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検索結果

  • かせるのが通例であるため、通常は家司が書いた。そのため、差出人も家司であるが、必要に応じて主が袖判を加える事もある。 文末に「仰旨如此」、「者依仰執達如件」、「由被仰下候」など、文意が主の意思である事を強調した文言が付けられている。 下文が訴訟の判決、裁許状など効力が永久的になる正式文書であるのに対…
    3キロバイト (429 語) - 2024年8月28日 (水) 23:59
  • 額田拾人百姓之内、井口之郷次郎右衛門名田之内、大樹寺西川端畠之事、代物七貫文ニ作敷永代被召置候、但毎年年貢三百文宛、名主かたへ可有納所候、於以後不可有違乱煩者也、仍而執達如件  明応三年甲刁十月二十八日 松平紀伊入道栄金(花押) — 『大樹寺文書』松平栄金奉書 ^ 柴裕之は、松平惣領家(岩津松平家)とその庶流とされる大…
    9キロバイト (970 語) - 2024年8月15日 (木) 21:17
  • 開放された状態)にする政策を意味している。 諸商売楽座仁雖申出、於軽物座・唐人座者、任御朱印并去年勝家一行之旨可進退、商人衆中法用之儀者、可為定者也、仍如件、 天正四  九月十一日(花押)   橘屋三郎左衛門尉 — 【発給者】柴田勝家【橘家文書(福井県立歴史博物館蔵、福井県指定有形文化財)】 [脚注の使い方]…
    25キロバイト (3,712 語) - 2024年8月30日 (金) 01:37
  • 楠木正成のサムネイル
    、今日四月廿日若党新三郎顕宗、腰骨をすこし右へよりて被射候了。仍注進如件   正慶二年四月廿日 定兼(花押)     資兼」 ^ 『和田文書裏書』「  かん状正文    はるとき 於茅破城北山、至野臥合戦取頸了、尤神妙候、仍執達如件   正慶二年四月廿一日 治時     和田中次殿」(幕軍大将阿曽治時が和田助秀に与えた感状)…
    156キロバイト (20,888 語) - 2024年9月7日 (土) 13:27
  • 元寇のサムネイル
    國々、雖□莊園同下知之由、去夜自關東令申云々、異賊未入境、洛城欲滅亡歟、上下諸人之歎、不可有比類歟、實否猶可尋記之、異國合戰之間、當時兵粮米事、□要鎭西及因幡伯耆出雲石見國中□(國)□家本所一圓領得分、幷富有之□米穀令在者、可點□(定)□□(申)□(可被)□此旨可令申入春宮大夫□状如件
    464キロバイト (81,269 語) - 2024年9月18日 (水) 05:02
  • 年)当時の2つの史料から、頼氏に関する動向を読み取ることができる。 京都大番役事、自明正月一日至同六月晦日、随番頭足利三郎之催、可令勤仕□□、依仰執達如件、                                  (之状) 正嘉三年二月廿日  武蔵守(花押)  相模守(花押)…
    40キロバイト (5,322 語) - 2024年6月21日 (金) 02:10
  • ^ 播磨国凶徒事、忽乱人倫之紀綱、猶及梟悪之結構。攻而無赦、誅而不遺者乎。急速遣官軍可令加征伐給之由、天気所候也。以此旨可令申入給、仍執達如件 八月一日   左少弁俊秀(坊城俊秀) 謹上 右京大夫殿(細川持之) ^ a b 室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 227. ^ 室町幕府全将軍・管領列伝…
    29キロバイト (5,004 語) - 2024年9月9日 (月) 20:00
  • ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、 弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)…
    6キロバイト (809 語) - 2022年6月22日 (水) 13:40
  • 所行之企甚以無道也、縦雖為先例、何以非拠可備證跡哉、自今以後停止押領、彼損物已下慥船主可被糺返也、若猶遁事左右不被拘制法者、可被註進交名之状、依仰執達如件、 寛喜三年六月六日 武蔵守在判          相模守在判 駿河守殿 掃部助殿 — 式目追加 室町時代から戦国時代の海賊衆の慣習法が鎌倉幕府制…
    11キロバイト (1,906 語) - 2024年6月14日 (金) 11:47
  • 楠木正勝のサムネイル
    応永7年に数え50歳で没とあることから逆算。 ^ 『南狩遺文』より「和泉国召次領朝用分事、任今年後三月廿四日綸旨可被沙汰居土屋越後守於当所之由、所候也。仍執達如件。元中七年四月四日。伊予守。楠木右馬頭殿」 ^ 『応永記』では、単に楠と書かれ、個人名は不明。『応永記』異本の『堺記』にもやはりほぼ同じ記事がある…
    37キロバイト (5,353 語) - 2024年6月18日 (火) 23:27
  • 新郷川俣関所のサムネイル
    一公家・門跡衆・諸大名参向の節は前かどより其沙汰可有之間、不及改之、自然不審の儀あらば可為各別事 右可相守此旨者也 仍執達 如件 貞享 3年4月 日  奉行 高札場の管理は、忍からの役人及び勘定所によっておこなわれていた。 関所備付の道具…
    23キロバイト (3,692 語) - 2023年11月23日 (木) 00:43
  • 京極高国宛領知判物には「丹後国十弐万三千弐百石(目録在別紙)事、加佐郡之内三万五千石京極伊勢守可進退之、丹波郡之内峯山廻壱万石除之、残七万八千弐百石前々充行之訖、全可領知之状如件」とあり、別に領知朱印状・目録が発給された峰山藩の内の1万石を加えた丹後国内の京極家所領の石高合計の記述はあるが、宮津藩と田辺藩の都合…
    147キロバイト (4,302 語) - 2024年7月19日 (金) 00:46
  • 小野1931、19-21頁。 ^ 永正14年(1517年)大内義興宛散位美濃守連署執達状 「近年商売人不買取当所油而、或自専之或猥従方々令運送之条、言語道断之次第也」。 ^ 『室町幕府引付史料集成』上、別本賦引付四 「爰住京大山崎神人者、雌雄左右連両輪、守一天泰平四海安全、奉勤日使以下之大神事等者也、就中荏胡麻油…
    40キロバイト (7,131 語) - 2024年5月28日 (火) 16:01
  • 織田信長のサムネイル
    のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている。 ^ これに対して、山城・摂津・大和・河内などに対して出された信長発給文書は将軍である義昭の意を奉じたことを意味する「仍執達如件」の文言が含まれており、織田領国と幕府支配圏は明確に区分されていた。なお、この区分が無くなるのは、信長と義昭の決別が明確になった元亀4年3月以降のことになる。…
    289キロバイト (44,836 語) - 2024年9月29日 (日) 04:49
  • 督を継いだので、当初補佐役として、静誉上人(知恩院寺中別院入信院住侶実道ト云)、近藤有元(土岐日向守茶頭)が務め、その後、宗家の補佐、後見を任とする執達制度が興ると、その筆頭であった藤野昌章(総持院家中)が勝次郎の後見として選ばれ、以降家元業務に携わっていく。その支えの中で、勝次郎は秘伝書を整備する…
    45キロバイト (5,823 語) - 2024年7月23日 (火) 11:08
  • 士であったことは、下記の将軍家御判御教書案により確認される。 越中国野尻庄 波多野下野守同庶子等跡 事 為勲功之賞、所領置也者、早守先例可沙汰之状、如件 文和三年十二月晦日 富樫介殿 — 将軍家御判御教書(『富山県史』史料編中世所収第345号文書(301頁) 文書中の「富樫介」は加賀国の富樫氏春を指…
    17キロバイト (3,186 語) - 2024年5月5日 (日) 09:05
  • 楠木正儀のサムネイル
    だまさたけ)は主戦派の支持者であり、直義の言を信用していなかったらしく、同2月には常陸親王宮令旨として諏訪部助直ら中国地方の南朝武将たちに戦闘準備を執達していた(『三刀屋文書』)。亀田の推測によれば、直義が北朝の年号である観応を使い続けていたことも、南朝主戦派からの不信感を買ったという。…
    230キロバイト (37,826 語) - 2024年9月30日 (月) 12:20
  • 白山比咩神社のサムネイル
    行等を存知る可し。造営の事、都と鄙(=田舎)は奉加に勤め、再興の功に励み神妙なるべしの旨、天気候う(=天皇の思し召しなさる)所なり。仍って執達 (くだん)のし。 寛文6年(1666年)3月朔日 右中辨(光雄)(捺印)  (宛先)白山七社惣長吏法印御坊」 ^ 同「綸旨」…
    86キロバイト (14,302 語) - 2024年9月26日 (木) 19:58
  • 善之聖猷哉。爰退治凶徒、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道之軍勢企上洛、可令守護天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛督殿 241 慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事 左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮