]]に到着した。帰国後、ワーマスはフィリピン兵の貢献を称え、「私がやり遂げたとされている物事の9割は彼らによって成されたのだ。彼らは世界最高の兵隊だ。私はただ、適切な場所、適切な時に偶然居合わせただけなのだ」と語った<ref>'Bataan's "One-Man Army" Arrives, Disclaims Credit for Soldiering Feats,' ''[[Billings Gazette]]'', [[Billings, Montana]], November 2, 1945.</ref>。


==戦後==
==戦後==

2021年7月28日 (水) 01:17時点における版

アーサー・W・ワーマス
Arthur W. Wermuth
ワーマス大尉(左)とフィリピン人副官
渾名 「バターンのワンマン・アーミー」("One-Man Army of Bataan")
生誕 1915年
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 サウスダコタ州
死没 1981年(65 - 66歳没)
所属組織 アメリカ陸軍
最終階級 少佐(Major)
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アーサー・ウィリアム・ワーマス・ジュニア(Arthur William Wermuth, Jr., 1915年 - 1981年)は、アメリカ合衆国の軍人。アメリカ陸軍の将校として第二次世界大戦に従軍し、「バターンのワンマン・アーミー」(One-Man Army of Bataan)の異名で知られた。また、1942年4月から1945年8月までは捕虜として収容されていた。

経歴

1915年、医師で第一次世界大戦への従軍経験があった父と母クレア・ナタリー・ローレンツ(Clara Natalie Lorenz)の息子としてサウスダコタ州で生を受けた。姉のナタリー(Natalie)はプロのダンサーで、1940年代にはタリア(Talia)の芸名でシカゴを中心に活動していた[1]

ワーマスは少年期をシカゴレイク・ビュー近くの家で過ごした[2]。また、第二次世界大戦頃にはミシガン州トラバースシティに暮らしていた。

1932年、ワーマスはノースウェスタン陸海軍学校英語版を卒業した[3]。青年期の彼はスポーツ好きで、ボート競技フットボール、陸上競技、野球など、様々な競技に参加していた。この頃はチームメートから、サッチ(Satch)というあだ名で呼ばれていた。フットボールチームではガードタックルのポジションを務めたほか、野球では外野手を務め、打率は.299だった。陸上選手としては砲丸投円盤投に参加していた。卒業アルバムではスポーツ選手としてのワーマスについて、「守備の時、彼は誰も通さないハードな男だった。攻撃の時、多くの得点が彼が開いた穴によって得られた」("Defensively, he was a hard man to get through. Offensively, many gains were made through holes he opened.")と紹介している[4]

その後、ノースパーク大学英語版では予備役将校訓練課程に参加し、また微生物学学士号を得ている[5]。1935年6月1日、シカゴにてジェーン・ウィルキンス(Jean Wilkins)と結婚。彼らの婚姻関係は1947年の離婚まで続いた。

戦後

終戦直後、フィリピン人看護婦オリヴィア・ジョセフィーヌ・オズワルド(Olivia Josephine Oswald)が、1941年12月7日にマニラのグレートイースタンホテル屋上でワーマスと結婚したと主張した為にワーマスとの間で論争が起こった[6]。1947年6月4日にジェーンと離婚すると、同日中にパトリシア・スティール(Patricia Steele)と結婚した[7][8]。1956年頃、デイヴィッドという8歳の少年を養子として引き取っている[5]

1948年、カンザス州ウィチタの裁判所で裁判官(Marshal)に選ばれ[9]、1951年には作家L・ロン・ハバードの逮捕に関わっている[10]。1957年からコロラド州ジェファーソン郡で保安官(sheriff)を務める[11]。1962年5月1日、横領の容疑で起訴を受け辞職[12][13][14]。保安官としては1960年に起こったアドルフ・クアーズ3世英語版殺人事件の捜査に関与している。1960年代初頭にはジュリア(Julia)という女性と再婚したという。

脚注

  1. ^ "Widow Finds Secret of Peace in Small Town in Black Hills," Hal Boyle, Post-Tribune, Jefferson City, Missouri, August 5, 1954. p. 6.
  2. ^ Southport Neighborhood Association, Chicago. September 2002 Newsletter.
  3. ^ SJNMA Alumni list.
  4. ^ 'Art Wermuth, "One-Man Army of Bataan", Was Known As "Just a Regular Guy" During School,' Burton Benjamin, Ironwood Daily Globe, Ironwood, Michigan. February 25, 1942. p. 8.
  5. ^ a b "War Hero Maintains Order as Sheriff," Harold Ellithorpe, Anderson Daily Bulletin, Anderson, Indiana, October 3, 1957. p. 11.
  6. ^ "Marriage claims", Time, February 11, 1946.
  7. ^ "War Hero Divorced and Wed in an Hour [on June 4, 1947]" Joplin Globe, June 5, 1947.
  8. ^ "Marriage", Time, June 16, 1947.
  9. ^ "Marshal of City Court, Wichita" Time, November 15, 1948.
  10. ^ "Dianetics leader found in Wichita", Los Angeles Daily News, April 15, 1951.
  11. ^ "One-Man Army Named Sheriff [of Jefferson County, Colorado]," Daily Globe, Ironwood, Michigan. January 12, 1957. Page 1.
  12. ^ "Hero of Bataan Facing Charges," The Progress-Index, Petersburg, Virginia. September 19, 1961. p. 7. (indicted for "illegally obtaining $3,673 in county funds over a two-year period.")
  13. ^ "Sheriff Fined For Paint Theft," Daily Capital News, Jefferson City, Missouri, March 6, 1962, p. 1. (Fined $240 for personal use of $37 worth of county paint, was set to resign May 1, 1962 as Sheriff.)
  14. ^ Turbulent Sixties 1960-69. - (Wermuth resigned in lieu of prosecution on indicted charges.)

参考文献

  • Achen, Norman and Lee Smart. Go With God ISBN 1-4120-6874-6
  • Holbrook, Stewart H. None More Courageous - American War Heroes of Today. 1942. ISBN 1-4067-4119-1
  • Ramsey, Edwin Price and Stephen J. Rivele. Lieutenant Ramsey's War: From Horse Soldier to Guerrilla Commander. Brassey's, 1996. ISBN 1-57488-052-7. page 72.

外部リンク